「……ファリン……」
背後から呼び止められ、ファリンは肩を震わせて顔を上げた。戦闘装束姿のネルが、ゆらゆらとこちらに近寄ってくる。なぜ彼女がここにいるのだろうと、ファリンは首をかしげた。
ここは、ファリンお気に入りの街の洋食屋である。昼間は仕事のため来ることができないので、業務後にここで夕飯を済ませている。
ファリンはクリームシチューをすくっていたスプーンを置き、立ち上がってネルに向き直った。
「ネル様、どうされたんですかあ?」
ネルはなんの反応も見せず、ファリンに近づくと、正面の席に断りもなく座った。しばらくネルが動かなかったので、ファリンもそっと腰かけた。
「ネル様、この洋食屋さんご存じだったんですねえ」
「タイネーブから聞いた」
「あ、そうなんですかあ。ここの料理、すっごく美味しいんですよお。ネル様お夕飯はまだですよね? オムレツ、頼んでみてください、ふわっふわで本当に美味しいんですう。あっ、クラムチャウダーもどうですか? 塩加減が本当にいいんですよお。魚介もたくさん入ってるし、パンもおまけで一切れ付いてきますう」
「……」
「どうしたんですかあ?」
首をくりんと傾けて名を呼んだ瞬間、ネルの鋭い視線がファリンに食らいついた。
「あんた……よくやってくれたわね」
「えっ?」
なんのことですか?と言わんばかりの勢いで問い返すと、ネルは低い声で唸った。
「どうして呼んだ?」
「……あ! もしかしてえ、アルベルさんのことですか?」
「お前」
ぴしゃりとネルが言う。ファリンの背筋に戦慄が走った。呼び方が変わったときは用心しなければならない。ネルは、本気で怒っている。
ファリンは、口を噤んだ。後の自分の仕事に関わってくる。下手なことは言えない。
ネルは、深い憎悪のこもった目でファリンをじいと見つめた。
「私のことを心配してくれるのはありがたいけどさ……心配したって何のためにもならないんだよね。お前は国に仕える戦闘員。そのことを忘れないでほしい」
「……」
「私が結婚することを喜んでくれないのかな、ファリンは。私は文句は言わないよ。お前がやったことは完璧だった。アーリグリフとの親交を深め、国の人間の誤解を解くきっかけを作り、子どもには護身術を教え、他国にアーリグリフとシーハーツの交流を見せつける。実に素晴らしいよ。頭が上がらない。王子も喜んでくれたしね。会話に困っていたから私も助かった。
私が謎なのは、アルベル・ノックスを呼んだことかな。幸い、よい働きを見せてくれたみたいだけれど、なぜ彼を選んだのか。ああ……そうか。彼は、我々からすれば要注意人物のひとりだったものね。今のうちに穏和なアルベルを利用した方がいいのか。なるほど、ファリンは本当に頭がいい。
ところでファリン、アルベルへの礼はどうしようか?」
「馬鹿にしないで」
ファリンは大きな声を出してネルを遮った。周り客がぎょっとして二人を見る。
「ネル様、分かってますよね。私も、タイネーブも、あなたの幸せを心から祈ってるんです。人の幸せを祈ることが、どうして悪いことなんですか? 私たちは国の戦闘員である前に、ひとりの人間です。国のためだけに生きている人間ではありません。自分たちの幸せのために生きています。自分を幸せにできない人間が、他人を幸せにできるはずないじゃないですか」
ネルは大した動揺も見せず、冷淡な様子でファリンを見つめている。
「ネル様は本当に愛国心が強くてご立派。でも、そこまで行くとなんだか病気みたい。みんな思ってるんですよ、そこまでして国のことを考えなくていいって。ネル様は、考え方がいちいち重いんですよ。
今回のことは、全て私が計画しました。別に悟られてもかまわないけれど、誰も反発できないような場面を作り上げたんです。私は、そういうのが得意ですから。
ネル様が許せないのは、黙ってアルベルを利用したことじゃない」
ファリンもまた、強い瞳でネルを見据えた。
「アルベルの心を傷つけたのが許せなかったんでしょ」
「そうだよ」
ネルは、はっきり言い返した。
「そうだよ。私は、それに猛烈に怒っている。あんたがあの時アルベルに何を期待していたのかは分からないけど、アルベルはそんな馬鹿な男ではない。国の軍事に携わっていて、重たい責を背負っている者だ。そんな人間が、私の前で恥を晒すと思うのかい?」
「私だって分かってました。アルベルが無難な対応をしてあの場をやり過ごすことくらい」
「なら」
「だったらなぜ、と思うかもしれません。理由は簡単です。ああでもしなければ、ネル様はアルベルと会ってくれなかったでしょ」
「会う必要なんてない」
「ネル様」
怒りで、身体が熱くなってくる。ファリンはこめかみが震えるのを感じながら、視線で相手の身体を貫いてしまうのではないのかと思うほど、ネルをきつくきつく睨みつけた。
「本気で言っているんですか? ネル様、本気で言っているんですか? もし今日会わなかったら、今後一切会わなかったかもしれないんですよ? 婚儀まであと少ししかないんですよ? ネル様が行ってしまったら、アルベルは二度とネル様に会えないんですよ?」
「あいつは私がいなくたって」
「バカなこと言わないでください……バカなこと、言わないで!」
感情の高ぶりで、目頭が熱くなってくる。こんな必死になっている女を目前で見ているというのに、なぜ彼女は表情を崩さずに平然としていられるのだろう。
悔しい。
「ネル様は、アルベルのことが好きなんでしょ。ずっと前、フェイト様たちと一緒にいたときから、ずっと。かわいそうなのはアルベルの方です。ネル様、ちゃんと分かってますよね? ネル様はアルベルが好きで、アルベルもネル様のことを大切に思ってくれている。私も、タイネーブも、クレア様も、エレナ様も、みんな、ネル様とアルベルが二人で幸せになってくれたらいいと願っているんです。なのに、どうして、どうして捨ててしまおうと思えるんですか?」
「……」
「アルベルは、国の壁を越えて、ネル様を選んでくれたんですよ!?」
「それでも」
ネルは、微塵も冷静な態度を崩さずに、呟いた。
「捨てなければならないときだって、ある」
ネルの冷たい声に、ファリンの怒りと悲しみは頂点に達した。
この人は、優しいのではない。
「ネル様の幸せって何なんですか?」
ネルは、自分のせいで誰かが不幸になるのをいつだって恐れていて、その不幸が大きければ大きいほど自分を許せなくなる人間なのだ。
「ネル様は、アルベルと一緒にいたくないんですか?」
だから、不幸を最小限に留めようと努力する。
「あの人、ネル様を失ったらどれだけ悲しむか分かってますよねえ!?」
ネルは、ふたつの幸福を天秤にかけ、どちらが重いかを正しい目で見極めてしまう。そして、いつだって幸せが多い方を選ぶ。それがたとえ自分の幸せでなくても、より多くの人が豊かになれるように。満たされるように。
その結果、彼女は選んだのだ。自分の国の人々の幸せを。
愛する男の幸せを犠牲にして。
「ネル様、最低ですよ!」
涙が溢れ、景色がにじんだ。鼻の頭が痺れ、唇が震え、声が裏返る。
「アルベルさんが不幸になればそれでいいって言っているのと同じです!」
「……じゃあ私は一体どうすればいいんだ」
耐えきれなくなったようにネルはテーブルを拳で叩き、声を張り上げた。
「自分の幸せのために国の利益を捨てろっていうのかい!?」
「ネル様ひとりで国を幸せにできるわけないでしょう!? みんなが協力してやっとひとつの幸せができるっていうのに、ネル様はいい人ぶって何もかも自分でやり通そうとするんです」
「いい人ぶる、ですって」
「こんなにたちの悪い良い人なんて見たことがない! ネル様はシーハーツの英雄にでもなろうとしてるみたいだわ!」
「――」
「アルベルの気持ちを潰すだけで済むならそれでいいやとでも思ったんですか?
……人のことをこんなに残忍に扱う女に愛された男が一番不幸よ!!」
バシッという凄まじい音が、ファリンの頬から響いた。
片手を上げたネルが、ファリンの前で、顔面蒼白になって震えている。
「……」
頬を叩かれたまま、ファリンは愕然としていた。こうまで言ったのに何も伝わらないのだろうかと、絶望で頭がくらくらした。
ネルは微動だにせず、息を荒げながらファリンを見つめていた。そのうち震えながら手を下ろし、顔を伏せ、ファリンの横を素早く通り過ぎた。店のドアが閉まる音が耳に入る。
近くにいた客が、おそるおそる、佇んだままのファリンに問いかけた。
「……お嬢さん、大丈夫か?」
ファリンは客の方を振り返り、
「……お騒がせして、ごめんなさあい」
涙目のまま、にっこりと笑った。
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