「あの甲高いのはいるか?」

 突然、部屋の入り口から男の声がしたので、ネルはびくりとして振り返り、静止した。丁度、袋の中の荷物を整理しようとベッドに並べている最中だったので、腰をかがめたままの体勢である。
 半開きにされたドアから覗いているのは、あの目つきの悪い、珍妙な髪の色をした男だった。男も同じく驚いたらしく――おそらく、ネルが驚いたことに驚いているのだろうが――ドアノブに義手をかけたまま、やはり静止している。
 今は、朝食を終え、宿泊施設のチェックアウトまで皆がそれぞれ散らばっている時間帯である。地球時間で言えば大体朝の八時半頃で、同室のソフィアは、フェイトと共に買い出しに行った。マリアは部屋が別なので、何をしているのかはネルは知らない。クリフは、アルベルと同室だが、おそらく今頃は外でジョギングをしている最中だ(それを終えると汗を流すために朝風呂に入る、というのが彼の日課である)。
 ネルは朝の時間を部屋で過ごすことが多い。一緒に買い出しを頼まれることもあるが、それはごく希で、外に出ることがあるとしたら、ふらふらと散歩に出かける天気のよい日くらいだった。朝食を終えてからチェックアウトまで大体二、三時間あるので、その間に部下から寄越された書類に目を通したり、武器を磨いたりと実に女らしくない仕事をしている。今日は、特に目立った仕事も無かったので、ここのところ全く整理整頓をしていなかった荷物袋の中を掃除しようと、中身をひとつひとつ取り出していたのだが、その時に現れたのが隣の部屋にいたはずのアルベルだった。
 滅多に女たちの部屋に訪ねてくることのないアルベルがドアと部屋の間に立っているので(女たちを呼びにくるのは大抵フェイトだった)、ネルの脳裏に一瞬「奇襲」という言葉がかすめたが、男の驚いた顔を見る限りその可能性は低そうなので、静止してからおよそ十数秒経った後、ネルはかがめていた腰を少し上げて首をかしげた。

「か……かんだかい、の?」

 明らかに動揺した口調である。
 何やら警戒されていると悟ったらしいアルベルは、あ、と小さな声を上げた後、目線をうろうろさせた。

「あー、と、そふぃあ? だったか」

 名前を覚えていないことに対して怒られるかもしれないと考えたのか、言い直している。
 なんだ奇襲のつもりではなかったのかと、ネルは小さな安堵の息を漏らした。

「ああ……ソフィアちゃんね。ソフィアちゃんは今、フェイトと買い物に行ってるけど」

 ベッドの上に荷物袋から取り出した化粧品一式があることに気付いて、ネルはそれらを密かに手で自分の方へ寄せた。男に化粧品を見られるのは、女としてあまり品がよくないという、ネルの妙な美意識が働いてでのことである。

「な、何? 何かソフィアに用かい?」

 ネルのいささか強張った声音に、アルベルはいつになく慎重な様子で答えた。

「ああ……。今、部屋に筋肉がいなくて」
「え?」
「あ、あー、と……くり、ふ? だったか」
「クリフ」
「それだ。クリフがいなくて、ソフィアならいるかと思ったんだが」

 言葉の意味が分からず、ネルは眉間を寄せながら、苛立って両腕を組んだ。

「はあ?」
「……これだよ」

 アルベルは右手に持っていた二本の細長い白い紐を、ネルに向かって差し出した。ネルは「この紐を取れ」という意味かと思い、アルベルに近づいて、彼の手のひらからおそるおそる二本の白い紐を受け取った。
 すると、「別にお前に渡すつもりじゃなかったんだが……」という戸惑いがちな声が上から振ってきて、ネルは顔を赤くして紐をアルベルの胸に押しつけた。

「悪かったね!」
「は? なんだよ。これは俺の髪を縛っているサラシだ」
「サラシ? ……ああ、道理で」

 あんた髪を下ろしてるわけだ、とネルは納得して頷いた。アルベルの長髪が、肩にかかってさらさらと下にこぼれている。その長さは、彼の膝あたりまであった。
 髪を下ろしている姿なんて滅多に見ないわねと思いつつ、ネルは「で?」と首をかしげた。

「このサラシが、何」
「いつもはクリフかソフィアに結ってもらってんだよ」
「えっ」

 アルベルの意外な日常にネルが驚愕すると、彼は不満げに眉をひそめた。

「……左手が使えねえんだ、俺は」
「あ、そっか、ご、ごめん」

 思わず気の利かないことを言ってしまったとネルは慌てたが、ふと疑問に思ってアルベルに問う。

「でも、義手は?」
「義手だと無理だ。ツメを外した状態なら指に近いんだが、関節の部分に髪が絡まって上手くできない」

 だから今まで周りの人間にやってもらっていたのだとアルベルは説明した。とはいえ、今はソフィアもクリフも外出中なので、彼の髪を結える者はいない。ソフィアがいないことも分かったのだし、諦めて帰るかと思っていたら、アルベルはネルを見下ろして平然と続けた。

「お前、結ってくれね?」
「……え!?」

 またもやネルが動揺したので、アルベルはだんだん苛立ちを感じ始めたのか、少し機嫌を損ねたように早口で言った。

「嫌ならいい。ただ髪が鬱陶しくて仕方ねえんだ。もし奇襲攻撃があったら戦闘で不利になりかねん。髪を結うのもそのためだ」
「い、嫌だなんて言ってないじゃない」

 ムッとしてネルが口を尖らせるのを見て、アルベルは、盛大に溜息をつく。

「で? 結局お前は髪を結うのか結わないのか」
「やるよ、やればいいんでしょ」

 なんで私がこんな嫌な言い方されなきゃなんないの、とぶつくさ言いつつ、ネルは二本の紐を手に持ったまま、くるりと踵を返して部屋の中央まで行き、ベッドを指差した。

「ここにおいでよ。今、上を片付けるから」

 言われて部屋に入り、ドアを後ろ手で閉めたアルベルだが、ネルのベッドの上に荷物袋の中身が綺麗に並んでいるのを見て、アルベルは歩みながら問うた。

「……何か作業中か?」
「え? ああ、いや、荷物整理してただけ」

 ベッドの上に整列していた小道具を荷物袋にまとめて放り込む。
 アルベルがベッドの端に腰かけると、ネルは長いブーツを両脚から引っこ抜いてベッドに乗り、アルベルの背後に回った。

「で、どうすればいいの?」
「長い髪だけを取って、上から包帯みたく巻けばいい」
「分けるのは二本? 一本?」
「好きにしろ」

 じゃあ二本ね、とネルはアルベルの髪を手で梳いた。黒髪が途中から金色に変わる、奇妙な髪だ。指に髪が引っかかる感じを何度も覚えて、呆れてしまう。

「傷んでるね」
「だろうな。色抜いてるから」

 ネルは「色を抜いている」という言葉の意味が分からず、髪を指でとかしながら首をひねった。

「何、色を抜くって」
「何ってなんだよ、色を抜いてるって、そのままの意味だろ」
「染めるんじゃなくて?」
「……お前の国、もしかして色を抜く技術がないのか?」

 アルベルの疑問に、ネルは心底不思議そうに答えた。

「染めるのはあるけど、抜くのは知らない」
「本当かよ。案外時代遅れだな」
「なんだって?」
「俺たちの国では毒草を使って漂白するんだぜ」
「……どっちもどっちじゃないか」

 あまり梳かすと髪がブチブチと切れそうになるので、ネルは長い髪をまとめ、それを二本に分けた。なかなか等分する量が定まらないので、何度か配分を繰り返しつつ、問う。

「でも、どうして色を抜くの? 流行? そっちの」
「……まあな」
「へえ、変わってるね。髪が傷んじゃうじゃない、こんなに」
「俺は何回も抜いてるからな、もう根本がいかれてんだろ」
「毒草使うんだっけ。肌荒れしない?」
「する」

 でしょうねえとネルは呟き、片方の髪をひとまずアルベルの肩から正面側にひっかけると、手元にある方の髪だけまとめて、襟足付近で一度紐を縛った。

「これで巻いていけばいい?」
「ああ」
「でも、これ普段は誰にやってもらってたの?」

 包帯を巻くように、上からくるくると回転させていく。

「あ? だから、ソフィアと筋肉っつってんだろ」
「違う、その前」
「ああ……側近たちだな」
「側近、ね……」

 自分と彼は国の中でも大体同じ地位にいるのに、こいつには側近がいるのか、へええ、と思いながら、ネルはなるべくきつく巻きつつ、長髪の半ばまで結んでやった。ファリンとタイネーブは髪を結うまではやってくれないだろう、クレアも然り、などと心の中で不満を感じつつ、まあそれも文化の違いと納得する頃には、長髪の残り二十センチ程度を残すところで、紐が足りなくなった。

「これ最後どうすればいいの?」
「終わりの方は解けやすいからな、何回か別の部分にきつく巻きつけて、中に入れ込んでくれ」
「分かった」

 ネルは作業中に髪の色を見ながら、なんとなく訊いた。

「ねえ。あんたの髪って地は黒なんでしょ?」
「あ? ああ」
「どっち譲りなんだい? 髪」

 ネルの問いに、アルベルは一瞬沈黙したが、素直に答えた。

「……父だ」
「あ、そうなんだ。じゃ、生え際の色の髪は、父親の髪ってことなんだろう? 綺麗な黒じゃないか。色を抜くなんてもったいないよ、どうしてそんなことをするんだい」
「……さあな。なんでだろうな」