だがしかしなぜ彼がここにいるのだろう。

「……」
「……」

 ファリンに教えられた場所に行くと、そこは大盛況だった。日中なのでまだ陽は明るく、子どもたちとそれに付き合う大人が、草むらの至る所にいる。普段は上品で静かな街だが、こういったイベント自体が少ないので、行事がある際には、ここぞとばかりに人が集まるのだ。
 今日も然り。海の波のごとく、わんさかと人が集まっている。いつもと服装が違うので、ネルは「たくさんいたら嫌だな」と自分から言い出したくせに内心ウジウジしていて、人の多さを目の当たりにすると、ぶわっと背中に汗をかいた。
 ネルとラルレ、そして護衛が広場に着くと、民衆がわっと声を上げた。

「ネル様だ!」
「ドレス着てるよ」
「あの後ろの方は誰だろう」

 お忍びどころではない。ラルレもこの賑わいように、自分の状況を諦めたようである。
 一方、このときのネルには、ラルレを気遣う余裕はなかった。まずタイネーブ達が民衆の中心におり、何人かの子どもを集めて体術を教えているのが目に入ったが、そこにいるはずのない見慣れた髪の色が混じっていて戦慄した。最初は後ろを向いていたので「絶対に人違いだろう」と自分に言い聞かせていたのだが、その人物がこちらに振り向いた途端、ネルは硬直した。
 上司の姿を見たタイネーブは、子どもに技をかけたまま制止して、真っ青になっていた。腕の中にいる子どもが「痛い痛い」と悲鳴を上げたところでハッと我に返り、子どもを解放してやった。だが、その後もタイネーブはネルに視線をやったまま、ネルと同じように微動だにしなかった。
 ネルの横にいるラルレは、止まってしまったネルを見て、目をぱちくりさせている。
 しばらくの間、男はネルのことを見つめていた――が、そのうちに、動いた。近くに置いてあったカタナを腰をかがめて取る。
 彼が武器を持った瞬間、ただ者ではないだろう男の雰囲気に少し圧倒されていたラルレの護衛がどよめいた。

「あ、あの者は?」

 声を上げて、かばうようにラルレの前に身を置く。
 しかし、ラルレは、その護衛の肩をぽんと叩くと、にこやかに、

「おそらく、アーリグリフの者です。シーハーツの方に聞いたことがあります。確か――歪のアルベル」

 言って、真っ直ぐにアルベルを見やった。カタナを拾い上げたアルベルがラルレの視線に気付き、見つめ返してくる。
 すると、今度はラルレの後ろにいたもうひとりの護衛が、訝しげな声でささやいた。

「歪のアルベルと言いますと、危険人物ではございませんか」
「ええ。でも、ああやってシランドの者と共にいるということは、危害を加えるような人物ではないのでしょう」

 朗らかに笑い、ラルレは言った。その微笑みが自分に向けられたものだと思ったのだろう、アルベルは少しだけ頭を下げた。どうやら、アルベルは、この人間が王子だと気付いているらしい(それもそうだろう)。そのまま、ふたりは、何を言うこともなく見つめ合っていた。
 妙な雰囲気に、周りの民衆がなんだなんだとどよめき始める。ラルレの正体を知りたがる者があちこちで背伸びをしているのを見て、護衛が、再度ラルレに耳打ちした。

「ラルレ様。民が騒ぎ出しております。いかがなさいますか」
「かまいません。このまま見学させてもらいましょう。よろしいですよね、ネルさん……」

 ラルレが横を見やると、ネルは前方を見て止まったままだった。その瞳はアルベルを捉えている。穏やかな風に、さらさらと紅い髪が揺れていた。
 しばらくして、アルベルは、前へ歩を進めた。淡々とした足取りで、ネルとラルレの方に向かってくる。何やら意外な三人の組み合わせに、民衆の好奇心は高まる一方だ。
 アルベルは、ラルレとネルの間に止まった。何か言われるのだろうかとかまえていた二人だったが、アルベルはラルレに向って頭を下げ、形式的な挨拶をするだけだった。前髪が揺れ、結わえている後ろ髪が横に流れ落ちる。それから二人のそばを通り抜けて、無言でその場を去っていった。
 そのときネルは、少しだけ絶望した。
 ああ、やはり、と思い、目線を下げて草を見た。
 男は、違う国の人間だから、ネルにも、ラルレにも、公平な態度を取ることしかできない。もし、どちらかに何かを言ったら、その時点で、国と国との会話が始まったことになる。彼は明らかにそれを避けた。今現在アーリグリフとラルレの国は関係がないからだ。状況に相応しい、それでいて無難な態度をアルベル・ノックスは取った。
 もしかしたら、止めてくれるのかもしれない。そう思った自分が、ネルは心底、嫌だった。

「……ラルレ様。あちらが、私の同僚のファリンとタイネーブです……」

 ネルは、何事もなかったかのように、笑顔でラルレに振り返った。護衛たちはいささか不審そうだっが、主の態度に合わせようと思ったらしく、何か言ってくることはなかった。