アルベルは、少し胸に痛みを覚えながら、ネルが放つ言葉を受け取っていた。
 アルベルが髪の色を抜いているのには、訳がある。それはアルベルの父、グラオに対する懺悔からだった。
 グラオは美しい黒髪を持つ、強く凛々しい男だった。誰もが認めるほど勇敢で、武芸にも優れ、それゆえに疾風の団長に抜擢された程だった。仕事を上手くこなし、軍を統率することにも卓抜しており、部下からも非常に慕われていて、「自分の父にするには勿体ない」と幼いアルベルが思うほど、彼は素晴らしく尊敬すべき男性だった。
 しかし、同時に、アルベルは何事にも秀でている父親を憎んでいた。グラオはあまりに仕事ができるために、軍部で危険な任務を負わされることが多く、何週間も家に戻れないことが希ではなかった。その間、カルサアの家にいる、グラオの妻である母が可哀想だと、幼心にアルベルは思っていた。アルベルの母は美しい銀髪を持つ色白の女性で、身体が少し弱く、まさしく「儚い」という言葉が似合うような人だった。
 彼女は、夫の不在を嘆くことはしなかった。忙しい夫に我が儘を言えるような女性ではなかった。「仕方ないわ、だってお仕事なんだもの」という静かな声がたびたび部屋に響くことが、アルベルの小さな心を深く傷つけていた。
 強い父を果てなく尊敬し、同時に強く憎む。
 それは、永久に続く呪いのようにも思える。
 父への憎しみは反抗となって、アルベルの内から外へと出た。いつか、力において父を抜き、自分が最強という名を手にしてやろう、そして母がどれだけ悲しんでいるかを父に知らしめてやる、自分の発言が威力を持てば、父を任務やら遠征やらで失わずに済む。そう考えたアルベルは、狂ったように稽古にのめり込んでいった。訓練所に出向いては、朝から晩まで身体を鍛えることしか考えなかった。だが父よりは多く母の元へ帰ってやるという意地があり、定期的に、寂しげな母の家を訪れた。日々強くなっていくアルベルを見て、母は、悲しげではあるが優しく笑ったものだ。
 もし自分が最強になれば、仕事ができるようになれば、任務の軽くなった父が、もっと母の所に帰ってくれるかもしれない。
 そう信じて力を求めたアルベル十代半ば、焔の継承の時。
 父グラオは、継承に失敗したアルベルを庇って即死した。
 アルベルは呆然とした。炎に巻かれている自分の腕の痛みなど忘れてしまうほどに、業火で焼かれる父を目前にして、ただ、ひたすらに意味を考えていた。強さを求めることの意味を。
 大火傷を負いながらアーリグリフへと帰還し、寝床の上で目覚めた時、アルベルの左腕は切断されていた。重度の火傷で壊死がひどく、もはや腕としての機能が果たされていないという医師の判断だったらしい。肘の辺りから先が、あるはずなのに無くなっているという、その光景を眺めながら、アルベルは急速に記憶が巻き戻される感覚を抱き、父が炎に巻かれて焼け焦げていく場面を思い出すと、発狂した。
 なぜ、と。
 お前は泣きもせずに、ただそう叫んでいたのだと、ウォルターは後に言った。
 アルベルが失ったものは、腕と父だけではなかった。昏睡状態でいた間に、母が病で倒れたらしい。報告されたアルベルは、周りに散々止められながら、身体を引きずってカルサアにある自宅へと向かった。部屋に入ると、母親がたったひとりでベッドに横になっていた。傷みと熱さで汗だくになりながら母親の側に行き、話しかけると、やせ細った母はポロポロと涙をこぼしながら泣いた。それは、いつも微笑していた母親が初めて悲しみを露わにした表情だった。
 母は、苦しげに息をしながら言った。

「あなたは、強さの意味を取り違えています。
 パパの持っていた強さは、人と国を守るための強さだったのよ。
 なら、あなたの求めた強さとは、一体何だったのでしょう」

 アルベルは、その時、初めて泣いた。
 母親が横たわるベッドの側で、ほとんど倒れるようにして、長い時間泣き続けていた。父を殺してまで自分の求めた強さとは一体何だったのだろうと、頭の中で答えを探していた。
 次に気が付いた時、アルベルは、アーリグリフ城の病室にいた。
 アルゼイが無表情で歩み寄り、天井を眺めるアルベルに向かって静かに告げた。

「お前の母君は二日前に亡くなったよ」

 それから、アルベルは心を閉ざした。
 訓練もせず、部屋に籠もり、強さとは何かを考えていた。
 鏡に映る自分の姿は、成長するにつれて父に似通ってきている。本当にアルベル様は綺麗でいらっしゃる、まるでグラオ様そっくりですわという、かつてのメイドたちの声が蘇ってきて、アルベルは激しい怒りに襲われ、自分の姿が映し出される鏡を全て叩き割った。城にある鏡は手当たり次第に割っていった。父に似ているなどという真実に耐えられなかった。自分は父に似てはいけなかった、あんなに美しく聡明で尊敬すべき男に似ているなど、あってはならなかった。
 アルベルは己を憎み、厭い、父譲りだと言われていた美しい黒髪の色を毒草を利用して抜いた。突然金髪になったアルベルの頭を見て皆、驚き悲しんだが、もはや髪の色も、自分の姿も、命でさえ、どうでもよかった。生えてくる新たな黒髪は毒で色を抜き、邪魔ならば髪を切り、火傷を負った腕には更なる痛みを与え、命まで絶とうとした。だが、自殺することだけは、アルゼイもウォルターも許してはくれなかった。

「お前は生きなければならない、それが、お前が唯一できる父への罪滅ぼしだ」

 ウォルターにそう言われたアルベルは、言葉に呪われた。アルベルは、もう独りで死ぬことができなくなった。
 アルベルは苦痛に苦しむことになった。火傷の痛み、腕を失った悲しみ、両親を殺した悲嘆、上手く身体が動かず、ただ虚しく、全てが無意味であって、生きる希望など見い出せない、時が経つのが遅く、日が昇り、暮れていく毎日が重たい。感じるのは一生背負った罪の重さだけ。
 何もかもを、食べることさえも放棄し始めたアルベルを見かねて、アルゼイは言った。

「今は全てを忘れ、ただ強くなりなさい」

 アルベルは、痛みと悲しみを忘れるために、再び訓練にのめり込んでいった。空虚の心が生み出す力というものはとてつもないもので、慈悲と憐れみの欠如によって力の加減を知らないせいか、身体に負担がかかるほど、非常な実力をつけていった。時折ウォルターたちに訓練場から引き離されながらも、片腕を失った状態でいかに戦えるかを考慮しながら、だんだんとアルベルは正気を取り戻していった。強くなる、ただ強くなる、生きて強くなれば、いつか罪が少しでも軽くなる日が来るかもしれない。そう思うことだけが、アルベルの心を救う唯一の手段だった。
 しかし、「強さ」が一体何なのかということは、アルベルには分からないままだった。
 アルベルには、ふと思うことがある。それを思うたびに、心はあの十代半ばに引き戻されて、言い様のない悲しみと苛立ちに襲われ、また鏡を破壊し、髪の色を抜くことを繰り返す。
 母は、最愛の人を殺した自分の息子を憎んで死んでいったのだろう。

(けれど、お袋。
 俺は、俺はな。
 あんたに、親父を会わせたかったんだ。
 俺が強くなって、親父に、もっと家に帰ってほしかったんだ……)





「……大丈夫?」

 不意に声がして、アルベルはハッとした。見えたのは、宿屋の一室にある、ベランダへと出られる大きな窓だった。

「ぼうっとして」

 すぐ後ろで聞こえるのは、女の低い声。

「……
 ああ」
「できたよ」

 ネルが前に回ってきて、裸足のまま床に降り立つ。少し腰をかがめて、まじまじこちらを見つめてくる。二つに結わえた髪の位置を確かめているらしい。
 アルベルが黙っていると、ネルは唇をすぼませた。

「ちょっと、ずれたかな」
「かまわん」

 アルベルは立ち上がり、二本の触角のような重みを背中に感じて確認した後、凝った肩をぐるりと回した。

「悪かったな」
「いいよ。けっこう楽しかった」
「そうか」
「私、髪短くて結うことってないからさ」

 ベッドの方に戻り、端っこに腰かけて、脱いだロングブーツを履き始める。アルベルは側に立ってそれを見下ろしながら、なんとなく言った。

「伸ばせばいいだろう」
「え、邪魔じゃないか」

 当然のごとく言われて、アルベルは閉口した。

「……」
「でも、結うなら、あんたみたく長く伸ばすのもいいね」
「好きにすればいい……」
「ま、短いのは楽だからいいけど」

 ネルがもう片方のブーツを履き終えたとき、部屋のドアの向こうから声がした。

「……ね! あ、あの、今は、ちょっと無理みたい!」

 この声はソフィアである。

「ねっ、えっと、ネ、ネルさん着替えてるみたいだから! フェイト、とりあえず、そっちの部屋に行こう」
「なんだ、そうなの。仕方ないな……」

 フェイトの声もする。
 事情を悟ったアルベルは、なんだ面倒くさいのが来たなと、ネルに聞こえない程度に嘆息した。ネルは意味が分かっていないらしく、私は着替えなんかしてないんだけど、と怪訝な顔をしたので、アルベルは青ざめた。

「ねえ、ソフィ」
「待て」

 ネルの口を右手で覆う。

「む、むう……!?」
「黙ってろ」

 凄みをつけてアルベルが言ったためか、ネルは抵抗するのをやめた。
 しばらくして、隣の部屋のドアが閉まる音がした。壁の向こうから話し声が聞こえてくるので、二人とも部屋に入ったらしい。アルベルは「いいか、これから大きな声で喋るな」とネルに念を押し、ネルが頭上にクエスチョンマークを浮かべながらも頷くのを確認すると、そっとネルの口から右手を外した。

「……ちょっと、なんなの?」

 声を潜めて、ネルが納得できないといったふうに睨んでくる。アルベルは説明しようとしたが、おそらくこの女は理解できないだろうと判断すると、すたすたとドアの方へ行き、ドアノブに右手をかけた。

「じゃあな」
「え? ちょ」
「ご苦労だった」

 ネルの言葉を待たずに、アルベルは部屋の外へと出た。ドアを閉め、きっとネルはベッドの上で「わけが分からないんだけど」という顔をしているのだろうなと可笑しく思いつつ、さてどのタイミングでフェイトたちの部屋に入ろうかと考えていると、隣の部屋からソフィアだけ出てきた。
 あ、という顔でこちらを見上げてくるので、アルベルは近くまで行って、ソフィアの頭をぽんぽんと撫でた。

「すまなかったな」
「えっ、あ、い、いいえ!」

 ソフィアが少し顔を赤くしてわたわたと両手を振るのに笑ってから、アルベルは自分の荷物が置いてあるフェイトのいる部屋へと入っていった。