アルベルは、ペターニで宿を取っていた。
シランドは、王都ということもあり、物価水準がとんでもなく高い。アルベルはそれなりの地位を得ていることもあって、金欠人間というわけではないのだが、ウォルターから金の無駄遣いはするなと言われており、貧乏性が身に付いて離れないのだった。
そもそも宿など寝られれば充分だ。余計なサービスも食事も不要。かつてフェイトとマリアは宿を質で決めていたので、彼らの後ろでいつもイライラしていたものだ。当時、宿代は泊まる人間が各々払うことになっていて、定食屋のメシが一体何回食えるんだというバカ高い宿泊料金を突きつけられた時には、いっそ仲間を引きずって野宿でもしようかと考えたほど。
ちなみに、現在アルベルが取っている宿も、価格だけ見ればそれほど安いところではない。が、ペターニの中では安価で、もうここしかないと自分を納得させたのだった。今回は仕事なので経費で落ちるし、出張の手間もあって多少の贅沢をしても文句は言われないのだが、アルベル自身がそれを許さなかった。いつだって食糧難に喘ぐアーリグリフに対し、それは侮辱行為だと思えたからだ。
部屋は、それほど狭くはない。二段ベッドが置いてある、シンプルな素泊まり宿だった。アルベルは義手を外すと、どかっと下段のベッドに腰を下ろし、そのまま堅い布団の上に横になった。
深く沈黙する。
アーリグリフ王からシーハーツの子どもに体術を教えてやってくれと頼まれた時は、「顔に嫌だという文字が出ているぞ」と言われるほど嫌だった。なぜ自分がわざわざ他国に出向いて子どもの相手をしなければならないのだ、と。
何より、誰が自分にそれを望むのか分からなかった。どうせなら気のいい連中に頼めと憤ったが、どうやらアルベルという男は、シーハーツの人間からは未だ物騒な生き物だと思われているらしく、それについてアーリグリフ王もしばしば頭を抱えていたようだ。一般兵に比べれば当然、国内一といっても過言ではないほど目立っていたアルベルは、シーハーツ内で変な噂の流れ方をしたらしい。残酷で血も涙もない男だ、人をなぶり殺して快楽を感じているような人間なのだ等々。ゴシップを全部を否定できるわけではないのだが、アルベル自身は、かなり真面目に任務をこなしていたつもりだった。
一度「お前いっそ土下座して謝ってこい」と王に冗談で言われたことがあるが、自分がいくら謝ったところで、悲惨な現場を生み出した原因である戦争への恨みがあっさり晴れる人間がいるはずもない。忌み嫌われたアルベルはシーハーツの視界に入らないところにいるべきなのだが、隠れていては、シーハーツの歪の男への懸念はいつまで経っても消えない。だから、本当はアルベルという人間は残忍な男ではないということを示すという名目で、派遣という形でアルベルをシーハーツに寄越したようなのだが。
アルベルを指名したのであろう当事者を実際に見た時は、ああこの女ならあり得ると納得してしまった。
「女狐め」
あまり気の抜けない相手だとアルベルは舌打ちした。
寝返りを打ち、壁に顔を向ける。くすんだ灰色の塗料が剥がれかかっているのが見えた。
さて、これからどうしたものか。
ネルが来た時点で、自分の仕事は終わっていた。彼女が登場したのが絶妙のタイミングか、はたまた最悪なタイミングかは分からないが、もう、やることはやった。護身術と言っても、実際に身体を動かすのはタイネーブとファリンであって、アルベルはその指示や不審者役をやらされただけだった。遠路はるばる来訪した意味もさして感じられない内容だった。
さっさと帰ってもよいのだが 、 久々にペターニやシランドを訪れたのだ。少しくらい寄り道して帰っても怒られはしないだろうという、任務を下したアーリグリフ王への反発のようなものもある。
アルベルは立ち上がり、窓から外を見た。空は朱色に染まっている。もう日が沈む時刻だ。
不意に、子どもの笑い声が聞こえた。耳を澄ませてみると、行商の売り子の声、立ち話する町の人の声、犬の遠吠え、木の葉の擦れ合う音など、様々な音が行き交っている。
アーリグリフには、あまり無いざわめきだ。
言ってはならないような気がして、人前で口にしたことはなかったが。
アーリグリフは、暗い。
アーリグリフは極寒の地だ。山岳地帯に位置しているので、採れる農作物も少ない。そのため、人々は鉱山を掘り、牧畜を行いながら、質素な生活をしている。豊かで清潔なシランドとは正反対だ。あの国は寒く、悲しく、つらく、そして暗い。
わざわざ移り住もうなどという気を起こす人間はいないはずだ。国では軍事に携わることが誇りとされているため、必ず男子には兵役があるし、つらい訓練も待っている。あの国で生まれ育った人間は当たり前のことだから分からないだろうが、他の国に比べると、アーリグリフに住む人々の環境は相当に厳しい。長い苦役が待っている場所に、誰が赴こうと思うのだろう。アルベルは、自国を心から誇りに思っているが、他国の者がアーリグリフを厭うのも、無理はないと思っていた。
だから、本当は彼女など連れてきてはいけないのかもしれない。屋根の上で毛布にうずまる彼女の姿は、見ていてとても痛々しいから。
自分と一緒にいることが、彼女の利益になるとは思えなかった。
「……王子、ね」
ネルの隣りにいた、優しげで若い華美な王子。彼女とは年齢が離れすぎているような気がしてぎょっとしたが、服装からしても、相手の国はシランドとそれほど水準が変わらないように思える。王子がネルに惚れた云々はよく分からないが、両国の釣り合いが取れているからこそ、縁談も進んでいったのだろう。向こうの国は資源豊富だというし、シーハーツの受益を考えれば、女一人が嫁ぐことで済むというのは安すぎる話なのだ。ネルが縁談を受けようという決心をしたのは正しい。全体を見て物事を考えれば、アルベルからしても、彼女の出した答えはとても正しかった。
けれど、ならば、自分たちのこれまでは、一体何だったというのだろう。
アルベルは、幸せだった。屋根の上で語り合うあの時間が、とても幸福に思えた。甘い言葉を言い合っているわけではないし、身体に触れるわけでもない。ただ、同じ景色を見て、同じ空気を吸っている空間が、たまらなく嬉しかった。月に一回逢えるかどうかも分からないのに、ふたりは逢うことを諦めず、こっそりと夜中に屋根の上で話していた。
ネルが、側にいる。
ネルが自分に向かって話している。
手の届く場所にいる。
もしかしたら触れられるかもしれない。
そう思うことが、アルベルの幸せだった。たとえ壁で遮られていたとしてもかまわなかった。近くにいるということ自体が感謝すべきことだった。二国の経緯を考えれば、奇跡にも近いだろう。
国も、考え方も違うのに、なぜ、こんな遠くにいた二人が結びつくのか。
なぜ、誰でもないたったひとりを選ぶことができたのか。
アルベルは窓から下を覗いた。今いるのは宿の二階で、下には町の路地が見えた。花壇があり、色とりどりの花が咲き誇っている。子どもが走り、その後ろから犬も走っている。向こうの家から人が出てきた。空のバスケットを持っているので、買い物にでも出かけるのだろう。庭にいた隣人と目が合うと、互いに会釈して笑い合っている。それは本当に穏やかで泣きたくなるほど平和な風景だった。
自分たちの築き上げた安泰を、ネルは、いつだって目にしていた。その平和を守ることが、ネルの責任であり、おそらく全てなのだ。
そんな彼女を引き留めたいのだろうか。それで、ネルは幸せになれるのだろうか。
(分からない……)
アルベルは目を伏せて、薄暗くなる部屋の窓際に長い間、佇んでいた。
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