「へえ、ここがあんたの部屋」

 ただでさえ明かりの少ない城内、いっそう暗い城の廊下を進み、たどり着いたのは、アルベルの狭くもなく広くもない自室だった。無言でネルを連れてきたアルベルは、部屋の中に入るなり暖炉に火をつけ、着ていたコートと義手をバラバラと脱ぎ捨てると、深い溜息をついてベッドの縁に腰掛けた。ネルは、初めて来たアルベルの自室を興味深げに見回していたが、物が極端に少ない部屋なのですぐに見終わると、男の妙な様子に気づいたらしく、暖炉の近くに立って心配そうな声をかけてきた。

「疲れた?」
「てめえ」

 くしゃりと前髪を握り、アルベルは唸った。

「お前、どこにいたんだ」
「え? 屋根だけど」
「ああ?」

 顔を上げる。

「いなかっただろ、お前」
「いたよ。でも、あんたの姿が見えないから、どうしたんだろうと思って。いつもの所に行ってみたら足跡が残ってたから、近くにいるんだろうなと屋根の上をうろうろしてたんだ」
「いつ、あの屋根に来た?」
「……少し、遅れたかもしれない……」

 ネルの恐縮そうな言い草に、アルベルは脱力した。何なんだ一体……と更に文句を言ってやりたい気持ちをどうにか抑えて、開きかけた口を閉じる。
 ネルは、雪で湿ったコートを脱ぎ、乾かすために暖炉の前にそっと置いた。

「てっきり、あんたの部屋だから散らかってるのかと思ったけど、そうでもないみたいだね」
「お前」

 遮るように、アルベルが、

「お前、結婚は?」

 嫁いだんじゃないのかよ、という含みで訊くと、ネルは少し困ったように笑い、暖炉の前にしゃがんで、両手を火にかざした。

「断った」
「なぜ」
「断り……たかったから」

 ぼそりと呟くネルの横顔が、暖炉に照らされてぼうっと浮かび上がる。彼女に憔悴している様子がないことに、アルベルは密かに安堵した。

「あの後、ファリンのところに行って何度も謝った。ファリンは私のことを想って言ってくれたのに、私は見当違いなことをしたって。あの子は優しいから、すぐに許してくれた。でも、それだけじゃ気が済まないから、ファリンに私の頬を引っぱたいてくれって頼んだ。ファリンは黙って頷いて、私より数倍大きな力で平手打ちしたよ。
 で、私が"嫁ぐのをやめようと思う"って言ったら驚かれて、叩いたことを何度も謝られた」
「……」
「ファリンが」

 ネルは、穏やかな微笑を浮かべた。

「早速、その件をタイネーブたちに話した。そしたら、みんな話に乗ってきちゃって。この段じゃ結婚したくないと断るのは単なるわがままになるし、役人たちは当然許してくれない。ちょっとしたいざこざでも国の決裂になりかねないから」
「女王か」
「そう」

 視線を暖炉からアルベルに移し、いたずらっぽく肩をすくめる。

「陛下も実際は反対派だったみたい。話をしたら受け入れてくれたよ。結婚の段取りの打ち合わせで使者がやって来て、女王陛下や私と面会したとき……陛下、何をしたと思う?」
「さあな」
「泣いた」

 暖炉の薪が燃え上がり、静かな部屋にパチンと音を立てる。

「陛下が泣いたんだ。これまで従順に国に仕えてきた者だから、やはり行かせたくない、この話はなしにしていただけますか、と。使者も必死だった。うちの役人も出てきて、長いあいだ言い争いをしたけれど、陛下は強かった。急に覆されたものだから、向こうの使者も牽制じみたことを言っていたよ。金属のみならず他の品物の税率の話もね。国交についてはもっぱら役人たちがやり合っていたけど、だんだん雰囲気が険悪になってきて、らちが明かないから使者は一度出直してくるということになった」

 ネルは、ふっと笑みを消し、物思いにふけるように炎を見つめた。

「……ラルレ、が。
 王子が。
 もういいと、言ったらしくて」

 ネルの声が少し震えていることに、アルベルは気付く。

「私に、言ってきた。手紙で……」

 あなたには想う人が、別にいるのですね

 アルベルは、目を伏せた。
 ラルレという王族の名を聞いたのは、実は今回が初めてではない。アルベルも国の主要な地位にいる人物なので、外国についてはそれなりに勉強しなければならなかった。ラルレは年齢のわりに思慮深く賢い人間として評価が高いということを耳にしたことがあり、確かに、先日ネルと並んでいる様子を見たときも、容姿はまだ幼いが、凛とした佇まいが王族としての風格を表しているとアルベルは感じていた。
 きっと彼も悟ったのだろう。ネルが苦しんでいることを。お忍びで来たというのは、もしかしたらネルの気持ちを確認するためだったのかもしれない。

「いい奴だな」
「……うん」

 頷き、ネルは両手を口に当てて、息をついた。目が潤んでいる彼女を見てアルベルは思う。
 ネルは、自分を責めている。今回の件で、シーハーツとラルレの国の関係に、ちょっとした亀裂が走ってしまった。彼女は罪に感じるのだろう。そうやって後悔されるのが、アルベルは嫌だった。きっと、どの道も正しくて、どの道を選んでも後悔したのだろうが。