ヒュオ、と風が吹き抜けた。ひどく冷たい風だ。別のところでは雪が降っているらしく、空気が湿っぽい。寒さで鼻先が痛む。手足はとっくに凍えていた。息は白く、髪の毛は水に浸けたように芯まで冷えている。気をつけないと凍死する。そのくらい気温は低い。
「……」
ネルの言葉が、一体何を意味するのか初めは分からなかった。頭を働かそうとするのだが、強い北風のせいで凍りついてしまったようだ。ネルが小さなくしゃみをしているのを、心の隅っこで心配することしかできないまま、ただ、アルベルは停止していた。
止まってしまったアルベルを見て、ネルは少々困ったようだ。彼女はしばらく相手の言葉を待っていたらしいが、いつまで経っても音沙汰が無いので、足下のランプをぼんやりとした目つきで見つめていた。アルコールランプ。いつも液体を補充して持ってくるので、その火はあとしばらく保ちそうだった。この火が消える頃には朝日が昇る。その前には帰らなくてはいけない。ネルが馬車をうまく捕まえられればいいが、運が悪ければ徒歩になってしまう。アーリグリフからシランドまでの道のりは長い。しかも険しい。
沈黙し続けるアルベルにしびれを切らしたのか、ネルが口を開いた。
「貿易が盛んでしょう、シーハーツは。外交にも力を入れている。結婚というのは、その一環」
「……」
「施術によく反応してくれる金属の採れる小さな北国があるんだ。施術に耐えられる金属類はすごく少ないんだけど、そこのは特別に質が良くて、大量に輸入したいと思っている。でも、相手国が出し渋り始めて、とにかく値上げされちゃって、関税も馬鹿にならない。前から色々揉めていた」
「…………」
「シーハーツとしては、生活の質の向上のために、その金属がどうしても欲しい。停戦したからには平和的文化的な側面を発展させていきましょうという流れがあってね。このあいだ、交友を深めるという名目で、小国とちょっとした会議があってさ。私も参加してね」
ネルは、両手の五本の指をくっつけながら、前を向き、いつもと変わらない淡々とした調子で喋っている。
「自席の前に、その国の第二王子がいて、話しているうちに」
「結婚?」
唐突にアルベルは言った。ネルは振り返り、うん、と頷いた。
「惚れられた。第二王子、若いんだ。私よりも若い。向こう側は早々に結婚することがしきたりで、彼は理想が高いのか、遅い方だと周りから言われていたらしくて。私のどこが当てはまったのかは知らないけど、とにかく私を指名されたんだ」
「ま……」
アルベルは片手で額を抑え、もう片方の手のひらをネルに向けて見せた。
「待て。結婚?」
「うん。うちに来てくれないかって言われてね。私も断ったわよ。シランドを離れることはできませんって。
……でも」
ネルは表情に影を差し、目線をアルベルの胸元あたりに落とした。
「結婚すれば、国交が良くなる。散々揉めてた交易の話も、結婚を条件に」
「待て。それじゃ、お前、利用されてんじゃねえか」
「ある意味」
「ある意味も何もねえよ」
だんだんとアルベルの中に苛立ちが生まれ、極寒の地だというのに身体から汗が噴き出た。頭の中が煮えたぎっていて、今が暗くなかったら、こめかみに血管が浮かび上がってることをネルも気付いていただろう。
「お前が嫁げば、国交が良くなる。それだけだろ」
「それだけだけど、うちの十八番は施術なんだ。素材を手に入れられたら、開発が進んで、うちはもっと豊かになる」
「国の状況は良くなるかもしれねえが、お前は?」
「私?」
「お前は」
それで、いいのか。
アルベルが問いたいことはよく分かっているので、ネルは、それ以上言葉を続けなかった。うつむいている彼女の表情は無だった。アルベルは反応を見逃すまいと、必死になってランプの明かりを頼りにしたが、ネルが顔を伏せてしまい、声もなければ、動作もなくなってしまって、彼女の感情を読み取れなかった。
「国のためっつうのは分かるが、まさか、お前の上司や女王が許すはずないだろ」
あれだけ国に重宝されている隠密の女である。
「反対されなかったのかよ」
「されたよ」
低い声で、ネルは言った。
「特に、タイネーブたちからは散々。でもさ」
ネルは、ふっと顔を上げて、空を見た。アルベルがその表情をうかがおうとしたが、あいにく影になってしまってほとんど分からない。
「私の味方をしてくれるのって、実は、ほんの一握りなんだ。あんたはクレアや私の部下くらいにしか顔を合わせていないから分からないだろうけれど、私たちは軍人だもの。 交易とか、財政とか、政治的なことを司るのは城の奥に潜んでいる貴族たちだ」
「……」
「国のためになることが一番」
ため息混じりに吐き捨て、ネルは前屈みになった。毛布のかかった足先に腕を伸ばし、前屈する形になる。
「仕方ないかなと思っている」
「北国って……海の向こうだろ」
ネルの姿を見ていられなくなって、アルベルは視線を落とした。どうにも痛く心がきしんだ。
いや、つらいのは。
「うん」
ネルは、微笑しながら、暗い前方を見つめていた。
「シランドから、離れるんだ」
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