ネルは暗闇の中を走っていた。
 身体に当たる風は、肌を裂くように冷たかった。
 洋食屋を出てからシランドの外に出るまで、ずっと走り続けている。闇に慣れた瞳が映し出すのは、シーハーツの広大な野原だ。そこは夜の静けさに包まれていて、動物の気配すらなかった。空は晴れていて、雲一つ無く、高いところできらきらと星が輝いている。
 ネルは走り続け、荒い息をしていても止まることをしなかった。何者かに追われているように、強靱な脚力で走り続けた。何度も土を蹴ったせいで足の裏が痛み出し、ふくらはぎが疲れで痙攣しているのが分かった。
 苦しかった。
 息が詰まって窒息しそうだった。
 胸の奥が焼けただれているかのようで、苦しみからだろうか、両目からは涙が出ていた。そのせいで足下が見えず、途中石ころに足を引っかけてしまい、前のめりになった。
 それでもどうして自分は走るのだろう。
 どうして逃げようとしているのだろう。

「っ……」

 嗚咽が漏れた。溜まった涙がぼろりと頬を伝い、こぼれていく。

「うっ……」

 泣くなんて情けない。
 自分は一体、何をしているのだろう。

「うっ……うう」

 自分は一体、何をしてしまったのだろう。
 走っているうちに川のほとりに着いた。静かに波打つ水面が広がって、天から下りた星が輝いている。立ち止まると、ネルは川岸にあったそれほど大きくない木の下に行き、その幹に背中を預けて、地面に座り込んだ。膝を引き寄せ、その上に自分の額を載せる。呼吸が定まらないまま、顔を伏せて、腕で脚を包む。

「……」

 泣いている自分が許せなかった。しかし涙は止まらなかった。ならばせめて声を殺して泣こうと思い、血が出そうなほど唇を噛みしめていた。
 手のひらがジンジンと痛んでいる。先ほどの衝撃が忘れられない。

「う、う……」

 自分はこの手で、大切な人間を叩いた。
 部下に暴力を振るう上司なんて最低だ。感情にまかせて頬を引っぱたくなんて。ファリンは正しいことを言っていたのに。
 それでも彼女を許せなかったのは、自分もきっと正しいことを言っていたからだった。
 呼吸が少し落ち着いた頃、ネルはゆっくりと顔を上げて、目前に広がる川を見つめた。川は穏やかに流れている。涙に反射した星の光が、目元でキラキラと輝いている。
 ――最初から、嫌だと言えばよかった。

「ファ、リン」

 彼女は正しいことを言っていたのに、自分は心を閉じていた。誰から正論を突きつけられても、いっさい受け入れないように。
 だが誰も間違ってはいないのだ。ファリンの言うとおり、己の気持ちを大事にすることも大切だろう。しかし、役人たちが言うように、身を犠牲にしても守るべきものもある。ネルは後者を選んだ。後者を選んだことによって、不特定多数の人間の未来が、少しだけ豊かになるのだった。少しだけ豊かになることは、並大抵の努力では遂げられない。自分が嫁ぐだけで国が利益を得られるのなら、それを選ぶのが最良だろう。いや、当然なのだろう、ネル個人の事情を知らない人々にとっては。
 誰もが幸せになる方法など、ありえない。それは、どの道を選んでも不幸になる人間が出てくるということだ。

「わ、たしは……」

 本当にネルのことを好いてくれているのならば、アルベルが今回の出来事を悲しむだろうとは痛いほどに分かっていた。
 それでも、ネルはアルベルを選べなかった。

 アルベルの気持ちを潰すだけで済むならそれでいいやとでも思ったんですか?

 そうだ。
 思った。
 国の幸せとアルベルの幸せを天秤にかけた。
 当然、重たいのは国の幸せだった。
 だから、国を選んだ。
 そうすることしかできないのだ。愛する人を真っ直ぐに愛せないほどに、この心には様々な想いが渦を巻いているのだ。
 自分は、そういう人間なのだ。

 自分を幸せにできない人間が、他人を幸せにできるはずないじゃないですか

 そうなのかもしれない。自分自身を幸せにしようとしていないのかもしれない。「それはいくらなんでも身を挺しすぎだろう」と自分でも思うことがある。やりすぎていると。そこまでしなくていいと。やはりあるのだ、自己犠牲がいきすぎていると感じることが。
 けれど、だめだ。どうしてもだめなのだ。何かと天秤にかけては自分をないがしろにしてしまうことの方が多い。いや、そればかりだ。いつも捨てるのは自分だった。犠牲になれば誰かが救われることのほうが多かった。そういう人生しか歩んでこなかった。
 ネルという人間は、もはや、そういう人格でしか生きられないのだ。どうしようもないのだろう。変えられるなら変えてしまいたいのに、自分の精神が、身体が、決してそれを許さない。

「本当は……」

 顔を歪めて、ネルは夜空を見上げた。
 女の悲嘆など知らない空は、相変わらず綺麗で。

「本当は、誰も……
 誰も、幸せになんてなってなかったのかなあぁ……」

 ネルは、悲しくて悲しくてどうしようもない小さな悲鳴を上げた。