「ずっと、憎み続けたかった」

 どうしてそんな表情をされるのか、悲しげな声を出すのか、意味が分からず、アルベルは戸惑いを覚えつつ彼女を見つめ返す。ネルはアルベルの瞳に耐えられなくなったように、その視線を両手を載せた自分の太ももの上に落とした。

「私がアーリグリフを憎むのをやめてしまえば、ネーベルの死が、私の父の死が、報われないと思った」

 ネルの言葉に、予感を覚えたアルベルの胸はどきりと打つ。

「だから、憎み続けようと思った。父を殺したものたちを。父はきっと私の憎悪を止めたがると、憎しみを抱き続けることがどれだけ哀れなことかを分かっていても、私から父を奪った国を憎み続けなければ、死んだ父を裏切ってしまうような気がしていた。私は父を愛している、本当に大切だった、だからアーリグリフを許してはいけないのだと自分に言い聞かせて……」

 目に涙が浮かんだのだろうか、彼女は片手で目元を拭い、俯いたまま震える息をついた。

「でも、私は弱いから、心底憎いはずの国でさえ、ちゃんと憎み切ることができなくて……」

 弱々しい声を聞いて、アルベルの心に焦燥が生まれる。父を殺したものを憎いと思い続けることが、己にとってどういうことか、彼女の言葉によって改めて突きつけられる気がした。そう、自分は、グラオを殺した。己の愚かさによって、あの凛々しく尊い命を奪った。その日から、アルベルは自分自身を憎み続けている。その憎悪を糧にして、がむしゃらに、時には暴虐に、しかし父が志した国を守るという想いだけは忘れてはならないと、愛する国のためにカタナを振るった。
 アルベル・ノックスは、今でも自分自身が憎いのだろうか? あの父を殺めた時と同じ苦しみを未だに抱き続けているだろうか。もし、その憎しみが少しでも和らいでいるのだとしたら、自分は己を赦しかけているのだろうか。憎いはずだったものを赦すこと。負の感情を乗り越え、風化させて、前を向くこと。果たして、それは自分を甘やかすという弱さなのだろうか。
 もし、憎しみを少しずつ癒していくことが罪となるのならば、彼女を想うこの心もまた、罪となりうるのだろうか。人を愛することは、自分自身を愛することでもある。

「私は、あんたを憎めなくなった」

 ネルは、手の甲で目を拭いながら、半ば泣き声で吐き捨てた。

「憎まなくてはいけないのに、憎めなくなった」

 ああ、そうか――
 アルベルは涙を流す彼女を見ながら、ぼんやりと思う。
 ネルは、人を憎みたいわけではない。己の内に巣食う憎しみから逃れようとしてるわけでもない。

「父を重ねて、あんたを尊敬すら、するようになった」

 彼女はただ、赦したいだけだ。彼女自身が憎いと思うものを、すべて。
 アルベルは、彼女によく告げていた。憎みたいのならば憎めばいいと。その矛先をアルベルという敵国の男に向ければいいと。
 アルベルは純粋にそう思って忠告していただけだった。その方が、憎しみを抱き続ける方がネルにとって楽ならば、彼女の憎悪も甘んじて受け入れるつもりでいた。彼女の父親を殺した人間のいる国なのだ、いくら戦争だからという理由で肉親が命を落としたとしても、先日のアーリグリフの女性のように、家族を失った悲しみが癒えることはない。原因があるのならば、その原因を憎んだ方が、消えない悲しみを説明付けることができる。人間にとっては、その方が楽だ。行き場のない想いを抱くよりも、その感情の矛先をどこかしらに定めた方が。
 だが、彼女はそんなことを求めているわけではなかった。アルベルは、彼女について勘違いをしていたのだ。ネルは憎みたいのではない。それもそのはずだ、この慈悲深くて優しい女性が、何かを蔑んだり恨んだりし続けること自体、できるはずがないのだ。

「私、どうすればいいんだろう。あんたを、憎むべきものを憎めなくなることは、シーハーツを裏切ることになるかもしれなくて……」

 泣きながら、なんと尊いことを訴えるのだろう、彼女は。
 なんと美しい涙なのだろう、彼女が流すものは。

「ネル」

 アルベルの呼びかけに、ネルは目を丸くして――きっと名を呼ばれたことに驚いたのだろう――顔を上げた。
 アルベルは彼女を真っ直ぐに見据えて言った。

「愛したいものを、愛せばいいだろう」

 憎しみを抱き続けることは、すなわち、何かを愛することを失うことなのだ。

「お前が愛したいのなら」

 言いながら、自分にこんなことを言う資格はないかもしれないと思っていた。
 今、アルベルはグラオに訊きたかった。愛などという言葉を語る資格など、やはり俺にはないのだろうか?と。
 アルベルもまた自分自身を憎み続けている。あの偉大な男をアーリグリフから、彼の妻から、そして自分自身から失わせたこの憎悪は生涯消えない。

(それでも、俺は、あなたの死を乗り越えようとしている)

 だが、すべての感情は、時間と比例して風化していく。それは人間の防衛本能の一つでもある。当時と同じ程度の感情を抱き続けていては、いつか心が崩壊してしまうだろう。怪我をした身体と同じで、時間が経つにつれて心の痛みもまた和らいでいく。治癒されていくことをどんなに拒んだとしても、記憶は残酷にも薄れていってしまう。
 父親が炎に包まれた瞬間の激しい負の気持ちを完全に忘れ去ったわけではない。そうではない。しかし、同じ場所に留まり続けていてはいけないのだ。同じ場所で嘆いていては自分から正常な未来を取り上げてしまうことになる。だから、アルベルは足を前に踏み出した。強くなろう、強くなって国を守り、父親の志を少しでも果たすのだと。
 そして。

(俺もまた、あなたと同じように人を愛したかった)

 グラオがアルベルを守ったのと同様に、自分もまた、いつか身を挺して何かを守れればいいと思った。
 父が息子をかばったときと同じ想いを抱くことができれば、父親は優しく笑いかけてくれるかもしれないと思った。
 息子を守るためならば死をも恐れなかったグラオがアルベルに注いだ感情こそ、愛だったのだ。

(目の前にいるんだぜ、親父)

 ネルは、アルベルの紡いだ言葉に顔を歪ませ、目の前にいる男もおかまいなしに、ぼろぼろと涙を流し始めた。

「で、も……いいのかなあ、私が何かを愛してもいいのかなあ……? だって、私は、人を殺したことだってあるんだ。戦争で、多くの人を手にかけたんだ。その人間にだって家族がいて、失った家族はきっと深く悲しんでいるのに、私だけのうのう生きて、何かを大切に思ったり、愛したりする資格なんてないって……。だから、何かを憎むことで、愛することを忘れようとしていた。そうでなければ、私はきっと赦されないからと……」

 手のひらで何度も頬を拭うネルは、まるで幼い子どものようで、アルベルは慈しみすら込めて彼女を見つめていた。
 ああ、だからなのだ。これほどまでに綺麗な心を持つ彼女だから、きっと自分は彼女を好きになったのだ。全て頭では分かってるのに感情の檻から抜け出すことができず、同じところでぐるぐる惑い続けているどうしようもない女性なのに、アルベルが彼女を愛したのは、彼女の持つ心が本当に素直で美しいからなのだ。人間なら当たり前に持つ醜さを隠すことができないほどに。
 間違いではない。
 アルベルは確信する。間違いではない、彼女を愛したのは、間違いではなかったのだ。

「ネル。
 お前は何かを愛してもいい。だからといって、自分の犯した罪を忘れる必要もない。愛と憎しみのどちらか一つを選ばなくてはいけないわけではないんだ。みな同じだろう? そのことをお前も分かっているはずだ」

 不器用な彼女にそれをすることは、なかなか難しいことだろうとは思ったが。

「みな、頭では理解しているんだ。だが、それを実行するのは難しい。お前が殺してしまった者の家族も、戦争中という理由で殺されたことを分かっているはずだ。しかし容易には納得できない。その痛みと折り合いをつけていくことは生易しいことではない。
 それでも人は乗り越えねばならん。己の未来を台無しにしないために」

 涙を頬に滑らせながら真剣にアルベルの話を聞いているネルが、アルベルはただただ愛らしいと思った。ネルは鼻をすすりながらしばらく考え込んでいたが、そのうち、とても小さな声で「努力してみる」と告げた。それだけでも大きな前進だった。