カルサアの宿で軽く睡眠と朝食を取った朝、ディプロからクリフの通信機へ連絡があった。容態が安定してきたマリアが、自分のことはさておきネルを心配しているという。ネルがいなくなったと聞いて、フェイトもかなり混乱したらしく、すぐにクリフらのもとに行くと言い出したが、とにかくマリアのそばにいろとクリフが諫めると、しぶしぶそれを承諾した。
 アルベルとしてはあまりやりたくはなかったが、ディプロからネルの居場所を探索してもらった。彼女はまだ生きていて、ペター二周辺をうろついているようだった。確かにアリアスにも行きづらいだろうし、自分が崇拝されるシランドに赴くのも気が引けるのだろう。賑やかなペター二ならば逆に皆がネルのことを気に懸けないので、居心地のましな場所を求めたのだ。やれやれとアルベルは呆れてかぶりを振った。
 居所が分かると知り、ソフィアが行って欲しそうに自分のことを見ているのを感じてアルベルは戸惑った。本当ならば、ネルの脱退を止められるのはマリアだけだ。しかし彼女は現在、身体が自由に動かない。船内で安静にしていた方がいいだろう。

「オレが行ってやりてえが、オレの言葉は届かないからな」

 結局クリフもそう言い出してしまったので、アルベルがネルのところに行くしかなかった。今の彼女に何を言っても無駄なような気がするが、勝手に姿を消したネルに、フェイトもマリアも納得しないだろう。それなりの理由をつけてからでないと、彼女の脱退は曖昧なままになってしまう。
 ソフィアとクリフには一度ディプロで待機してもらい、アルベルはディプロにいったん召喚されて再びエリクールに戻るという瞬間移動を利用して、ペター二の町に降り立った。普段からこの移動方法を使えば安全だろうが、なんだか不本意でもある、と思う。フェイトたちといいディプロといい、文明が進みすぎていて、便利というよりはむしろ物騒だ。
 人気のない街の裏道からペター二の大通りに出ると、最近はもう見慣れた賑やかな街の景色が広がった。
 さてどうしようかと考えながらうろつき始めた途端、通りのベンチに憂鬱げな顔をした女性の姿が目に入り、アルベルは驚いた。こんなに早く見つかるとは思っておらず、ほっとしたが、人通りの多い平和な町の中にのうのうと座っている彼女に腹が立った。
 初め、彼女はアルベルに気付いていなかったが、近くに立って影を作ると、ハッと顔を上げた。泣きはらした目をして、いつもの凛とした顔はどこへやら、ひどく目元がむくんでいる。町の者がよく気がつかなかったものだ――あるいは気を遣って誰も話しかけられなかっただけか。
 アルベルが無表情で見下ろすと、放心したように見上げた後、ネルは気が付いたように顔を伏せた。暗い空気を纏う彼女をしばし見つめていたアルベルが、口を開く。

「お前は」

 発した言葉にネルの身体が震えるのが分かったが、かまわず続ける。

「俺を待っていたんだろ」

 するとネルは驚いたように再び頭を上げ、目をまん丸くしてアルベルを凝視した。先ほどまで泣いていたのか、目の縁がじんわりと赤い。彼女は強がっていながらも、泣いてばかりだ。元来、涙もろいのだろう。
 この女は負の感情ばかり抱いて疲れはしないのかと考えつつ、アルベルは言葉を継ぐ。

「俺のように真実を言う人間は、なかなかいないからな、お前の周りには」
「……」
「お前は、お偉いさんだ」

 苦労せずに地位を得た人間は未熟なのだと言ってやると、ネルは悔しげに唇を噛んだが、言葉を返せないあたり図星を突かれたのだろう。ぐっと拳を握りしめ、うつむいている。
 アルベルはネルが自分から何か言うのを待っていたが、沈黙に疲れ果て、溜息をつきながらベンチの端に腰掛けた。

「毒を盛った奴はアーリグリフの機関に預けた。一連の事件に関しては無かったことにする」
「……」

 沈黙は、了解の意味だった。被害者であるマリアがそう望んでいることくらい、ネルにも分かるはずだ。
 目の前を、ペター二の子どもたちが元気よく駈け抜けていく。そういえば、今日は休日だった。この前、フェイトがオルゴールを修理していた時、翌日はカルサアの工房で過ごすと言っていたが、彼はクリエイターたちに断りを入れたのだろうか? 自分が言づてを代わってもよかったなと思う。
 穏やかな天気だった。アーリグリフやカルサアの陰鬱な地方性とは、うってかわった優しい気候である。花は咲き乱れ、新鮮な緑の匂いのする風が吹き、いつ来ても温暖だ。こんな場所に住んでいたらネルのような気性の人間が生まれても仕方がないのだろう。環境による後天性の気質は少なからずある。
 アーリグリフとシーハーツを比べた時、人間的に強い者たちが勝利を手にするのだとすれば、アーリグリフが栄光の冠を得ていたはずだ。普段から過酷な環境にいる者は、逆境に強い。幸福感を抱いているかはどうかさておき。

「……あの女が言っていた、自分の家族は毒で殺された云々は……」

 アルベルが言葉を紡ぐと、興味を持ったのかネルが顔を上げた。横顔を見つめているらしいが、振り向かなかった。

「おそらく事実ではない。お前らの国の人間が、相手が口を割らなかったから毒で殺すなどという馬鹿な真似はしない。妄想か、誤情報が伝わっている可能性があるな。まあ、預けた先の知り合いが理解のある人間だから、あの女の言い分を聞いてやって、その後の処置はしてくれるはずだが」
「……」
「お前な」

 黙りこくっているネルに呆れ、隣を見ると、ネルの陰鬱な表情が視界に入った。悲しげだが、どこか迷いや不満のある癪に障る顔だ。
 醜い、とアルベルは思う。

「なぜ、冷静にならない? 今の今まで国の隠密として仕事してきたんだろ? 今回のことで本当にあの女を手にかけていたら、ただでは済まなかった。ろくなことにならない。俺はつくづく疑問なんだ、お前のような人間がなぜ武器を取って国の盾になっているのか。
 正直、お前にゃ向いてねえよ、国の駒なんて立場」
「……そんなこと……」

 自分がよく分かっていると、ひどく暗く沈みきった声でネルは答えた。アルベルから視線を外し、ぼんやりと正面を眺めている。また少し痩せたように見える彼女の面持ちは、美しいというより病的だった。

「私は傀儡みたいなものだ。自分の命すら粗末に扱うことしかできない……」
「使い勝手はいいだろう、本当に人形ならな」

 だがあいにくお前は常に感情が先走っているのだとアルベルは咎める。感情が邪魔をして、彼女は結局、純粋に国のためには動いていないのだ。心では、こんなことをしたくはない、人を傷つけたくない、血など流したくないと思いながら、義務のために意に反した行動をせざるをえない。そんなことをしていれば、いずれ精神を病んでいくのは必至だ。
 彼女もまた心を病んでいる。かつての少年時代のアルベルのように。
 ネルは悔しげに目を細め、沈黙していたが、再び重たげに唇を動かした。

「私は……父に縛られているのかもしれない」

 彼女の台詞に、アルベルは動揺した。おそらくネルもアルベルの過去や心境を分かった上で発したのだろう。
 言葉に詰まっていると、ネルはちらりとアルベルを一瞥してから、私もあんたと同じだ、と無感情に呟いた。

「あんたには、こういうのは話題にされたくないことかもしれないけれど。
 私もまた、父に縛られている。家系が、親がそうだったから、私も国に仕えなくてはならない。ネーベル・ゼルファーは有能で素晴らしい人だった。少し情緒が不安定なところがあったけれど、最期まで凛々しい人だつた。
 若くして父が死した分、私が代わりに頑張らなくてはいけないと、義務を果たさなければならないと思っていた……」

 アルベルの最も避けたい話題を続けていく彼女に苛立ったが、何も言い出すことができなかった。この手の話になると動悸がし、どうにも自分がコントロールできなくなってしまう。アルベルの認めたくない未熟さだった。
 ネルは、アルベルの心境に特に気を遣う様子もなかった。

「でも、本当は、武器など持ちたくなかった」

 両の手のひらをゆるく開き、見つめる。女性にしてはごつごつとした、マメの潰れた跡がいくつもある手を。

「父の跡を継ぐのは、純粋に恐かった。いくら隠密として育てられた私であっても、とてもではないけれど父の代わりはできないと思っていた。でも私にわがままは許されなかった。父の血が流れていたから。私は、父と同様に、父がそうしてきたように、国のために生きる道しか選べなかった。選択する頃にはすでに相当な力をつけていたのがいけなかった。
 けれど――私は、本来ならば選べた。逃げ出すことを。私の母のように、愛する人を家で待つような女性として生きることを。選択を迫られた時に逃げることを選べばよかったのに、逃げることすら恐かった。そう育てられてきた私の存在する意味が分からなくなりそうだった。だから私は、流れるままに父の歩んだ道を辿ることを選択した。
 でも、その道が恐くて、私は未だに逃げ出そうとしている。常に葛藤している。もう逃亡する権利もなくなってしまったというのに」

 両手を握りしめ、ネルは眉間に皺を寄せて目を閉じた。苦々しげな顔は白く、今にも倒れそうだった。
 アルベルはネルを見つめていたが、ベンチから立ち上がり、数歩前に歩んだ。彼女の姿を直視することができず、背を向けたままで言う。

「なぜ、権利がないと思う? 逃げればいいだろう、今からでも」

 すると、後ろから苦笑混じりの返事が聞こえた。

「今更だ」
「今更でもないだろ。心が疲れました、身体がもちませんとでも言えばいい。そこまで使い捨てにするようなお国柄ではないはずだ」
「私は、私の運命を呪いながらも、この国を愛しているんだ。あんたが自分の国を愛するように」

 それは穏やかで、悲しげな口調だった。アルベルからは見えないが、きっと彼女は聖母のような慈悲深い顔をしてそう言ったのだ。

「私の命が、もし私の国を救う条件だとしたら、私は自分の命を差し出すだろう。今回だって、マリアの代わりに私があの女性の恨みを受けていれば、どんなにいいかと思った。私の苦しみもその瞬間終わるかもしれなかった。女性が言っていたように、何かを恨むのは、悲しむのは疲れる。引きずるのは疲れる。悼みや憎しみと共に生きることがどれだけ苦痛なことか、私は知っている。
 でも、あの女性との違いが、私にはある。私は、彼女と違い、もうすでに多くの人に手を下してしまった。ただの被害者ではないんだ」

 だから自分に逃げる権利はないと、ネルは言う。アルベルは、彼女の言い分にいまいち納得できなかった。散々他人にむごいことをしながら最終的には逃亡したり自死をした愚かな者たちをアルベルは何人も知っている。世の中には信じられないほど非道な心を持つ人間もいる。その中でネルは、どちらかというと受動の人生を歩んでいた。人間性だけを見れば、彼女は反省できる分ましな方なのだ。自分が父の子であるから父と同じ役目を背負っている。国の中で他に代わりになる人がいない、仕方がないからそうしている。それが彼女の責任かと問われれば、必ずしもそうではない。彼女はほぼ決められたレールを選ばざるを得なかっただけであり、彼女だけが悪いわけではないのだ。
 ネルが自分の運命からなかなか逃げ出せないのは、もはや性格としか言えないのかもしれなかった。

「私は、この先も永遠に苦しむだろう。今回のことも責め続けるだろう。マリアにも謝り続けるだろう。あの女性にも」

 感情の失われた言葉に、アルベルは振り返った。穏やかな風に髪が揺れる、暖かな陽光に照らされたネルの青白い笑顔が見える。

「……許しを請いつつづける人生か」

 アルベルは淡々と言った。

「同じだな」





 互いに見つめ合い沈黙を守り続ける二人の間に、どこからか音が流れてきた。それは小鳥の囀りのように響く、異国風の旋律のオルゴールの音だった。きっとグリーテンから流れてきた代物だ。頭の片隅でアルベルはそう思った。フェイトが修理していたものと同じかもしれない。少し悲しげで懐かしいメロディだった。
 健康的な人々が行き交い、子どもたちが走り回り、明るい行商たちの声に包まれた、泣きたくなるほど平和なシーハーツ領の街の景色の中に、色を失い続けたままの二人の心が鎮座している。
 どのくらい時間が経ったか知れないが、近くに、いつの間に青髪の青年が立っていた。マリアが呼んでいます。青年は神妙な顔をしてそう伝えた。いつまでもベンチから立ち上がろうとしないネルの側に歩み寄り、青年は、絶対に離さないといったふうに彼女の手首を取って、通信機を耳元に当て合図をした。すると、一瞬にして青年とネルの姿が消えた。
 アルベルは、その場に取り残された。どうせそのうちに合流できるだろうと、のろのろと歩んでネルの座っていたベンチに腰掛け、疲れたように深く座り、うなだれた。
 もう聞こえなくなったはずのオルゴールの音が、こびりついたように耳の奥に響いている。憧憬の音楽。いつかの記憶を呼び覚ますかのようだ。息苦しい不快感を覚え、かたく瞼を閉じた。

 いつまで。
 いつまで彼女は己を裏切り続ければいい。

 心の中でアルベルは問い、かすかな息をついた。