アルベルの手刀で気を失った女を毒物研究の知り合いに預けたあと、クリフとアルベル、ソフィアの三人は、疲れたようにカルサアのベンチに座っていた。
 夜だ。ところどころにある街灯が町を暗く照らし出し、陰鬱な雰囲気を醸し出している。物騒な町中を歩く人間もおらず、ごくたまに薄汚れた猫が辺りを徘徊していた。日付が変わった頃に風がやや強くなり、時たま埃っぽい風が彼らの間を吹き抜けていた。
 ベンチに深く腰掛けているソフィアは、泣き疲れた顔で呟いた。

「ネルさん、戻ってこないのかな」

 言葉に、二人の返事はなかった。隣に座るクリフは、眠るように目を閉じていた。アルベルは街灯に背を預けて腕を組んで立ち、どこともない場所を無表情で眺めている。彼の右手には、犯人の女が爪でつけた傷を覆った包帯が巻かれていた。ソフィアがヒーリングを申し出たのだが、アルベルは断った。
 頭上にある街灯の明かりに、小さな蛾が集まって飛び交う。

「もう、戻ってこないのかな……」

 自分の言葉に悲しみを覚え、ソフィアの目に涙が浮かぶ。手に持っていたハンカチで押さえ、鼻をすする。

「でも、ネルさんにとっては、これが一番いいのかもしれない……」
「初めからなんだよ」

 アルベルが口を挟む。苛立った言い方に、ソフィアはアルベルを見た。彼は腕を組んだまま地面を睨んでいたが、その目の焦点は別の場所にあるように曖昧だった。

「初めから?」
「本当は、戦うべき人間ではないってことだ」

 問いには、代わりにクリフが答えた。溜息混じりで、どこか疲れた様子だった。

「ネルは、それが家系だから戦ってんだ。父親がクリムゾン・ブレイドだから、自分もそうならなければいけないと思ってやがる。周りが戦っている、だから自分も戦わなければ申し訳がない、嫌だが戦うっつうふうにな」
「初めから逃げ出したかったはずだ」

 続けて、アルベルが言う。ソフィアは二人の言葉に考え込み、小さくかぶりを振った。

「じゃあ、もう、逃げてくれた方がいいかもしれない。闘いや苦しみから」
「それもあいつが決めることだ。俺たちが何を言おうが、引き留めようが、突き放そうが、何の意味もない。はなから他人の話なんぞ聞いていない女だ」
「でも」

 冷淡なアルベルの言い草に、ソフィアは声を上げた。アルベルを睨み、きゅっとハンカチを持つ手を握りしめる。

「でも、あの時、アルベルさんがあの女の人に刃をかざした時、ネルさんがアルベルさんを止めようとしたのは、ネルさん自身のためじゃない気がするんです。ネルさんは、アルベルさんに人を殺して欲しくなかったんだと、思います……」

 だんだんと自分の言葉に自信が無くなってきて――というよりは、アルベルに言い返されることに恐怖を覚え、声が徐々に小さくなっていった。冷徹な紅の瞳がソフィアを見つめ返している。時に温かく、時に燃えたぎり、時に冷ややかに見える瞳だ。
 耐えきれずに目をそらし、ソフィアは言葉を探しながら言った。

「あれは……ネルさんが苦しみたくないからじゃなくて……純粋に、アルベルさんに手を汚して欲しくなかったからだと思います。ネルさんは、どこかでアルベルさんが正しいことを信じてるから」
「ならお前は、俺があの女を殺さなかったことは正しいと考えているのか? 俺たちのせいで苦しみを背負い、死にたいと嘆き続けている女を殺さないことが」
「……それは」
「ソフィアを責めるな」

 もうやめようと、クリフが口を挟んだ。ベンチの背もたれにずるずると背中を預け、両手で顔を覆って気怠そうに空を仰ぐ。

「難しい問題だぜ。きっと誰にも答えは出せねえよ。ネルは苦しんでいるんだ。あいつが自分で自分自身の答えを出すまで、待つしかねえさ。オレたちにはオレたちのやるべきことがある。あいつは仲間だが、仲間だと思ってるのはオレたちだけかもしれねえしな」

 クリフの言い分はもっともだった。ネルは拒むのだ、必要以上に人との繋がりや誰かの信頼を得ることを。無論、国の内部の連結――クリムゾンブレイドや封魔師団の仲間たちとは、強い信頼関係を築いているのだろう。しかし、フェイトらのように後から出会った人間とは、どうしても距離を取ろうとしてしまう。警戒心があるのもそうかもしれないが、彼女は誰かに自分が影響することを畏れている節がある。自分のせいで、自分のために、という状況が生まれてしまうことをできるだけ避けたいと思っているらしい。だからこそ、今回のような事件が起きることは、彼女には許し難いことなのだろう。
 どうしたらネルを助けることができるのか――ネルの心にどうしても手が届かないような気がして、悲しくてたまらなくなり、ソフィアはうつむいて涙をこぼした。

「アルベルさんやみんなが心配していること、ネルさんには伝わらないの……?
 私は、ネルさんがいなくなっちゃったら寂しいです。悲しくて仕方ないです。でもネルさんが私たちと我慢して一緒にいたっていうなら、もう苦しんで欲しくない……」
「あのな」

 ソフィアを見下ろし、アルベルは溜息交じりに言う。

「生きるのも、死ぬのも、義務ではないんだ。
 ただ、自分がどちらを選ぶかなんだよ」

 アルベルの、冷徹で悲痛な、だが真実でしかない言葉に、ソフィアはますます泣いた。