「アルベル様」

 アルベルは、城の暗い廊下で立ち止まり、気怠そうに振り返った。後ろに城の兵士がひとり立っていて、手にはトレイにのった細身のワイングラスがある。

「寝酒はいかがですか?」

 アルベルはぼりぼりと頭を掻くと、どうするかな……と小声で言いながら兵士に近づいた。中に入っている赤く透明な液体を見つめ、少し考えたが、

「今日はいい」

 と短く言って、兵士の横を通り過ぎた。普段、断らないことが多いので、兵士は返事に少し驚いたようだった。

「あ、アルベル様? コートを着て……見回りですか?」
「いいや」

 上半身だけひねり、手に持っていたランプを掲げると、

「俺がこんな上品なもん持って見回りに行くわけねえだろ」

 アルベルはうっすら笑みを浮かべながら、そのまま前を向き、すたすたと城の外へと向かっていった。
 残された兵士は両手でトレイを持ったまま、目をぱちくりさせてアルベルが消えた方向を眺めていた。





 アーリグリフの夜は、極寒である。外に出ていると凍え死ぬので、夕方から人通りは極端に少なくなる。出歩くのは、見張りや見回り頼まれた騎士団の人間だけだ。つまり彼らは命懸けで防衛に当たっているのである。
 雪が積もっているので、足下にも注意しなければならない。夜道で、時たま人が転がっていることがある。氷が張ってしまった所に足を踏み入れ、滑った際に頭を打って気を失う人間が少なくないのだ。そういうときの応急処置をしてやるのも騎士団員の役目だった。非常時以外の騎士団には、かなり雑用が多いのだ。
 コートの襟に顔を埋め、アルベルはランプを片手に、さくさくと雪の中を進んでいた。わずかな光に映し出されるのは、降り続く雪だった。今日は豪雪で、少し歩いただけで頭に雪が積もってしまう。降り始めたのが夕方だったので、道に積もった雪は、今のところくるぶしより少し上のあたりで済んでいた。
 除雪作業が大変なんだよな……と嘆息しつつ、アルベルは、いつもの屋根に向かっていた。アーリグリフの城下南に、約束の家の屋根がある(もちろん無断で登っている)。この豪雪を考えると、滑って落ちる可能性もあるし、屋根で落ち合うのは無謀かもしれない。ネルならそんなヘマはしないが――たまにするのが、彼女なのだ。
 アルベルは、その家の前まで来ると、右手にある路地裏に回った。そこには木の箱がいくつか積み重なっており、アルベルならば、二、三段足場にすれば軽々と屋根の上に登れた。
 眼下に広がるのは、家々の屋根だ。いつもならば屋根の塗装が比較的見えるのだが、今日は白い雪が分厚く積もってしまっていて、まるで雪原にいるような気分になる。足下を見ると、全く足跡をつけられていない雪が、ここに座ってはいけないと言わんばかりに、屋根を埋め尽くしていた。
 アルベルは辺りを見回した。

「……いないか」

 アルベルは、自分の言葉に薄く笑った。
 あれから三週間経ったが、シーハーツからの何の情報も伝わってはこなかった。それはおそらくネルが嫁いだということなのだろう。ネルはアーリグリフでも有名な人間だ。戦争中は要注意人物とされていたし、彼女と剣を交えた人間も少なくはない。
 そんな彼女が他国へ嫁ぐ。ただでさえ交流の深いシーハーツとアーリグリフである、有名な人間が異動したとなれば、その話はすぐに誰かによって広められるだろう。中にはアーリグリフからシーハーツに挨拶に行った城の人間もいるかもしれない。
 とにかく、伝わってこないということはありえないのだ。

(気を遣われたな)

 アルベルは屋根の雪を踏んでいった。ごうごうと耳元で雪が音を立てていき、他の音は全く分からない。細かい大量の雪が顔にパチパチと当たって、痛かった。
 そのうちアルベルは立ち止まった。不安定な足場だが、皮肉にも、積もった雪が自分の足をその場に固定してくれた。空を見上げれば、無数の白い雪が目に入り、鼻に入り、そして口に入った。

(嫁いでくれた方がいいからな)

 呼吸をとめた。
 ネルの中に、アルベルのために、があるのは、なんだかおかしいと思っていた。長いあいだ忌み嫌われていた結果なのかもしれない。もともとは、好き合うなど何だの言える間柄ではなかったのだ。一体ネルの何を必要として、どうして大切に想っているのかを問われれば、すぐに答えることはできないだろう。
 それでもひたむきに想ってしまうのは、彼女が自分と同じだったからかもしれない。人を殺めた罪を全身に纏い、手を鮮血で濡らし、一生誰かに恨まれる役目を担ったのは、アルベルも同じだ。罪に対する考え方は全く違うが、それでも、アルベルとネルは同じ罪を背負っていた。
 ネルは、優しい。フェイトたちと旅をしていて、彼女は自分とは全く異質な人間なのだと、アルベルは思った。命を投げ出す覚悟をしている人間が、不幸になるべきではないと思った。アルベルは、命を投げ出そうなどと微塵も思っていない。国のために戦うことはできるが、国のために死ぬ気はない。死ねと言われたら逃げ出すつもりだ。命がなければ人は生きてはいけないのだから。
 しかし、ネルは、その小さな心臓を国のために止められてもかまわないのだという。その言葉がどれだけに他人を悲しませるか本人も分かっていないわけではないだろう。それでも自国のために命を捧げられると彼女は繰り返す。そんな勇ましい女性に純粋に感心する反面、哀れに思った。ネルは、戦の恐ろしさをいまいち分かっていない節がある。シーハーツの人間は、みんなそうだった。アーリグリフのように貧困に喘いでいないため、苦労を知らない。死ぬということがどういうことなのか、よく分かっていない。戦場で立派に死ねる人間などいないのだ。皆、肺や目、腹や手足を切られ、バラバラとまるで物のように死んでいく。混戦になろうものなら、誰がどこで死んだかも知ることができない。剣に倒れ、仮に一命を取り留めたとしても、逃げる者と追う者が瀕死の人間を踏みつぶしていく。そのとき肺を破壊されて死ぬ人間もいるのだ。戦場で殺されて死ねればいい。あるいは、自害して死ねればいい。しかし、敵に捕まった時、どれだけ恐ろしい拷問があるか。ネルは女だから、一生忘れることのできない仕打ちをされるだろう。散々いたぶられて、やっと解放されると思った頃には、軽々と首をはねられている。
 そういった悲惨さを知らないまま戦に対する覚悟ができる人間は、いくらでもいる。
 その恐ろしさを知って戦から脱退した人間も、いくらでもいる。

「……ああ」

 アルベルは、息をした。相当長い間止めていたが、苦しくはなかった。昏倒することもなかった。
 そこに、立っているだけだった。
 これでいい。
 これでいいのだ。
 彼女は平和な場所に行った。
 もし戦争が起きても、王族の妻なのだから、周りの人間が精一杯守ってくれるはずだろう。
 彼女自身も強い。自分の身は自分で守れる。

「寒い……」

 ネルが自分と一緒にいることを望んだとしても、アルベルは快くは頷けない。
 自信が無いのだ。彼女を幸せにしてやれるという。
 彼女の姿が見えなくても、彼女と喋れなくても、彼女に触れられなくても、想うことはできる。しんしんと降り続く雪の中で彼女の面影を思い出すことくらい、罪にはならないだろう。
 この身体は罪でできていて、腕は、愛しい人をまともに抱きしめることもできないのだから。

「……ネル」

 呟きは、吹雪の中にかき消された。