「……グラオ、様?」
細い声が、自分を呼ぶ。薄暗い部屋、目を閉じてうつむいていたグラオは、ハッとして椅子から立ち上がると、ベッドの中を覗き込んだ。
血の色をした瞳が、サイドボードに置いた蝋燭の炎に照らされて瞬いているのを目撃し、グラオは顔面いっぱいに今にも泣きそうな笑みを浮かべた。
「エリーゼ……!」
「ここは……」
一体どこでしょう、と目だけでゆっくりと部屋を見回すエリーゼに、グラオは、彼女の片手を握ったままで答えた。
「ここは、君が倒れていた近くの民家だ。雪の中、君が移動するのは危険だから、一晩だけ寝室を借りている」
「倒れた……? 私、倒れたのですか?」
目を丸くして、グラオを見つめてくる。グラオは頷き、先ほどまで座っていた椅子を引き寄せて、そこに腰を下ろした。
「雪の中で倒れていた。凍死寸前だったんだ」
「そう、なのですか」
「何か覚えているかい?」
グラオは疑っていた。ベッドで昏々と眠るエリーゼを看病しながら、グラオは、なぜ彼女が誰かに襲われなければならないのかを考えていた。エリーゼが倒れていた場所は、女子寮と城とを結ぶ道ではなかったのである。エリーゼが寄り道をして発作等で倒れたのなら話は別だが、何者かに襲われ、人通りの少ない雪の路地に置き去りにされたと考えるのが自然だ。そもそも、気を失ってから発見されるまでの時間が経ちすぎている。
エリーゼはグラオの問いにしばらく考え込み、あ、と小さな声を上げた。
「……あの。あまりよく、覚えていないのですが……」
「うん、なんでもいいから、覚えている範囲で言って」
「お仕事のためにお城に向かう途中、男性の方に話しかけられた気がします……」
「男性?」
どんな人だったかとグラオが訊くが、エリーゼは困ったような顔をしてかぶりを振った。
「よく分かりません。マフラーと帽子で隠れていたので……」
「そうか。何を訊かれたんだい?」
「アーリグリフ城に入城することはできるか、と」
「……」
「あと、私がアーリグリフ城で働いている者かどうか、だったような……
他にも話しかけられた気がするのですが、その後のことは、覚えていません……」
グラオは、目を伏せて考え込んだ。もし帽子とマフラーが顔を隠すために使われていたとしたら、話しかけた対象であるエリーゼに顔を知られたくないためにそういった格好をしていたのだ。そして、アーリグリフで働いている者かどうかを確認するということは、エリーゼが城の使用人もしくは関係者など、城の内部に通じている者であるかどうかを知りたかった、あるいは確かめたかったということだ。初対面で、単に道を知りたい者や入城の方法を知りたい者が尋ねることにしては少し不自然である。
何かをたくらんでいる他国の者がアーリグリフに来たということも考えられるが、そこでエリーゼのような一般人を標的にする意味が分からない。ひとりが道ばたで凍死したくらいで、アーリグリフの者は天候に恵まれている他国の人間ほど驚きはしないからだ。牽制の意味にもなりはしない。
一番考えられるのは、変質者の仕業である。エリーゼは、誰もが目を疑うほどの絶世の美女だ。しかし、エリーゼの身体に特に目立った外傷はなかったし、衣服に争ったような形跡もなかった。男に話しかけられた後の記憶がないとすれば、彼女は、数個の質問をされた後に、一瞬で気を失わされた可能性がある。
暗くなるまでどこかに拉致し、その後、路地に放置して凍死させるのが目的だったのだろう。
(もし、これが)
グラオは、エリーゼを見るために、ゆるゆると目線を上げた。
(俺への牽制だとしたら)
グラオは腰を起こすと、エリーゼに顔を近づけた。エリーゼは息がかかるほど間近になったグラオを見て、ぴしりと硬直した。
グラオはそのままエリーゼに迫ると、その唇に口づけをした。未だ自分よりも冷たい唇が、こちらの体温をゆっくりと吸収していくようだった。しかし、それでもかまわないと思った。もし彼女が生きてくれるのならば、全身の体温が奪われてしまってもかまわなかった。
何度か彼女の唇を吸うと、グラオは、力が抜けたようにエリーゼの首もとに顔を埋めた。エリーゼは、驚きのために動けなくなっているらしく、グラオの動作に何一つ抵抗しなかった。
グラオは、掠れた声で呟いた。
「君が、死ぬかと思ったんだ」
出た声が、あまりにも悲痛で、グラオは自分で苦笑してしまった。
「……恐かった」
エリーゼの髪を片手で撫でながら、グラオは、エリーゼの首と髪の香りを感じていた。
この国の、雪の香りがした。
グラオは、アーリグリフ城の一角、物見の塔を上る螺旋階段の途中で、立ち止まっていた。彼の見上げる先には中年の男性が一人いて、いささか強ばった面持ちで同じく立ち止まり、グラオのことをじっと見下ろしている。赤毛と深い茶色の瞳を持つ、神経質そうな痩せた頬の男だった。
「はあい、ラスター伯爵」
片手を上げて挨拶をし、グラオは壁に背をもたれながら、男に向けてにっこりと笑った。ラスターと呼ばれた伯爵は、ぎこちない笑みを口元に浮かべてみせた。
「……ご機嫌よう、グラ」
「この国で」
ラスター伯爵の言葉を遮り、グラオはじっと自分の足下を見つめて、腕を組んだ。
「濃い茶色の瞳を持つ人間は滅多にいない」
グラオのその低い言葉に、ラスター伯爵は小さく後ずさりした。グラオはそれに気が付いたが、反応せずに後を続けた。
「なぜなら、この国の出身者は、陽が当たらないために色素が薄い者が多いからだ。この数百年の間、シーハーツ地方からの移民である我々の身体も多少変化してしまった。
さて」
グラオは目を上げて、笑みを浮かべたまま、ラスター伯爵を見る。ラスター伯爵は表情こそ冷静なものの、グラオから放たれる殺気を感じて逃げ出す方法は考えているらしく、時折視線があさっての方向を向いていた。
グラオは壁にもたれていた背中をトンと勢いをつけて起こし、軽い嘲笑を込めつつ、続けた。
「この国で、“貴族”で、濃い茶色の瞳を持つ人間は、あなたの家系しかないということを知っていたかな?」
ち、と小さな舌打ちが聞こえたと同時、ラスター伯爵は腰の剣が扱いやすくなる広い上層に駆け上ろうとした。しかしその直後、タンという踵が床を蹴る音がし、鋭く長い切っ先が、ぬっとラスター伯爵の背後から現れた。
グラオに衣服の背中側を捕まれ、首にカタナを当てられて、ラスター伯爵は全く身動きできなくなる。
「あなたが何を考えているのかは知れないし、俺にとっちゃあどうでもいいことだが、私の代わりにか弱い女性を標的にするということは、由緒正しき貴族にしては、いささか手荒い真似だとは思いません?」
強い殺気からは想像できない、妙に陽気な声が耳元のすぐ傍で響き、伯爵の額から汗が流れた。
「……」
「ま、私にも貴族の血は入ってはいるが、貴族という承認は受けられないくらい、あなたよりずっと血は薄いのでねえ……」
つ、と、伯爵の首筋から血液が流れ始める。痛みを覚えてラスター伯爵は眉をひそめたが、グラオがぎりりと服を掴む背中に力を込めてきたので、何もできなかった。
「だからね、ラスター伯爵。私は、お偉い貴族の方々がコソコソ企てるようには、お綺麗には報復できないんですよ」
報復という言葉を耳にした伯爵の身体が固まった。グラオは目を光らせながらニイと笑い、服を掴んでいた手をラスター伯爵の首元まで移動させると、後ろから力を込めた。
「ぐ……」
「私や父にご用ならば、直接言ってくださいませんか?」
「……」
「――俺を甘く見るなよ」
グラオは、浮かべていた笑みを消した。身も凍るような低い声が、螺旋階段の部屋でひっそりと響く。
「もし今後、あなたやあなた側の者が俺の周囲に手を出したら、あなたの脳天を突き刺して塔の上に飾ってやろう」
言い放ち、グラオは首もとを掴んでいる手に力を込めて、男を硬い段の上に突き放した。階段の角に頭をぶつけ、ラスター伯爵は額に手を当てて呻き声を上げる。
グラオは冷たい瞳で伯爵を見下ろした後、にっこりと笑って、
「ではではグッバイ、ラスター伯爵、以後お気を付けて」
陽気に言い、階段を軽い足取りで下りていった。
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