暗い廊下である。
 足下は、壁に掛けてあるランプでしか照らされない。なので、ここを通る人間は大抵、自分のランプを持参する。しかし、アルベルのランプの火は既に消えていて、壁の照明が申し訳程度にちらちらと視界に入るだけである。気を付けなければ転ぶので、時々壁に手を置いて確認しながら前へと進んでいた。
 曲がり角は数えるほどしか無いのだが、廊下は、とにかく狭かった。城の人間も滅多に入ることのない秘密の通路で、しばらく行くと、真っ直ぐ行く道と右に曲がる道に分かれる。アルベルは、迷わず右に曲がった。曲がった先には、見慣れた木の扉がある。
 ドアノブに手をかけ、開ける。中は真っ暗だ。足場や家具に気をつけながら歩を進める。先には、暖炉があった。アルベルは夜目が利く人間なので、どこに薪やマッチがあるかは、入って数秒経てばすぐに分かるようになる。暖炉の左手にあった薪を暖炉に数本放り込み、マッチを擦って紙に火をつけ、薪の間に埋め込む。薪の先っぽを持って火にかざしていると、チリチリと燃え出した。それを確認し、アルベルはランプを暖炉の上に置いて、ゆっくりと部屋を見回した。
 アーリグリフ城に特別に設けられた、アルベルの部屋。大した広さはないが、家具が少ないので、狭くは感じなかった。あるのは木製のひとり用のテーブル、ベッド、タンス。それだけである。
 城の者からは「もっと明るくて過ごしやすい場所を用意する」と言われたが、アルベルは広い所が好きではない。それに、人通りが多い上階を寝床にするのは、居心地が悪くて嫌だった。
 部屋に備え付けのランプに火をつけようとしたが、面倒くさいので、やめた。
 暖炉の明かりのみでぼんやりと照らされる家具を一通り見てから、アルベルは、自分のベッドにゆっくりと腰を沈めた。

「……」

 床を見つめ、静かに呼吸をする。パチパチと、暖炉の中の薪が弾ける音が聞こえてくる。
 そういえばコートを脱いでいなかったと思い、アルベルは立ち上がってコートを脱ぎ、テーブルの隣にあるイスの背にかけた。それから、義手を外す。
 義手から出てくるのは、肘辺りまでを失った不自然な腕である。

「……結婚、だ?」

 アルベルは、微かな声音で呟いた。
 炎が大きくなり、ゆらゆらと部屋を照らし始める。テーブルに置いた義手を眺め、そのまま無言で時を過ごした。
 アルベルの心の中には、怒りと悲しみが存在している。理由は分かっている。確認するまでもない。悲しいのは失いたくないからであり、怒りはネルのいきすぎた義務感に対する嫌悪からだ。
 彼女は、いつもそうだ。自分より先に国や人。そのためになら自分を犠牲にしてもかまわないと思っている。心の中では厭だと思っていても、それを拒むことをしない。いや、「拒もうとした」とは言っていたか。彼女は、縁談が出たときに抵抗したという。それはそれで褒めるべきだろう。だが、しかし、そこで――

「そこで諦めた」

 やはり、彼女は、自分よりも人なのだ。
 自分の愛する国なのだ。自国のために生きているのだ。言われれば、命だって差し出すだろう。身体も、心も、必要だといわれれば何もかも、骨の髄まで全て。
 ならば、彼女を想う自分はどうなる。
 彼女が彼女自身を捨てているのならば、その彼女を想う自分も同時に捨てられたことになる。彼女は、そういうところに容赦ない。気付いているのかどうかは知らないが――アルベル・ノックスが犠牲になったところで、どうとも思わないのかもしれない。
 彼女は、関係を絶ちたがる。人との繋がりは多くない方がいいと言う。
 それは、自分も同じだ。戦場に出ている者ならば誰もがそう思うだろう。繋がりがあればあるほど悲しみは増える。憎しみも、不幸も、同情も。そういったものは妨げにしかならない。自分を弱くする要因にしかならない。
 ならば少ない方がいい。「最初から何も無い方がいい」。

「……くそ」

 互いに、戦う自分に対する想いを捨てられないのだ。武器を持つことを諦めない限り、自分の命を労りたいと思わない限り、愛する人と共にいることを選ばない限り。
 自分たちに、逢う理由は無い。
 この関係は細い糸のようなものだ。どちらかが軽く引っ張るだけで、プツリと切れてしまう。切られた方が気付くかどうかも分からないほど、その糸は弱く、そして無意味に近い。あっても無くてもいい。無い方が楽だと言えば、そうなのだ。

「そういう邪念は、振り払ったんじゃないのかよ……」

 途中まで失われた自分の腕を押さえる。声音は憎悪と言うよりも、落胆だった。
 上手くいかない。やはり上手くいかなかった。上手に想い合うことができない。
 自分たちは、似すぎていて、だからこそ、遠いのだ。互いに必要だと、真っ直ぐに伝えられればいい。お前が居なければ自分は生きていけないと言えればいい。
 だが、それは嘘なのだ。
 自分たちは、互いが無くても生きていける。力があるから、きっと巧みに生きていける。相手を失っても、心に悲しみの雪がしんしんと降り積もるだけだ。それだけで、それ以上はないのだ。決して態度にはせず、いつものように、いつもの自分で、己の国の中で役目を果たしていくだろう。
 アルベル・ノックスとネル・ゼルファーは、不必要な関係だった。

「無くてもいいってのか……」

 結婚の話はよく分からないが、彼女が他国の王子とやらと結婚すれば、一体何人の人間が救われるだろう。裕福になれる。時代が動く。全てが上手くいく。誰かと誰かの気持ちを無視したままで、時は動く。
 アルベルは、自分の腕を見つめていた。
 左肩から、包帯がぐるぐると巻いてある。それは肘の辺りまで来ると、不自然な形で止まった。肘から少し行った先は丸く、何も無い。
 アルベルはうなだれた。

「…………すまない」

 こんな腕では、愛しい人を抱きしめることもできない。