どうしてだろう。
 フェイトは愕然とした。床の上のマリアを見つけたとき、なぜ自分はいつまでもたった一人の誰かを守ることさえできないのだろうと、視界が暗転していく感じと吐き気を覚え、彼女の前にがくりと膝をついた。なぜなのだろう。いつも守りたいものを守れず、気付いた頃には失う直前なのだ。

「マリア」

 部屋の鍵は、なぜか開いていた。そして見えたのだ、床に散らばっている、青い波のように美しい髪が。そのとき直感した。自分は、また守りたいものを守れなかったのだと。
 彼女の意識はもはやないようだった。身体が細かく痙攣しており、それが戦闘中に毒にやられた時の症状と似ているので、おそらく震えの原因は近くに散らばっているマフィンケーキにあるのだろうとまでは判断できた。戦闘中での経験が幸いして、フェイトがとっさに紋章術を唱えると、痙攣は一瞬、それに反応するように止まったが、すぐに同じ症状が現れてしまったため、普通の毒でないことに気付く。蒼白になりながらフェイトが身体を抱き起こすと、彼女の口から生理的に出たらしい大量の唾液が下へとこぼれ落ちた。
 フェイトは悲鳴を上げた。

「マリア!!」

 彼の叫びに反応した二人は、その数秒後に部屋に転がり込んできた。

「どうした、フェ」

 フェイトの背後に走り寄ったネルは、言いかけた口を止め、すぐに彼の左隣にしゃがみ込んだ。素早くマリアの様態を確認し、解毒のための紋章術を唱えたが、ほとんど効果を現さないのを見て、ネルは眉間に皺を寄せた。
 すると、フェイトの右隣に駆けつけていたアルベルが、冷静な様子で言った。

「強力な毒だな。致死の量だ」
「紋章術でも治せない毒?」

 解毒が効かないので、とりあえず体力を持たせるためにヒーリングをかけながら、ネルが額に汗を浮かべて問い返す。

「そんなものがあるのかい?」
「原因はこれだろ」

 足下にあった六個のうち一つのマフィンケーキを蹴飛ばして、アルベルが言う。その菓子を見たネルの顔が、サッと青ざめた。

「それは……」
「おい、どうしたマリア!?」

 クリフとソフィアが背後から現れる。フェイトの腕の中で痙攣したまま意識のないマリアの姿を見たクリフの顔から、またたく間に血の気が引いた。

「お、おい、マリア、マリア!!?」

 アルベルが一歩引いた所にクリフは滑り込み、同じく真っ青な顔をしているマリアの頬を何度か軽く叩く。しかし全く反応がないまま小刻みに震えているので、これは毒だと判断したクリフは、必死の形相でネルを見た。

「ネル、アンチドートは」
「無理だ。何度かかけたけど、解けない毒らしい」
「そうか、よし、フェイト、マリアをディプロまで運ぶ」

 フェイトの返事を待たず、クリフは通信機を取り出すと向こうのオペレーターに指示を出した。フェイトは無言のままマリアを両腕で持ち上げると、部屋の外へ足早に出て行ったクリフのあとを性急に追いかけた。
 マリアの部屋に残されたネルとアルベル、あまりのショックでガタガタと震えているソフィアの間に、再び深い沈黙が訪れる。ネルは、床に無造作に散らばっている崩れたマフィンケーキを眺め、一層青くなっていた。ネルの様子が何やらおかしいと気付いたアルベルは、その場にしゃがみ込み、右手で先ほど自分が蹴ったマフィンの屑を取り上げた。

「食い物に毒か。いち、に……六つ。俺たち全員分だな」

 鼻の前に持ってきて臭いを嗅いでみるが、特に毒性が予想される香りはない。だからマリアも油断してこれを口にしたのだろう。
 マフィンの屑を床に投げたアルベルは、ネルの方にちらりと視線をやった。彼女はじっと床を見つめていて、先ほどのマリアと同じように身体を震わせていた。それは恐怖から来る震えに思われた。
 彼女が口を開く気配がないので、アルベルは低い声で尋ねた。

「お前か?」
「ア、アルベルさん」

 同じくネルの様子に気付いて心配していたソフィアが、いくらなんでもそれはあんまりだという声で、彼の名を呼ぶ。しかしアルベルは背後にいるソフィアに手のひらを見せて、少し黙っていろ、と合図を送った。ネルは彼らの会話など全く聞こえていないかのように、ただ一点を見つめて黙りこくっていた。無論、アルベルも彼女が犯人だとは思っていないが、確実にこの件について何かを知っているようなので、それを聞き出さない限り話が前に進まない。
 また面倒なことになりそうだと、アルベルは、うんざりしながら訊き直した。

「お前がやったのか」
「違う……」

 茫然自失といった状態で、彼女は力なく首を横に振って否定した。

「違う、けれど……でも、ほとんど、私がやったようなものだ……」

 ネルは、震える手で自分の額を押さえた。彼女が自己嫌悪に入っていると気付いたアルベルは、鋭い口調で言う。

「いいか、説明しろ。原因の追求は後に回せ、状況だ、まず状況を説明しろ」

 アルベルはネルを正気でいさせるために必死だった。しかし彼女は彼の言葉を聞いているのかいないのか、まったくアルベルの方を見ようともせず、両手で顔を覆い、はあ、と深い息を吐いた。ソフィアもまた彼女の側に寄り、しゃがみ込んで、丸くなっている背中をそっと撫でた。

「ネルさん……」
「状、況?」

 顔を覆ったまま、ネルは吐き捨てた。

「状況、だって?」
「ああ」

 冷静にアルベルが相づちを打つ。ネルは顔から手を退けて、アルベルをねめつけた

「夕方、マリアが、私たち隠密に菓子をもらったと話してきた。差し入れだから、六人で食べようって」
「封魔師団か?」
「ああ。名前はよく覚えていないと言ったが、ルノアだとかレノアだとか名乗ったらしい。その名前には私も聞き覚えがあった。新人でそんな名前の女がいた気がするとね。マリアは私に菓子を勧めてきたけれど、私は得意ではないからと断った。でも」
「マリアは食べた。スパイだな」

 アルベルは、ネルを睨み返しつつ、そう断言した。

「封魔師団に入ってまで俺たちに毒を盛る、相当な執念だな。お前も狙われたのならばアーリグリフ側の人間と考えるのが妥当か。お前らの施術でも治せない毒というなら尚更だ」
「……でも、どうしてこんな……」

 目に涙をいっぱいに浮かべ、ソフィアが震える声で呟く。アルベルは、自分の周りにあったマフィンの破片を再び手に取ると、それを懐に入れていた治療用の白い布に包み、再び懐に仕舞った。

「知らん。だが、アーリグリフの人間だとしたら、シーハーツ、特にネル・ゼルファーに恨みがある者だと考えられる。その地方性でアーリグリフには陰湿な奴らが多いからな」
「で、でも、六人分もお菓子があったって……」

 ネルだけを狙うならば分かるが、六人分も用意するとなると、フェイト一行そのものに恨みを持っているとも考えられるのではないか。ソフィアの心をくみ取り、アルベルは小さく嘆息した。

「全ての菓子に毒が入っていると断定はできんが、ランダムにこいつ以外が狙われていた可能性は高い。全員殺す気だったのかもしれん」
「そんな」
「この星に別の星の人間が来て、俺やこいつのエリクールの人間以外に恨みを持ち、こいつの部下に化けられるというなら話は別だが」
「……あの毒は」

 黙っていたネルが、やはり焦点を失った目で床を見つめたまま、震える声で呟いた。今にも倒れ出しそうなほど蒼白になっているネルを見たソフィアは、彼女の手を掴んで握りしめた。しかし、ネルは全く反応する素振りを見せなかった。
 ああこいつはもうだめだと、アルベルは内心で諦めながら、彼女の言葉に耳を澄ます。

「あの、毒、は……私の知っているかもしれない毒だ……」
「そうなんですか?」

 強くネルの手を握りしめたまま、ソフィアが怪訝そうに問いかけると、ネルは微かに頷いた。

「施術でも解けない毒。私たちは隠密だから、毒にも通じている。ただ……詳しくは知らなかった。あくまで文献上の話だったから……」
「もしシーハーツ領にあるならば、とっくに毒の研究が終わっているはずだ。おそらくアーリグリフかサンマイト、グリーテン産のものだろう。
 文献にあるということは、お前、解毒の方法も知ってるんじゃねえのか」

 アルベルが問うと、ネルは小さく唇を噛み、かぶりを振った。暗い瞳が意味もなく床やベッドの脚に向けられていて、その震えと顔色から、だんだんと彼女からまともな精神が失われていくのが分かった。だが、アルベルは、別段彼女を救ってやろうとも思わなかった。
 無理なのだ。今の状態の彼女を救うなどということは。

「施術でも解けない毒ならば……施術を使わない方法で解毒できると思うけれど」
「けれど?」
「奇妙なんだ」

 絶望した紫の瞳が、焦点を失ったままアルベルの方へ向けられた。その目が徐々に涙の色を帯びていて、アルベルは純粋な嫌悪を覚え、冷たい目で彼女を見つめ返した。
 彼女の台詞を先読みしたアルベルは、鋭い口調で言った。

「致死の毒なのに、マリアが長いこと床の上で苦しんでいたということが、か」
「そうだ、もう、数時間は経っているはず。けれど、彼女は死んでいない……
 ずっと苦しみ続けていたんだ」

 ぼろぼろと、ネルの目から涙がこぼれだした。そんなネルを、アルベルは、ただひたすら冷めた心地で眺めていた。
 アルベルがネルを庇ってくれないと判断したソフィアは、彼女の手を放し、泣き始めるネルの背中を撫でた。ネルはしゃくり上げ、頬に流れ落ちる涙を指先で拭うばかりである。
 ソフィアは、ネルを慰めつつ、マリアがなぜ死なずに済んだのかを考え、ふと思い当たることがあり、口を開いた。

「もしかしたら、マリアさん、遺伝子操作を受けているからかもしれません……」
「え?」

 ネルが不思議そうに聞き返してくる。ソフィアは、彼女の涙の目を見つめ返して頷いた。

「私たちが特殊な能力をそれぞれ宿されて、それが未来のために必要なことだとしたら、そう簡単に死んで欲しくはないでしょう?」
「毒の耐性が強いということか。お前らの命が下手なところで奪われないために」

 なるほど悪趣味だなと、アルベルが毒づく。

「今回は、それが幸いしたんだな」
「毒だけではなくて、他にも遺伝子操作の影響はあると思いますが」
「けれど、治せはしないんだろう?」

 不意に、ネルが強い口調で問うてくる。ソフィアは彼女から目をそらし、うつむいて、小さく頷いた。

「分かりません……。けれど、苦しんでいるということは、完全な耐性じゃないってことだと思います……」
「私はこれから犯人を探しに行く」

 背中を撫でているソフィアの手などおかまいなしに、ネルは勢いよく立ち上がると、近くの床にしゃがんでいるアルベルを見つめた。アルベルも彼女を見ていたが、顔は先ほどと変わりなく軽蔑に近い感情を表している。

「そして解毒の方法を聞き出す。あの子を死なせはしない」
「行け」

 低い声で、アルベルは言った。それはネルの宣言に賛成も反対もしていない、好きにすればいいという無関心さによって出た言葉だった。ネルは無反応のまま踵を返すと、隠密の早さで部屋から出て行った。