「あの、ちょっとすみません」

 昨日から降雪が続いているアーリグリフ城下町の一角で、エリーゼは呼び止められた。雪よけのためポンチョの黒いフードを目深に被っており、その声の主に振り返っても顔が確認できなかったので、彼女は片手でフードをずり落として、自分を呼び止めたその人物を見上げた。声の主はそこそこ背の高い男性だったが、黒いマフラーと帽子に顔を埋めていて、どこの誰かということは判断できなかった。マフラーと帽子の合間から、こげ茶色のような暗い色の瞳が彼女を見下ろしていた。
 エリーゼが、おそるおそる「なんでしょうか」と首をかしげると、男は淡々とした調子で尋ねた。

「アーリグリフ城というのは、あちらでしょうか」

 手袋をした指で、切り立った崖に埋め込まれたようにそびえ立つアーリグリフ城を差す。エリーゼは、丁度城のメイドの仕事のためにそちらに向かう予定だった。
 フードを取ったために睫毛が雪に襲われ、何度かぱしぱしと瞬きをしつつ、はいそうです、とエリーゼが頷くと、男は静かに後を続けた。

「入城するためには、許可が必要ですか」

 エリーゼは城の使用人として入城証明を受け取っているが、証明書を持っていない一般人に対しては、国は事前に理由付きの申し込みを課している。
 エリーゼはこくりと頷いた。

「はい。お城の入り口に門番がおりますので、局からの許可証を提示する必要があります」
「そうですか。あなたは、お城に務められている方なのでしょうか」

 不思議な問いをエリーゼは一瞬疑問に感じたが、自分が事情に詳しいということで気付いたのだろうと思い、

「はい」

 頷くと、男は、そうですかと相槌を打った。城を見つめたまま、それ以上何も言わなくなったので、会話が終了したのだろうとエリーゼが軽く会釈してその場を去ろうとすると、男は、あの……と彼女を呼び止めた。
 まだ何か用があるのだろうかと振り返ると、なぜか、男が間近に迫っていた。





「……ん?」

 ふと、机の正面の壁にかけてある、城が代々受け継いでいる古い時計を見上げた。時刻は、夕方前。最近は書類整理や調べ物が多いので、昼食で腹一杯になった後は城の執務室こもって仕事をしているのだが、昼食から夕方の間には、必ず城のメイドが部屋の掃除に訪れるようになっており、グラオはよくその時間に、城の使用人たちの様子を掃除に来た人間から聞くのが恒例だった。

(来ないな)

 最近は専らメイドのエリーゼが掃除に来るようになり――というのは、グラオがエリーゼを気に入ってしまい、王子アルゼイにこっそりと頼んでエリーゼが自室の掃除係から外れないようにしたためであった――グラオは毎日彼女が来ることを楽しみにしていたのだが、今日は係になってから初めて彼女が予定通りに来ない日だった。
 筆を置き、グラオは両手を組んで、うーんと背伸びをした。昼から延々とデスクワークだったので、肩がゴキゴキと嫌な音を立てる。壁の、無常に針が進んでいく時計を見つめながら、もしかしたら今日は彼女が休みの日かもしれないと考えたが、五日にいっぺん使用人の休みがあるといい、彼女のその休みはおととい訪れたばかりである。もし病気等で急に欠勤となったとしても、代わりの者が来るはずだ。あるいは、部屋の係の者が変更になったのかもしれないが、それならアルゼイから事前に連絡があってもいいはずだし、この場合でもやはり代わりの者が掃除に来るはずである。
 考えるより訊くが早いと、グラオは仕事中の机をそのままにして、椅子から立ち上がってドアの方へ進んだ。出入り口に掛けてある黒いロングコートを肩に引っかけてから(城の廊下はかなり寒いのだ)部屋の外に出ると、丁度掃除用具を両手に持った使用人の女性が歩いていて、グラオは彼女を呼び止めた。

「クレーエ! ちょっと訊きたいんだけど」

 はい?と、ようやく仕事が終わって一段落したといったふうに息をつきながら、クレーエは振り返った。彼女は使用人たちを取りまとめる壮年のお局で、グラオとは幼少時代からの付き合いである。

「なんでしょうか」
「エリーゼ、今日来てる?」

 エリーゼって誰だっけ、というように目線を上にしてから、彼女は、思いついたようにグラオを見た。

「ああ、あなたの部屋の当番の子?」
「そうそう。今日来てないんだけど」
「あら?」

 今日は休みじゃないはずなんですけど……とクレーエが口を尖らせるので、グラオは怪訝な顔をした。

「無断欠勤ってこと?」
「確かに今日は見てないわねえ。具合でも悪くしたかしら? でも無断で休むような子じゃないし、万が一あたしに直接言えない時は、他の使用人に欠勤の伝言を頼むようにさせてるのよ。今日は誰からもそんな言づてはなかったし」
「心配だな」

 口元に手を当てながらグラオは考え込んだ。彼女が住んでいる使用人の女子寮にいるのなら安心だが、アーリグリフ城下町にいるとなると、あまり治安がよいとは言えない国である、女子寮から往路の途中、何かに巻き込まれた可能性も少なくはない。
 グラオが深刻に考えているのを余所に、クレーエは、誰も掃除していないのならあたしが代わりに掃除しますよと、グラオが訝しげにしているのは使用人が掃除をしてくれないという不満からだと思い、いささか不機嫌そうにしてグラオの部屋へと入っていった。
 グラオは、しばらくひとりで床を見つめて考え込んでいたが、ふと目を上げると、城内を足早に歩き始めた。





 最近は暗くなるのが早い。外に出ると、城下町は薄暗く、降雪が激しくなっていた。コートの前を締めてフードを被り、革のブーツでさくさくと除雪された道を歩き始めると、なぜかいつもより城の出入り口付近が騒がしかった。
 いつもは城の門の前にいるひとりの門番が、慌てた様子で町の人々と話をしているので、グラオは嫌な予感を覚えてそちらの方へと走り寄った。

「おい」

 呼びかけると、門番はハッとしたようにグラオに振り返った。

「グラオ様!」
「どうした」

 グラオが尋ねると、門番は、グラオを街灯の少ない薄暗い路地の方へと導いた。普通は夕方から夜にかけての寒さのために外に出てこない、厚着をしている町の者が数人、騒然とした様子で路地の隙間に佇んでいるので、何か事件があったに違いない。
 門番に導かれるままに路地の奥へ行くと、そこには城の兵士が数人、一人の人間を運び出すために担架を広げている最中だった。
 グラオは、蒼白になりながら案内の門番を通り過ぎ、兵士たちに近づいた。

「何があった」
「グラオ様! 何やら女性が行き倒れになっていたようで」

 兵士の返事を最後まで待たず、グラオは雪の上にうつ伏せになって倒れている人間の、顔を隠していたフードを手で払った。そこから現れたのは、さらさらとこぼれ落ちる銀髪と、異常な蒼さになった肌の色だった。
 グラオは、その人物の正体が分かると、咄嗟に声を上げた。

「エリーゼ!!」

 グラオは彼女を抱き起こすと、ぐったりとして意識を失っている彼女の頬をぺしぺしと叩いた。人間には有り得ない冷たさが、グラオの指先を襲う。エリーゼは目を固く閉じ、口を半開きにして、全く返事をしようとしなかった。いつもの赤い唇は、その色の口紅を塗ったように、紫色に変色していた。

「グラオ様、そちらのご婦人は?」
「城の使用人だ」

 兵士の問いに口早に答え、グラオは自分のコートを脱いで彼女の身体をくるむと、抱きかかえたまま立ち上がり、近くにあった民家の玄関を見つけると、そこまで走って戸を乱暴に叩いた。

「誰かいるか!」

 絶叫にも近い声で呼びかける。すると、驚いた様子の住人の男が、玄関の扉を開けた。

「は、はい?」
「女性が凍死しかけている。暖炉を借りるぞ」

 返事を待たず、グラオは部屋の中にあった大きな暖炉の前まで進むと、そこにしゃがみ込み、コートにくるんだ彼女を床に寝かせた。コートを開いて彼女の雪に濡れた服を脱がし、裸にすると、グラオは自分の全身を使って彼女を懐に抱きしめ、前屈みになった。

(死ぬなよ)

 強く祈りながら、グラオは目を閉じる。

(死ぬな)

 彼女の肌の冷たさが全身に伝わり、グラオは、まるで自分も共に死んでいくような感覚に陥った。大切な命が、懐で、今にも消えようとしている。
 もしかしたらエリーゼは既に凍死しているかもしれないと、グラオは考えたくなかった。このアーリグリフでは、何かの事故で雪に埋もれて凍死する者が希ではない。人間の色でなくなった者を運び出したことも、数え切れないほどある。
 彼女もそのひとりになるのだとは、信じたくない。せっかく見つけた“そのひと”を失うなど、グラオには、考えられない。

(俺は、君を幸せにしたいんだから)

 闇の中、狂おしいほどに、この命が助かるのならば自分の体温が彼女に全て渡ってしまってもかまわないと祈っていた。