彼女は夜になると、宿屋の一室にひとりでいる。
 睡眠時間は四時間あれば十分らしい。





 宿屋の廊下を歩き、部屋の前に立つ。目覚めている人間の気配は無く、誰かの寝息が微かに聞こえてくるほど、辺りは静閑としていた。同室の人間の寝姿は確認したので発見される心配はないと思うが、やはり、アルベルはこれから為すべきことにためらいを覚えずにはいられなかった。だれかに目撃されたとなると厄介なことになりかねない。暗い廊下を見回し、思い悩んだが、しかし退く理由もなかろうと意を決し、静かにドアを片手で叩く。

「……はい?」

 少し間をあけてから、不機嫌な女の声が返ってきた。一日四時間というのは本当だったようだ。迷いの気持ちを捨てられないまま、アルベルを視線を床に落とすと、

「……話がある」

 と、ドアの向こうにいる女に小声で言った。本当はあまり乗り気でないというのも相手に伝わってしまったかもしれない。
 いきなり自分の部屋を訪ねてきた声の主に気づいたらしい女は、今度は、不思議そうに声を低めた。

「何の用?」

 問われたので、アルベルはとにかくドアを開けろという意味で沈黙した。少し経ってドアが開き、隙間からマリアの姿が見えた。寝不足の結果なのかは不明だが、顔色が青白い。眠いなら寝ればいいと思うものの、アルベルは以前より彼女には何も言わないことにしている。言ったところで、この女性からは文句しか返ってこない。
 男を見上げて、マリアは、やはり機嫌悪そうに眉をひそめた。

「何なの、こんな夜中に」
「邪魔か?」
「……別に」

 誰もいないし平気よ、と、意味もなく一人しか泊まっていない部屋を振り返る。その動作は、ひどく怠そうに見えた。もとよりあまり表情のない人間なので、マリアに対する仲間内の評判はいまいちと言ったところだ。とても真面目で賢い性格のため、やや近寄りがたい存在になってしまっているらしく、彼女自身にもそれについては自覚があるようで、仲間と距離を置こうとしている節が初めからあった。

「聞きたいことがある」

 マリアはしばらく動かなかったが、そのうち人を馬鹿にしたような笑みを微かに浮かべた。アルベルは何一つ表情を変えずに、

「あいつに知られたくないなら、心配ない」

 ある理由を前提に言う。言葉の意味を当然悟ったマリアは、急に目をつり上げた。

「何それ」
「別に俺は夜這いしてるわけじゃねえよ」
「閉めるわよ」
「お前は、あいつの保護者だろう」

 びしりと、自分より身長の低いマリアの額に、アルベルは人差し指を突きつけた。それから、ずいと顔を近づけると、皮肉たっぷりの口調で、

「俺は、青髪の男のガキに酷い言葉を投げられました」

 にたりと笑みを浮かべる。

「保護者である青髪の女に告訴しようと思います」
「もう戻ってくれない?」
「本当は来たくもなかったんだが」

 低く言い、マリアの額から指を退けた。

「お前が救われないだろう」

 横を向き、暗い廊下を眺めて嘆息する。他の人間の気配がないことに安心しながら続けた。

「俺は謝られるようなことはされてねえし、お前も謝るようなことはしてないはずだ」

 この男は退かないと観念したのか、マリアはドアを大きく開くと、踵を返して部屋に戻った。入ってもいいということらしい。他の人間がいると落ち着かないという理由で、普段からマリアは自腹を切って一人で部屋を取るようにしている。三人は泊まれるほど大きな部屋だ。贅沢なもんだなとアルベルが胸中で毒づいていると、部屋の壁際にある椅子に腰かけたマリアが、こちらに目をやって「どうぞ」と促した。
 アルベルは、中に入るとドアを後ろ手に閉めた。静かな部屋の中は、テーブルのランプだけが唯一の照明で、窓は開いており、夜風がさらさらとカーテンレースを流している。ベッドは全く使われた形跡がなく、シーツまできちんと丁寧にたたまれている。居場所を目で探すが、とりあえずドア付近の壁に背をもたれ、腕を組んだ。部屋の中にずかずか入り込む気はもとよりない。

「驚いたわ。あなたが気にして夜中に訪ねてくるなんて」
「一方的に謝られても気持ち悪いだけなんでな」
「それもそうね」

 肩をすくめ、マリアは平然と言った。それから物憂げに窓の外を眺め、そのまま沈黙してしまった。
 アルベルは、密かに彼女の身体を心配していた。マリアがたまに具合悪そうにしているので声を掛けるのだが、いつも「大丈夫よ」の一言で会話は終わってしまっていた。彼女は他人に干渉されることが何より嫌いらしい。この前、気まぐれで彼女が答えてくれたことが「睡眠時間は四時間あれば充分」だった。別にアルベルにとっては大したニュースではなかったが、肉弾戦向きではない彼女が戦闘に引っ張り出され、体力を消耗し、それでいて眠らないとなると健康上、致命的で、この華奢な身体によくないことは明らかだった。

「で」

 マリアが、気の乗らない調子で切り出した。

「あなたは、私の謝った意味を知りたいっていうの?」
「ああ」
「私はね、私が救われなくても別にかまわないのよ。無視してくれればよかったのに」
「正直に言うけどな、わけを聞きに来たのは、単に俺の気分を解消するためだ。お前のためじゃない」

 マリアは眉を寄せて不機嫌さをあらわにした。ここで追い出されても困るアルベルは、それ以上の嫌味は止めた。

「あいつは、俺を嫌っている」

 アルベルの告げた言葉に、マリアの顔が曇る。

「あれは、嫉妬だな」

 断言すると、マリアは落胆したように、今度は悲しげに闇を見つめた。その深刻そうな横顔を見て、アルベルは今の自分の状態が情けなくなった。他人の恋愛沙汰に巻き込まれること自体、馬鹿馬鹿しい。

「あの女が俺に対して穏和になったんだとよ」

 ふてくされ、その場にあぐらをかいて座り込む。邪魔になったカタナを横に置き、後ろの壁にもたれかかった。ついでに壁かけ時計を見ると、日が昇るまであと二時間というところを差していた。

「すごく面倒くさいんだが」
「彼は……まだ子どもなのよ」
「なぜ俺に言う」

 昼間のことを思い出し、だんだん腹が立ってきて、拳で床を軽く叩く。

「直接聞けばいいだろう、あの女に。俺にどうこう言っても女には伝わらん」
「そうね」
「俺が、あいつを苦しめているのは……」

 知っていたけれど。
 最後の方は、声にならなかった。
 昼間の出来事で、フェイトは、アルベルの逆鱗ぎりぎりまで触れていた。彼は別の世界からやってきた人間である。このエリクールで生まれ育ち、幼いときから武器を取ることを要され、無理矢理戦争に巻き込まれたこちらの人間の何が分かるという。
 アルベルがフェイトに対して気に入らないことは、彼が、たった少しの間いただけでエリクールの世界を理解しようとしていることだった。文明の差はあるだろう。しかし、この星に住む人間の心まで分かろうとするのは甘い。アルベルは青年のことを嫌いではなかったが、前々から見え隠れしていた甘さがしばしば癇に障っていた。

「彼はね、きっと、一生懸命理解しようとしていたんだと思うの」
「何だと?」

 不快を隠さずに聞き返す。マリアは、アルベルに目を合わさないまま続けた。

「ネルのこと。あなたのこと。私たちの中で、仲間のことを誰よりも心配しているのは彼なのよ」
「どうだかな」
「まだその器がないのね」

 マリアは苦笑いを浮かべながら立ち上がった。今度はベッドのふちに腰かけ、開いた窓から外の風景を眺める。

「ネルに頼って欲しいと思ってるのよ。でも、いつも空回りしてる」
「なぜ俺が巻き込まれなきゃならねえんだ」
「巻き込んでしまうほど、まだまだ未熟ってことよ。彼について、ネル自身は特にどうとも感じていないと思うわ。彼女、私たち別の星の人間とエリクールに住む自分たちには境界線があると少なからず感じてるようだもの。隔たりのない男女だなんて、なおさら思えないでしょうね。なのにフェイトは、一生懸命に分かろうと、分かってもらおうと努力しているのよ。笑っちゃうわ」

 髪をかき上げ、マリアは笑みを含む声で言った。どんな表情をしているのかは、背を向けられているアルベルには分からない。

「でもネルは理解されようなんてこれっぽっちも思っていない。だからあなたに当たったのよ。彼女と同じエリクールの人間である、あなたに。悔しいからね」
「……別に、俺は、あの女の気持ちなんぞ分かっちゃいねえけどな」

 よく分からない態度に少し気味悪さを感じつつ、アルベルは自分のカタナの柄をいじくりながら低い声で呟いた。マリアが、すぐさま言葉を返してくる。

「フェイトは絶対にあなたを超えられない。ネルの気持ちをより分かるのはあなたなのよ。同じ戦いをして、同じような立場にいて、昔からのエリクールを知っているんだから。無論、あなたたちの過去を知るなんてことは私たちの技術では容易だけど、それでも割って入ることなんてできないわ。フェイトは全て分かっているのよ、決してあなたを超えてネルを理解することはできないんだって」
「要するに、諦めが悪いだけなんだろ」
「そうね。つまり、彼は失恋してるってこと」

 胸くそ悪い単語だと、アルベルは眉をひそめた。

「俺にどうしろって言うんだよ」
「あなたは何も悪くない。だから、私は謝ったの」

 とうとうマリアが本題を切り出した。アルベルは気を取り直し、彼女の後ろ姿を見つめた。青い髪がしっとりと流れ、身体の線は心配になるほど細い。

「申し訳ないわ。フェイトが、あなたたちに介入できる範囲外の部分まで立ち入ってしまって」
「お前、あいつの代わりに謝ったのか?」
「そうよ」
「お前らの星を代表して?」
「エリクール上で言えば、そういうことね」
「本当か?」
「本当よ」

 何度も念を押すアルベルに、マリアが振り返って不思議そうな表情を浮かべた頃。

「違うな」

 アルベルは、きっぱりと断言した。

「お前が俺に対して申し訳ないと思うのなら、お前は、俺に謝るんじゃなく、まず最初にあいつに怒りを向けたはずだ」
「え?」
「前らしくないんだよ。お前まだ奴を叱ってないだろう? 武器屋の外であいつが俺に対してわめいていたとき、お前は、まるで事情を全て知っているかのような調子でやって来た」
「……」
「あのとき、お前はあいつを非難するのではなく、なぜか俺に先に謝ってきたよな」

 マリアのこちらに送る視線が、しだいに暗みを帯び始めた。

「武器屋での俺たちの会話を全て聞いていたんだろう」

 今回は彼女を責めに来たのではない。マリアが落ち込み始めたのに気付き、アルベルの心には惑いが生まれた。だが、ここで切り上げても中途半端に終わってしまうだけだ。

「お前は……悔しいんだよな。あいつが俺に嫉妬しているのを知っているから」
「……やめて」
「それと同じように、お前もネルに対して嫉妬しているんだ」
「やめて!」

 マリアは立ち上がり、アルベルに向き直った。唇をかみしめる顔は今にも泣きそうに歪んでいる。しかし彼女は決して涙を見せないだろう。彼女は、いつだって強くありたいのだ。
 アルベルは容赦なく後を継ぐ。

「あいつに文句を言えないのは、お前自身を守るためなんだろ」
「やめてって言ってるでしょう」
「惚れた奴に嫌われることほど恐ろしいことはないからな」
「違う! やめて!」
「怒る勇気がなかったんだろ」

 言葉に我慢ならなかったのだろう、マリアはつかつかと歩み寄ると、怒りに満ちた表情でアルベルをねめつけた。珍しく感情を露わにしている様子が可笑しくて、アルベルは鼻で笑う。

「二人とも失恋してんだ。哀れだな」

 マリアの顔が、憎しみに歪んだ。

「あなたに何が分かるっていうの? 分からないでしょ。分かって欲しくもないわ。私はフェイトに対して何も望んでない。そもそも今はそんなくだらないことを考えている場合じゃないの」
「お前はこれからも自分の感情を押し殺しながら戦闘であいつと一緒に並ぶってわけか」
「言っておくけど、私はね、彼が誰を好きになろうが憎もうがどうだっていいのよ。関係ないもの」
「でも、俺に謝っただろう、お前は」

 アルベルの一言と強い眼差しに、マリアは口を噤んだ。どんなにしっかりしていそうに見えても、やはり年相応なんだなとアルベルは胸中で呟く。

「お前は、義務以外を言葉に出さないから損するんだ。俺に謝ってきたのも、お前があいつを大切に思ってるからなんじゃないのか」
「……」
「あいつを恨まないで欲しいって言いたかったんだろ。同じ種類の人間として。あいつのやり場のない感情の行き先が俺への罵倒であることの許しを請うために。なぜなら、お前もあいつと同じ嫉妬深い心を思い知らされているからだ」
「あなたは」

 なぜか彼女は背を向けた。

「いいわね。そんなに客観性があって」
「は?」
「あなたは孤独だから、想いに縛られることもないでしょう? 楽じゃない。私みたいにくだらない恋なんかしてないものね」
「……どうだかな」

 頭をかきつつ、アルベルは武器を杖代わりにして立ち上がった。これ以上もめ合うのには意味がないだろう。
 アルベルは自分の前に佇んでいるマリアの後ろ姿を眺め、淡々と言った。

「お前はもっと賢い女だと思っていたが、けっこう女々しいんだな」
「何よ」

 反射的に振り返ったマリアの目にうっすらと涙がつもっているのは指摘せず。

「そういうところをあいつに見せてやれよ」

 アルベルはふっと笑った。

「ひとまずお前が謝った理由は分かったし、俺自身の気分は晴れた」

 マリアに背を向けてドアを開け、そっと廊下を確認する。人の気配はない。

「夜中にすまなかったな」
「……」

 返事がないので再びマリアを振り返ると、彼女は依然むすっとした顔で床に視線を下ろしていた。もしかしてすねてるのか?とアルベルは意外な一面に可笑しさを覚え、からかいのつもりでマリアの額を指先で小突き、じゃあなと部屋を後にした。