「……ネル」

 アリアスの宿屋の廊下を歩いていたネルを呼び止めたのは、マリアだった。
 ネルが振り返って見ると、マリアの両手には、白い箱――ワンホールのケーキが入るような大きめの箱があった。「ケーキ?」という不思議がっているネルの視線を受け止めると、マリアは、その白い箱をずいと前に差し出してみせた。

「これ」

 何か渡されるのかと思い、ネルがマリアに近寄ると、マリアは箱の蓋を開け、中身が何なのかをネルに見せた。箱の中に入っていたのは、特にトッピングなどは施されていないが、とても美味しそうに焼けている、銀紙のカップに入っているマフィンケーキ六つだった。
 「マフィン?」という、困惑気味らしいネルの視線を受け止め、マリアは説明し始めた。

「さっき、あなたの仲間からいただいたものよ」
「仲間?」

 仲間という言葉によってネルの中で連想されたのは、フェイト一行だった。だが、他の四人からマフィンをもらったところで、彼女が「いただいた」という丁寧語を使うはずがない。
 ここはアリアスの村――そう考えて、ネルは閃く。

「ああ、クレアかい?」

 フェイトたちに快く接するのは封魔師団なら誰でもそうであるが、もっとも接触が多いのはクレアだ。そう思ってネルが訊くと、マリアは意外にも首を横に振った。

「クレアという女性ではないわ。でも封魔師団の女性よ。ネルの部下の人間だって」

 部下と聞かされ、ネルは考えた。マフィンケーキを作って寄越すような人間が、果たして自分の部下にいただろうか、というより、なぜマフィンケーキを作って寄越すのだろう? 差し入れにしては、あまり実用的でないような気もするが……いや、でも、たまにはこういった差し入れであった方が、フェイト達(特にソフィア)は喜ぶかもしれない。それを見越して寄越したというのなら、礼を言うべきだ、しかし……
 深刻そうに考えているネルを見かねて、マリアが肩をすくめながら口を開く。

「あなたたちの制服を着ていて、若い女性だったわ。黒髪で、可愛い感じの人」
「うーん……」

 黒髪で可愛い感じの人と言われても、そういった女性は何人もいるし……とネルがますます眉間にしわを寄せるので、マリアは苦笑した。

「差し入れですって。ネル様たちに差し上げますって。食事係なんですって」
「そう? 名前は聞かなかったの?」
「何だったかしら……聞いたような気もするけれど、確かルノア……レノア? 多分そのあたり」
「似たような名前の子で、入団したばかりの子がいるって聞いたな。もしかしたらその子かもしれない」
「以前ソフィアが、彼女に手作りのお菓子をその子にあげたことがあるらしいのよ。それで感激して、お返しにって」
「ふーん」

 マリアが、どことなく嬉しそうな顔をしながらマフィンを見つめているのを眺め、そうか、それならなんとなく納得できるわね、とネルは頷いた。

「他の四人に配るんだろう? 私は、要らないよ」
「あら」

 意外そうなマリアの視線に、ネルは、小さく肩をすくめた。

「あまり得意じゃないんだ、ケーキ」
「あら、そうなの? 意外ね。たまにソフィアと一緒に作ってるじゃない」
「作ってるだけで食べないからね。作ること自体は好きなんだけどさ」

 今は、夜になるにつれて、廊下の気温も下がる季節である。肌寒さを感じ、腕を組みながら、予約した部屋に戻りたいこともあり、ネルはやや早口で促した。

「五人でお食べ。ソフィアは特に喜ぶと思うよ」
「そう、なんだけど、でも他の四人はみんな村の食堂へ夕食に行ってしまったのよ」
「おや」
「仕方ないわね、とりあえず部屋に持っていって先に食べているわ」

 嘆息し、マリアはネルを引き留めたことを謝りながら、ケーキ箱を抱え、ネルとソフィアの部屋の右隣の部屋に静かに入っていった。
 彼女の部屋のドアが閉まることを確認すると、いつもの通り薄着のネルは「さむさむっ」と小声で言いながら、自分の部屋のドアの鍵を開け、そそくさと中へと入っていった。





 宿屋に泊まる際、寝る前に、一行は明日の計画を話し合うため、フェイトの部屋を訪れることになっている。
 風呂を済ませたネルとソフィアが、男どもの部屋のドアを開けると、ベッドに腰掛けている髪をほどいた姿のアルベルと、部屋にある机の上で工具を並べ作業をしているフェイトの姿が目に入った。クリフは、すでに奥のベッドで爆睡しているようだった。
 一体フェイトは何をしているのだろうと、ネルとソフィアが近寄ると、気配に気付いたフェイトが二人を振り返った。

「ごめん、今ちょっと手離せなくて」

 ドライバーを右手に持ち、左手には手のひらサイズの小さな小箱を載せて、フェイトは苦笑した。
 ソフィアが彼の手元を覗き込みながら、不思議そうに訊く。

「何、してるの?」
「これ、宿屋の人に、壊れたから直してくれって頼まれちゃってね」

 ひょいと左手を持ち上げ、その物体をソフィアに見せてやる。フェイトの手のひらに載るそれは、蓋が開く小箱のようだった。だが、今は修理中のために天地逆さまになっている。裏側に精密な機械が詰まっている場所を見るための蓋があるらしい。
 その物体の物珍しさにソフィアがきょとんとしているの見て、フェイトは言った。

「これね、オルゴールなんだ」
「オルゴール? この星にも、オルゴールってあるんだね」
「グリーテンから流れてきたものが多いのさ」

 ソフィアの後ろで腕を組んで二人の会話を聞いていたネルが、口を開いた。

「そういった精密機械類は、大抵グリーテン産なんだよ」
「グリーテン……って、たまに聞く名前だけれど、どんな国なんですか?」

 ソフィアが振り返って尋ねると、ネルは薄く苦笑いを浮かべた。

「実は、私たちもよく分かっていないんだ。技術国家と言われていて、私たちより遥かに高い文明を持っていると噂されている。見慣れない機械類の裏側を見れば、グリーテンかグリーテン周辺の国産と書かれているんだよ。でも、今、グリーテンは鎖国状態にあるから、そういったものが流れてくるのは密輸のせいなんだ」
「そうなんですか……」

 ソフィアは頷きながら、もう一度フェイトの手に載せられているオルゴールを見た。木箱に細かい金の模様が描かれており、非常に丁寧に装飾彫が施されている。ソフィアがオルゴールを見たのは初めてではないが、地球で見知っているものよりは、ずっと古めかしくアンティーク風で、何かすればすぐに壊れてしまう繊細な物のように思われた。
 ミリ単位の細かい部品を布の上に並べ、いくつもの工具を使って直そうとしているフェイトの姿を目前にして、ソフィアは感嘆した。

「フェイト、なんだかすごいね」
「いや、僕よりソフィアの方が器用だから、本当はソフィアにやってもらった方がいいくらいなんだけど」

 苦笑しつつ、フェイトは右目にルーペをかける。

「でも、請け負ったのは僕だし、みんなにはきちんと睡眠を取ってほしいしね」
「え……でも、大丈夫? 私、そんなに上手くないけど、替わって……」
「いや、いいよ。実はこれ、価格交渉が関わってるからさ」

 細いピンセットで中の部品を動かしながら、フェイトは失笑した。

「宿代を少し安くしてもらえるらしいんだ」
「あ、そうなんだ……」
「僕が勝手にやったことだし、最後まで僕がやるよ」

 ピンセットの先で五ミリ程度の歯車を取り出し、布の上に置いて、また箇所にピンセットを差し込む。
 その細かい作業を後から眺めていたネルは、よくこんな繊細な作業ができるわね、と頭がくらくらする感じを覚えて、フェイトの机から目をそらした。すると、その視線の先にはベッドに腰掛けているアルベルがいて、彼は、ネルの心境を察したのか、うっすらと意地悪に笑ってくる。ネルはむっとして、何か言いたいことがあるなら言えと返そうとしたが、それも大人げない、こんな挑発に乗ってたまるものかと自分を戒めて、フェイトの方に振り返り、彼に尋ねた。

「ねえ、明日は何時に出発するんだい」
「ああ、えっと、明日は」

 フェイトは、自分の手元を見たまま、

「午後でもいいかなって。鍛冶クリエイターが新しい武具の開発を手伝ってくれって言ってきて、一応僕たち用の武具だから本人たちに現場にいて欲しいって話なんですよ。だから、明日はカルサアの工房で一日過ごすことになるかもしれません……」

 ドライバーを使いながら歯車を留め、フェイトはそれを机の上の明かりにかざし、何度かひっくり返して補修箇所を確かめた。神経を使う作業なのだろうし、あまり邪魔はしない方がいいかなとネルとソフィアが自室に戻ろうとすると、不意に、三人の様子を眺めていたアルベルが声を出した。

「青髪の女はどうした?」

 女性メンバーの一人が欠けているということが気になったらしい、アルベルが訊いてきたので、ソフィアとネルは顔を見合わせ、肩をすくめた。

「分からない。部屋にいるんじゃないかい?」
「そういえばマリアさん、お夕飯一緒に来なかったし、食べてないですよね。大丈夫かな……」
「考えてみれば、マリア、まだ部屋に来てないな」

 ふと怪訝そうに眉を寄せて、フェイトはひとまずオルゴールを机の上に置き、両腕を上げて伸びをした。壁掛けの時計を見ると、すでに彼女が普段就寝するため部屋に籠もる頃合いになっていた。
 フェイトは伸びを止め、小さく首をかしげた。

「変だな……いつもは、ネルさんとソフィアが来るより先に、僕たちと予定合わせに来るんだけど」
「寝ちゃったのかな?」

 ソフィアが不安げに呟くので、そうかもしれないとフェイトは頷いた。

「最近、また小食気味だもんなあ、マリア……。身体を動かすと、余計に負担なのかもしれないね」
「あの子、ちょっと痩せすぎなような気がするんだけど」

 ネルが、声を潜めて深刻そうに呟く。フェイトは振り返り、曖昧な笑みを浮かべた。

「もしかしたら僕たちのことが苦手なのかもしれませんね」
「え……そうなるの?」
「あんまり馴染んでないなって時々思います」

 フェイトは再び卓上を眺め、こきこきと凝り固まった肩を鳴らした。

「クリフだとかクォークの仲間と一緒にいる時の方が、マリアはのびのびしてますから」
「ああ、それはもちろんあると思うけど……」
「念のため様子を見た方がいい」

 急にアルベルが鋭い口調で言ってきたので、三人はパッと彼の方を向いた。アルベルは普段から表情が少ないため顔で態度を判断することは難しいが、目つきや口調で、彼が真剣に話しているのか、それとも嫌味を言っているかなどを判断できるくらいには、パーティに馴染んではいた。
 ネルは、意外だというふうに、片方の肩をひょいと上げた。

「どうしたんだい? 警戒して」
「いや……」

 アルベルは、未だ外していない義手を見下ろし、無表情で言う。

「普段から規則的な生活リズムを持ってる奴が、急に何か違うことをするというのは、大抵、何かがあった時だからな」
「え、何かって……」

 ソフィアが不安げに聞き返すと、アルベルは彼女に目線を移し、微笑した。

「さあ」
「そんなこと言われると不安になっちゃうよ。いいや、僕見てくる」

 同じ姿勢ばっかりで身体もバキバキだし、と呟きながらフェイトは立ち上がり、スリッパのままドアの方へ行くと、部屋を出て行った。付けっぱなしの明かりに気付いたネルはそれを消し、特に話すことも無くなったアルベルは窓の方に目を向けて、ソフィアはクリフの寝息だけが響く部屋でおどおどしながらフェイトが帰ってくるのを待った。彼ら三人にとってフェイトは会話の繋ぎ役なので、いなくなってしまうと話しにくくなってしまうのだ。
 しばらく沈黙したままで過ごしていると、突然、アルベルがすっくと立ち上がった。びくっとソフィアが身体を震わせるのと同時、ソフィアの斜め後ろにいたネルも出入り口に身体を向けた。

「まずいな」
「ああ」

 アルベルとネルが、焦燥した様子で立て続けに呟く。二人を見比べながら、え、え、と戸惑っているソフィアを余所に、ネルとアルベルは非常な素早さで部屋の外へと出て行ってしまった。何かがあったらしいと気付いたソフィアも彼らに続こうとするが、そういえばクリフが寝たままだと思い、いびきをかき始めている男の方へ向かうと、身体を揺すって起こしにかかった。