ふたりが逢うのは、決まって夜遅い時刻だった。
 その日は雪が降りそうな低い気温で、空を見上げると、濃い灰色の雲が空全体を覆い尽くしていた。外にいるだけでも空気が重苦しく感じる。
 逢わずにいられない理由は、一体何なのだろう。逢う必要など、本当は無いのではないだろうか。逢いたいのか? いいや、逢いたいと思ったことはない気がする。成り行き。これも違う。なんとなく。ああ、これが近い。

「あー……」

 女が、引き寄せた両膝の間に顔を埋め、呻いた。
 首には特有のマフラー。今は冬なので、戦闘服も冬物になっている。長袖、スリットの入ったロングスカート、編み上げブーツを身につけている姿は、彼女の上司であるクレアという女性を連想させる。似合っているが、あまり寒さを防ぐ役目は果たしていない。現に彼女は肩から大判の毛布を被って、この身も凍えるような気温にふるふると震えながら耐えていた。
 とにかく寒い。

「まあ、でも、あたしもねぇ」

 ずっと鼻をすすって、女はブーツの紐をいじくりながら呟いた。風邪を引きそうな勢いの女を見て、隣の男――人ひとり分空けて座っている――は、どこかの部屋に入って暖でもとろうかと考えた。しかし、それにめぼしい場所は無い。宿でも取ればいいのだろうが、ここは自分の国、しかもよくうろついている町の中とあっては、下手に女を連れ込むと騒ぎになる。連れ込む相手が相手だ。
 だから、彼らはここで逢う。
 屋根の上で。

「もう、いい歳じゃないですか」

 うっすらと笑みを浮かべながら、ネルは軽い口調で言った。その目は伏せられていて、彼女の睫が長いのがうかがえる。

「だから、こういう話もあるかなと思ったんですよ、いずれは」

 男は、時々、ネルを横目に見て、手に持っているブリキの缶の中の茶を飲んでいる。中身は温かい紅茶である。
 男は、いつもの涼しそうな、それでいて奇妙な格好――はしていない。冷感くらいはある。いつも出している太股はズボンによって隠されているし、上はハイネックのぴったりした長袖シャツを着て寒さを凌いでいる。その服装の上に、動きやすいコートを羽織っていた。どれも黒いので、黒ずくめだった。戦闘服にしてはどこかカジュアルな印象かもしれない。色々なところが取り外せるので、いざ戦闘になれば取り払ってカタナを取るだろう。この平和になった(とりあえず、だが)世の中では、カタナを抜くことも滅多にないが。
 それでもあえて戦闘服を着ているのは、武器を持って戦う人間だからである。

「ちょうどいい時期ですよね」
「なあ」

 黙って聞いていただけだったアルベルは、ブリキ缶から口を離し、低い声で、

「なんで敬語なんだ」

 やや不満げに、問いかけた。
 他の人々の声は聞こえない。彼らが喋っている時間帯は、皆が寝静まる真夜中である。たとえ昼間でも死角になる屋根に座っているのだが、夜中を選んでいるのは念のためだ。おかげで、アルベルとネルの逢瀬(実際そんな甘ったるいものではない)に気づく町の人間はいないようだった――いたとしても、わざと真っ暗闇の夜中に逢っている彼らを見れば、ああこれは秘密にした方がいいのだなと恐ろしくて声には出せないだろう。
 ネルは、しばらくの間、斜め横にあるランプを見つめていた。とても小さいランプで、しかも相当古い。使い込んだため金属の部分は少し剥がれていて、灯った火の明かりが、汚れたガラスで濁って外に漏れている。逢う時には、アルベルが決まって持参してくる。

「気味悪ぃよ」

 手に持っていた缶の蓋を閉め、アルベルはあぐらを崩した。片足を伸ばし、もう片方の足をその上にのっける。
 横にブリキ缶を置き、両手を後ろについた。

「まあ……元敵国の屋根の上でくっちゃべってる時点で充分、気味悪いけどな」
「そうだね。私も意味が分からない」
「俺もな」

 アルベルが深くため息をつくと、空中に白い空気が立ち上った。
 ネルは毛布を肩から引き降ろすと、今度は自分の両足を伸ばし、その上にかけた。

「……」
「……」
「寒くないの? あんた」
「別に」

 アルベルは、いつでもつっけんどんな態度だ。
 こんな寒々しい日にも、変わらず二人は逢っている。逢っている理由は分からないが、とにかく顔を合わせている。月に一回程度だ。わざわざネルはシランドから出向いて、真夜中に男の姿を探す。それも屋根の上で。端から見ればとんでもない不審者だ。不審者になってでも逢う理由があるわけではない。

「……あのさ」
「なんだ」
「夕飯って何食べてる?」
「……ああ?」
「ちゃんと食べてんの?」
「……」
「私、食べてないんだ」

 ネルの一言に、アルベルは少し戸惑った。

「……俺は食い物なんか持ってねえぞ」
「うん」
「普段は、ビスケットに、ミルクと」
「へえ、あんた、そんな可愛らしいもの食べてんの?」
「なんだよ」
「意外」
「悪かったな」

 横に置いたブリキ缶を指先でゆらゆらと動かしながら、アルベルは小さな溜息をついた。

「こう見えても俺は忙しいからな。偵察とか、会議とか、男共の剣の相手とか。朝から夜まで動いてることが多いんだ。メシなんかまともに食ってる暇ねえよ」
「ふーん……ま、私のところもそんなものだけどね。シランドって朝食が重たいんだ。私、小食だから、実際あまり食べない。でも、朝食を逃すとそれ以降はちゃんと食べられなくて」
「……へえ」
「昼はパンとスープ、夜は飲み物だけってこともあるし」
「……」

 ネルの言いたいことがよく分からず、アルベルは、眉をひそめて口を閉じた。

「料理は得意だから、自分で作るんだけど。でも、朝食も昼食も大した物じゃないな。ちゃんと作ってるとは言えないか」
「――なんなんだ」

 アルベルは、ブリキの缶を指で倒し、ネルを振り返った。

「なんなんだ、お前」

 問いかけに、ネルはランプから目線を外し、ゆっくりとアルベルを見やった。

「何って、何が」
「ベラベラベラベラうっせぇな。お前、そんなによく喋る奴だったか?」
「……あんたが喋らないから喋ってるんじゃないか」
「にしても、口数が多いな」

 アルベルは足を引き戻し、屋根の上にあぐらをかいた。屋根はひんやりと冷えていて、ズボン越しにもその冷たさが伝わってくる。
 ネルは、毛布の上で両手の指をもぞもぞと動かしている。ネルが何か戸惑っていたり困っていることを表すサインだ。本人は無意識のようだが。
 アルベルは尋ねた。

「何かあったか」
「…………」

 図星というように、ネルは黙った。いや、もともと隠すつもりは無かったのかもしれない。ただ、いつ言い出していいか分からず、先ほどからその機をうかがっていたのだろう。
 ネルは、隠し事が上手い。だから、アルベルは決してそれを見逃さないように、慎重にネルを観察している。指の癖を気付いたのもそのせいだ。発見するたび、アルベルは安心する反面、悔しいと思っていた。
 彼女は、完全に心を開いていないのだ。
 そんなものか、とアルベルは思うことにしていた。その程度の感情なら、それでもかまわないだろう。それほど情熱的な関係でもないし、互いに自分自身のことで精一杯だ。いなければいないで困ることはない。必ずしも会わなければいけない理由も無い。繋ぐものは、何一つとしてない。そういう関係は、楽だ。いつだって離れられるし、離れても、恨むことがない。

「何があったと思う?」
「うっとうしい。さっさと言え」
「じゃあ」

 ネルは、真っ直ぐにアルベルの紅の瞳を見た。

「私、結婚するんだ」