長いあいだ泣きじゃくって、頭の中が朦朧としてくるのを感じたとき、背後で不自然に草が揺れる音が聞こえて、ネルはハッと背筋を伸ばした。ファリンだろうかと考えたが、彼女は賢いし、今回の件で上司に叩かれる覚えなどないのだ、追う価値もないと軽蔑しているはずだろうと、ネルは苦笑した。

「何してんだ?」

 声が聞こえ、ネルは驚いて振り返った。斜め後ろに佇んでいる人間の姿を目に留めて、なぜ、と思う。よく見知っている顔だ。目つきが悪く、瞳が血の色で、髪型が奇妙な背の高い男――
 なぜ彼がここに現れるのだろう。ファリンたちのボランティアも今日限りなはずで、彼の仕事は終わったはずだ。アーリグリフに帰ったのではなかったのか。もしシランドに留まっていたとしても、こんな暗闇の川原の木下で泣きじゃくっている自分を見つけることなど不可能だ。
 ネルの心の中の疑問を悟ったらしい、男は、ばつが悪そうにぽりぽりと頭をかいた。

「……俺は、気晴らしに来ていただけ、なんだが」

 どうやら、それは本当らしい。もしネルがここにいると分かっていて来ているのなら、こんなに動揺しないだろう。彼の態度や仕草を見ていれば、ネルには分かる。

「……で」

 のろのろと、ネルの方に近づいてくる。ネルは自分が泣いていたことに気付いて、涙を見られまいと、パッと顔を背けた。
 アルベルはネルの前にかがみ込みながら、気に入らなさそうに眉をひそめた。ズボンに仕舞っていたサラシを引き抜き、「使えよ」とネルに差し出した。川のせせらぎだけが聞こえる静寂だ。当然ばれている。
 男の前で情けない姿をさらしていることにネルは羞恥を覚え、体育座りをしている膝に隠すようにして顔を押しつけた。

「な……んでよ」
「なんでって、お前、泣いてんだろ?」

 サラシを突き出し、両脚を引き寄せているネルの手に押し付けた。ネルは手を動かそうとしなかったが、いつまでもサラシを持たせようとするアルベルに観念し、指先をもぞもぞと動かして、サラシの端をつまみ取った。
 途端、アルベルは手を引っ込め、その場にあぐらを掻いて座り込んだ。

「俺は、人間の気配に聡いんだよ。夜なら尚更」
「……」
「夜盗かと思ったぜ」

 アルベルの声音は、いつもと変わらずに落ち着いていた。
 ネルは受け取ったサラシで目を拭い、鼻を拭うと、目をアルベルに向けた。

「アーリグリフに帰ったんじゃなかったのかい?」

 アルベルは、ネルが問いかけた後しばらく沈黙していたが、ぼんやり川の方を見ながら静かに喋り始めた。

「ペターニで宿を取ってある。仕事が午後だったからな。夜が明けたら帰るつもりだ」
「……そう」
「もう帰ってもいいんだが、あいにく迎えがいねえから」
「迎え?」
「飛竜だよ」

 アーリグリフの疾風が使う生き物のことである。彼の国では、交通手段としても利用しているようだ。

「お前も帰れば? こんな所で泣いていたって意味ないだろ」
「な、泣こうと思って、泣いていたわけじゃない」
「泣こうと思って泣く人間はそうそういないと思うがな」
「反省してるんだ」

 ネルは、サラシを握り締め、髪で顔が悟られないように隠しながら、

「自分の馬鹿さ加減に腹が立った」

 吐き捨てたが、大して興味なさそうにアルベルは嘆息した。

「で? 泣くだけ泣いたら帰るのか」
「そうだ」
「おそらく、あのぼけぼけした女と張り合ったんだろうが」

 アルベルは、足下にあった小石を右手で拾い上げると、

「決着なんてつかねえだろうな」

 ぶん、と右手を振りかざして、川の方に投げた。石は、ぼちゃんと音を立てて、川の真ん中当たりに飛沫を上げて落ちた。

「俺には、どっちが正しいかなんてどうでもいいけどな」

 川からネルに視線を戻し、アルベルは言う。

「味方同士で喧嘩すんのが一番みっともねえぞ。さっさと帰って仲直りでもしろよ」
「……私は」

 ファリンとのことを思い出したネルの目に、再び、ふわりと涙が浮かんだ。

「私は最低、なんだ。いいや、もっとひどい。罪人みたいなものだ」
「……? なんの話だ」
「この手が」

 ネルは、地面に置かれた手を眺め、

「この手が許せない!」

 ダン、ともの凄い勢いで、握った拳を土に叩き付けた。草の根元と細かな砂に触れた皮膚から、ざり、と嫌な音がする。
 意味不明な行動を目撃したアルベルは、怪訝な顔をした。

「おい?」
「最低で」

 ダン

「愚かで」

 ダン

「みっともなくて」

 ダン

「罪深いっ!!」
「……やめろ」

 アルベルがネルの腕を取る。振り解こうとするが、男の力にかなうはずもない。右手で二の腕を掴まれ、アルベルの義手が、打ち付けた手の指先にそっと触れた。手の小指側の側面はすり切れ、じわじわと血が出ていた。

「無茶すんじゃねえよ」

 ネルの両目から涙がこぼれる。
 泣きたい時は耐えていた。人前で泣くのは最も恥ずかしい行為だと思っていた。ネル・ゼルファーは弱い女ではないのだ。女々しい人間であってはいけないのだ。いつだって信頼を背負っているのだから、他人に呆れられるようなことは耐え忍ばなければならない。
 そう思って、ずっと、自分の気持ちを押し殺してきた気がする。

「も……この、手、が……ゆる、せない……」
「この手がどうかしたのかよ」
「叩いた……わた、し。ファリンを。ファリンを」
「……」
「彼女は、正しいことを言ってた、のに……。悪くないのに、力任せに、ぶっ……」

 ネルは、掴まれていない方の手で自分の口を塞いだ。

「私は、なんてこと……なんてこと、してるんだ。みんなに迷惑かけて。ファリンにも、タイネーブにも、みんなに。みんな、私のことを守ろうと、必死だったのに。それが嬉しかったのに、私は、みんなの気持ちを踏みにじった。国のためだと、思ってたのに……」

 本当は、違ったのかもしれない。

「本当は、全部、自分のために……!」

 ネルは、自分の責任のために人の言葉に耳を貸さなかった。苦しいのは自分ではない。ファリンたちと、アルベルと、そして何も知らないラルレだ。一番大切に想っている人たちの気持ちをネルは最初から踏みにじっている。縁談話を受けた時点で、まず王子の心を。その後は同僚を。上司を。そして、最後にはこの男を。
 周りが反対しているのに、己の使命が大切だからと、知らずのうちに周囲の人間に深い傷を負わせていた。全ての人が幸せになる道はあり得ない。だからといって、自分の周りにいる人間の想いを贔屓するのもおかしい。
 そう考えて、ネルは自身の責任感から生まれる気持ちを尊重した。そうだ。
 自分は自分を守るために、周りの気持ちを犠牲にしたのだ。
 いつもそうだ。いつも自分自身を守りたがっている。英雄になりたいわけではないけれど、無意識にいい人になろうとしている。わざとそうしている人間よりたちが悪い。ファリンの言う通りだ。彼女にはネルの醜さがよく見えるのだ。ネルのことを心底慕っているから。

「あああ……!」

 ネルは、泣き叫んだ。

「謝っても謝りきれない! なんて詫びれば……私は、一体どうすればいいんだ!」

 答えが見つからない。
 今抱えている問題は、きっとどの道を選んでも正しいから。

「誰の幸せを願えばいいんだ……どうして国を想うだけで誰かが不幸になるんだ!」
「……」
「自分の本当の気持ちを選んだら、私は国のためにはなれないっ! 何を捨てて、何を想えばいい……」

 本当は結婚なんてしたくない。
 そう言うことが、自分にはできない。

「うう……」

 そのとき、黙って耳を傾けていたアルベルが、そっとネルの腕を放した。そして、

「……悪かった」

 と、小さな声で言った。
 ネルは、疑問に思ってアルベルを見上げた。だが、景色が涙でにじんで何がなんだかよく分からない。腕で目を拭い、もう一度アルベルを見やると、そこにあったのは男のひどく悲しげな表情だった。

「俺が、最初からいなけりゃよかったな」

 アルベルの呟きに、ネルは目を見開いた。

「俺がいなけりゃ、縁談は何事もなく進んだだろ?」

 違う。ネルは口の中で言った。無論、届くはずがない。とんでもないことを言われるのではないかと思い、ネルはかまえた。そして、止めなければいけないと思った。

「ちが……ち、が」

 唇が震え、上手く言葉にならない。そうしている間にも、アルベルは溜息混じりに続ける。

「俺がお前の側にいるからいけないんだ。お前の足枷になっちまっているんだろう」
「……う! 違うっ」

 ネルは必死に首を振った。

「ちが……違う、あんたは……悪く、ない。何も、悪くない。悪いのは」
「お前は悪くないさ」

 アルベルはふっと笑みをこぼし、彼にしては優しい口調で言った。

「お前はいつだって正しい道を選んでいると思うぜ。誰にでも正しいことなんて、存在しねえよ。どんなことだって、誰かにとっては間違ってるだろうし、誰かにとっては正しい。それは、立場とか、環境とか、性格とか、そういうので全部変わってくるんじゃねえの」
「……」
「今回のこと、俺は、お前が正しいと思うぜ」

 アルベルの言葉が、ネルの心に凛と響き渡る。
 唇が、震えた。

「お前はシーハーツが大事なんだ。俺が、アーリグリフを誇りに思うように。お前が自国を選んだところで、俺は、お前を恨みはしないさ」

 ――神さま。

「俺は、お前が、お前らしい選択をした方が、ずっといい」

 私は、なんと。

「お前が選ぶんだ。自分が正しいと思うことを」

 なんと、尊い男に愛されたのでしょうか。