行き場を無くした手を引き寄せて、ソフィアは、ぼんやりと彼女の出て行ったドアを眺めていた。ソフィアもまた、マリアが毒に冒されたショックとネルの絶望、そしてアルベルの冷酷さに気圧され、その目に涙を浮かべていた。
アルベルは、そこらに散らばっているマフィンの残骸をしばし眺めていたが、じきに立ち上がると、ソフィアの側に立ち、彼女に向かって手を差し伸べた。ソフィアはアルベルに振り返り、彼から差し出された右手を驚いて見つめた。
「……」
「立て」
言われ、ソフィアは彼の手を掴んだ。アルベルが引っ張ってくれたおかげで、ほとんど膝に力を入れずに立つことができた。
ソフィアは自分の周りの床を見回してから、悲痛な顔をして、背の高いアルベルを見上げた。
「……どうして、こんなことに」
「人間の恨みというもんは、こんなもんだ」
アルベルは部屋の端に立てかけてあったほうきとちり取りに気付き、それを取って、床に散っているマフィンを掃き始めた。ソフィアが慌てて手伝おうとしたが、アルベルに必要ないと断言され、部屋のドア付近に立って大人しく彼の作業を眺めるしかなくなる。
アルベルは、床を掃除しながら、後を続けた。
「正直、アーリグリフやらシーハーツやらと物事を二分することに意味はない。恨みの前では、その執念は同じだからな。
恨みが強くなればなるほど、人間はまともな思考回路を失う。誰かひとりを殺すために、その周りの者を殺すなどということも序の口になるだろう」
「でも、六人っていうことは、アルベルさんも含まれて……」
「だから、まともじゃないんだよ。犯人がアーリグリフの人間だとしたら、その気質の陰険さが悪さをする。
もしかしたら犯人は俺に恨みがあったのかもしれんが、そうすると封魔師団に属して上司まで攻撃する意味が分からんからな、それは考えにくいだろう」
「他の人に、恨みが無くても、こんなことをしてしまうんだ……」
ソフィアの落胆した様子を横目で見つつ、床を掃除し終えたアルベルは、ほうきとちり取りを元の位置に片づけると、彼女に一番近いベッドの端に腰掛け、平静な様子で応えた。
「戦争の延長さ。大将の首を取るために、そいつを取り巻く兵士を殺す」
「仮に、仮に、ね? マリアさんやフェイトやクリフさんみたく関係ない人が亡くなってしまって、一番恨んでいる人が死ななかったとしたら、その人は満足」
「しないだろうな。今度はより確率の高い方法で狙ってくるだろう。今はランダムで死ぬか死なないか、様子見をしている暗殺の段階に過ぎん」
「様子見? 様子見のために、マリアさんが苦しむの……?」
やりきれない、と、ソフィアは流れた涙を手の甲で拭った。
「誰かが悲しむってこと、恨みを持ってる人なら、分かるはずなのに……」
「心の弱さだよ」
縛っていないせいで垂れてくる髪をうるさそうに払い、アルベルは、小さく息をつく。
「心が弱ければ、他人に優しさを与えることも他人を思いやることもできない。自分中心で物事を考えるしかなくなる。
犯人は大したことのない人物だろうな。シーハーツに身内を殺されたアーリグリフの市民、その線が妥当だろう」
「もし……」
もし本当にアーリグリフの人間が犯人ならば、ネルがその人間と対峙するのはまずいのではないかとソフィアが尋ねると、アルベルは、素直に「だろうな」と肩をすくめた。彼の平然とした反応に、ソフィアは、え、と目を丸くする。
「だろうな、って……」
「万一、あいつが解毒の方法を聞き出すために俺の国の人間に拷問でもしたら、今は裁判沙汰だ。あの女も犯人も互いに恨みを持つ者同士、おそらく刺し合いになるだろう」
「そ、そんな……」
「だが、もう、あいつにはそれしかないんだよ」
軽蔑するように、彼は吐き捨てた。ソフィアは、初めて見る彼のひどく冷淡な様子に恐怖を覚え、思わず口をつぐんでしまう。
アルベルはソフィアから視線を外し、ソフィアの佇む位置の正面の壁にある窓から外の闇を見つめた。アリアスはアーリグリフとシーハーツの境目にあり、シーハーツほど豊かな土壌は持っていないが農業をやっと営めるほどの自然は所持している。だが、気温はアーリグリフ寄りのため、夜になるとしばしば冷え込んで外出が厳しくなる。
「俺が止めたところで、あいつが聞く耳を持つと思うか」
「……」
「何か悪いことがあれば全て自分のせい、自分に責任があるから自分でどうにかする、全て独りでやる、他の人間は関係がない……そういう思考回路を持っている人間を食い止めるのは至難の業だ。そういう奴の頑固さが緩くなるより、周りが諦める方が早い。面倒だからな、とことん本人に背負い込ませておけばいい。自己嫌悪の中に救いを求めるような奴には、それが唯一の逃げ道となるんだろう」
「ネルさんは、逃げているんですか?」
それは違う気がすると、ソフィアは思わず声を上げた。だが、アルベルは窓の方を見たまま、振り返らない。
「逃げてたら……もし本当に逃げてたら、あんなに苦しまない。人のために泣いたりはしないと思います」
「泣くというのもひとつの解放だ。自分の心を慰めるための」
「本当に逃げてる人っていうのは、物事に向き合わない人なんじゃないんですか? マリアさんが苦しんでいても、見向きもしないような……」
そのソフィアの台詞を聞いたアルベルは彼女に振り返り、薄く苦笑した。その笑みが優しく、慈愛に溢れているような気がして、ソフィアはハッと息をのむ。
「……アルベルさん」
「もし」
アルベルは立ち上がり、ゆっくりと窓際まで行くと、ガラス戸は開けないまま、ぼんやりと夜の景色を見つめた。小さな村なので、向かい側のパン屋の屋根と、数軒の家、そして村の中心にある教会の塔が見えるだけである。ほとんどの住人が寝てしまっているのか、家々に灯る光はそれほど多くなかった。
静かで薄暗い闇である。
ソフィアは、アルベルと離れてしまったせいで彼の声が聞こえなくなると思い、そっと彼の後を追い、ある程度離れた場所で歩みを止めた。
沈黙が続いた後、先に口を開いたのはアルベルだった。
「もし……もし、あいつが、そういう人間だったとしたら、あいつは救われたんだ」
アルベルの言わんとしていることに気付いたソフィアは、不思議と強い衝撃を感じて、思わず目を見開いた。彼の、変わった色をした長い髪がゆるゆると背中に流れているのが美しくて、ソフィアは無意識にそちらばかり眺めてしまう。先の方は金色で、生え際は漆黒の、今は傷んでいるが全てが地毛であったらどれだけ美しい黒が流れるのだろうと夢見てしまうほど、長く、そして近寄りがたい髪。
ソフィアには、疑問だった。いつも自分が彼に頼まれて髪を結ってあげているが、彼の髪は、強く引っ張ればすぐに途中が切れてしまうほど傷みが激しい。色で染めているというよりは、色を抜いているのかもしれない。新しく生えている黒髪はつややかで美しいが、途中からプリン状態になっているので、一度、不思議に思って全て金髪にしてしまわないのかと問うたことがある。すると、彼は――髪を結っている時のことだったので彼女に背を向けていた彼の表情は分からなかったが――少し笑って、今はまだ、と呟いた。その時は、時間がないために染めたり色を抜いたりすることができないのだろうと判断したのだが、いつかは色を変えること前提で、彼は言った。周りからしたら、そんなに髪を傷ませなくてもいい、黒髪も十分に美しいと言うところだろう、観察力のある彼自身も、おそらくそれについては分かっているはずだ。それなのに、彼は確信を持つように、何か信念のようなものを持つように、自身の髪についてそう話していたことがあった。
何か意味があるのだ。ソフィアは今、確信した。彼の髪の奇妙な色には、何か意味があるのだ。ただ、なぜだろうか、それはあまり良い意味ではない予感がする。 ふと気付くと、アルベルはいつの間に背中を窓に預けて、ソフィアを見つめていた。ハッとして、姿勢を正す。
彼は、薄く微笑しながら、美しい紅の瞳を暗く陰らせていた。
「苦しみに素知らぬ顔をして生きていけたら、ずっと楽だろう。
俺も、どちらかというとそちら側の人間だ。相手が苦しんでも、見捨てておける。痛めつけることに対して、自分は痛みを覚えない。それは無論、経験や立場もあるが、最も重要なのは生まれついての気質なんだ。
あいつには、無理なんだよ。本来ならば、シーハーツの隠密をやっていること自体、到底無理な話だ。人殺しも、武器を扱うことも、全てに向いていない。優しく、慈悲深く、自責の念が強い。お前らにもそう映るだろう? 軍人に似合わない性格をしちまってる。あいつは割り切ることができない。戦争だから仕方がないと思いながらも、結局は自分を責めている。あいつの気持ちは、お前が一番分かるはずだ」
言われ、ソフィアは悲痛な面持ちをしてうつむいた。ソフィアにもアルベルの言いたいことは分かっているし、その言い分が正しいことも、痛いほど分かっていた。
ネルは、向いていない。戦うことに向いていないのだ。ソフィアもしばしば戦闘中に彼女が苦痛に満ちた顔をしているのを垣間見ていた。短剣に付いた血を拭いながら、自分が殺してしまった魔物や人をひどく傷ついた面持ちで眺めていた。その時の彼女は、まるで修道女のように敬虔で、清らかで、神聖な空気を漂わせ、口には決して出さないが、血にまみれた被害者に懺悔するために視線で祈りを捧げているのだ。彼女がそういう女性であることは、アルベルとソフィアだけでなく、他の仲間たちも知っている。ネルが戦には不向きであるということを分かっていながらも、皆それを口には出せない。なぜなら、ネルはそう思われることに屈辱を感じてしまうからだ。
殺戮や傷つけ合うことで生まれるネルの痛みを、一番強く感じ取れてしまうのはソフィアだった。ソフィアもまた、ネルと同じように戦闘に不向きな性格をしているからだ。
「……ネルさんが……」
ソフィアは、じんわりと目元が熱くなってくる感じを覚えながら、呟いた。
「ネルさんが、他人の傷に対して痛みも苦しみも感じない人だったら、確かに、ネルさんは楽だったかもしれない。
けれど……それは、ネルさんじゃない」
ソフィアは顔を上げて、窓際に佇むアルベルを見据えた。アルベルはソフィアの言葉に驚かされたように目を丸くしていたが、そのうち、彼にしては信じられない、息をのむほど悲しげで優しい微笑を浮かべ、ソフィアを見つめ返した。
(……
ああ、アルベルさんは)
アルベルの面持ちをどこかぼんやりとした心地で眺め、ソフィアは、密かに確信する。
(ネルさんのことが、大切なんだ)
感極まって泣き出しそうになるのをこらえつつ、辛抱強くアルベルの言葉を待った。彼はゆっくりと睫毛を伏せると、口元に微笑を浮かべたまま、自分に言い聞かせるように言った。
「そうだな。あいつは、そうなんだろう……」
聞いたこともない、その優しく悲しい声に、ソフィアは急に焦燥感を覚え出した。
「……アルベルさん。ネルさんを助けてあげなきゃだめです。ネルさん、今回のことでまた自分を責めて、自分を傷つけていくことになるから……」
「無理だ」
話題が元に戻ると、やはりアルベルは怪訝な顔をした。優しげだった表情が急に冷徹になったのを見たソフィアは、やはり駄目なのかと絶望感を抱く。
アルベルは髪を振り払い、再び窓の外を見た。
「おそらく、今は隠密たち――クレアとかいったか? に、事情を話している最中だろう。だが、すぐには見つからんだろうし、未だ犯人が封魔師団の中に潜んでいるとは考えにくい。六分の一という確率でしか成功しない方法で俺たちを殺しにかかったんだからな。もし本気で身を捨てる覚悟だったのならば、一発であの女を殺す手段を選ぶはずだし、その後、シーハーツと裁判沙汰にでもなり処刑されることを望むわけだ。
こんな夜に身内の隠密の人間全員を疑うようなことをして混乱を招くということ自体が、もはや冷静でない証拠なんだよ」
「でも、このままじゃネルさんが危ないんじゃないですか。犯人が、もしアーリグリフの人間で、ネルさんがその憎しみや恨みを受け止めてしまったら、きっと」
「あいつは差し出すだろう、自分の命を。仲間がひとり犠牲になりかけたんだからな」
アルベルの素っ気ない口調に、ソフィアは涙で目をいっぱいにして、彼を睨みつけた。ネルに冷たくするアルベルに怒りを覚えたのもそうだが、彼に全く非がないことが悔しくて、腹が立ったのだ。
アルベルは沈黙したソフィアに振り返り、ぼろぼろと涙を流している少女の姿を認めると、嘆息して歩み寄り、頭をぽんぽんと撫でた。
「だが、お前は、俺が黙って見ていることを許さないんだろう?」
ソフィアの心境など分かっているという言葉に、ソフィアは悔しさと尊敬の念で、ますます涙を流す。アルベルはそんな泣き顔を眺めて、薄く微笑した。
「明日はカルサアに行く。おそらく犯人は身を守るためにアーリグリフに戻っているはずだ」
ソフィアは目を丸くしてアルベルを見上げた。
「アルベル、さん」
「犯人が果たしてアーリグリフの人間か確定はできん。が、もし推測が当たっていれば、あの女もそう判断してアーリグリフ領に向かうはずだ。
この宿屋に青髪たちが戻ってくるかもしれんが、それは宿の主人に言付けをしておけばいい。カルサアに着いたら、念のために俺の知り合いに菓子の毒の検査を頼む。解毒法が見つかるかもしれんからな」
ソフィアは、嬉しさやら悔しさやらで訳が分からなくなり、唇を強く噛んで、流れ落ちる涙を両手で拭い続けた。アルベルは、ソフィアの肩を軽く叩き、部屋の出入り口の方へと歩みを進めた。そして背を向けたまま、
「今日は部屋に戻って寝ろ。明日のことは明日考えろ」
言い、部屋を出ようとするので、ソフィアはアルベルを呼び止めた。彼は肩越しに振り返り、何の用だというようにソフィアを見た。
ソフィアはぎゅうとスカートを握りしめながら言った。
「アルベルさん、どうか。どうか、ネルさんを不幸にしないでください。
私にこんなこと言う資格なんてないけれど、ネルさんがこれ以上傷つくのを見るのは嫌だから」
ソフィアはアルベルの反応が恐ろしくなって、言いながら顔を伏せていた。アルベルはしばらく動かなかったようだが、返事をしないまま部屋から気配を消してしまった。もともと返答など期待していなかったソフィアだが、やはりアルベルとネルの間にある確執は大きいのだと改めて気付かされ、その場にしゃがみ込み、しばらくの間しゃくり上げていた。
外から虫の音が聞こえてくる。マリアが毒に倒れたことなどなかったように、全ては静寂だった。
(どうか)
ソフィアはうずくまり、自分でも不思議に思うほど流れ落ちる涙を両手で受け止めていた。
(誰も傷つかないで)
祈りは果たして聞き届けられたのだろうか。この先、誰も傷つかないことなど、あり得るはずがないと分かっていたのだけれど。
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