彼女は、彼にとって、影だった。
とてもきれいな影だった。







 わたくしが森の中の彼の小屋を訪れるようになったのは、実は、ノエルがエクスペルに来て間もなくのことでした。というのは、彼の小屋を紹介したのはわたくしだからです。
 ノエルは、共に冒険した仲間たちが解散したあと、動物学者として研究資料を集めにリンガに行く、と言い出しました。わたくしは身寄りのない彼のことが心配でしたので、出発前に、彼に「わたくしは身体を休めるためにしばらくマーズ村の実家に戻っています、リンガから帰ってきたら、まずわたくしの家に寄って下さい。わたくしがあなたの住む物件探しの手伝いをいたします」と伝えて、彼をハーリーから送り出しました。それから数週間後、ノエルは両手一杯にカバンを携え、私に言われた通り、マーズ村に戻って来ました。彼は、わたくしの家に宿泊しながら、わたくしと共に生活の手はずを整えていきました。マーズ村の裏手の森の中に小屋を持っているご老人がいて、その方はマーズ村に住んでいたのですが、小屋を手放すとのことで、エクスペルでも自然の中に身を置きたいと思っていたノエルは、その小屋を譲り受けることになりました。小屋に足りない家具などを運び込み、風呂場などを増築している間に、三ヶ月が経ちました。彼は長らくわたくしの家に滞在していることを申し訳なく感じていたようですが、今まで過ごしていた環境を全て失い身寄りがないということがどれだけの悲しみと恐怖であるか、わたくしにはとても気がかりでしたので、何も気にすることはないと常々彼に言い聞かせていました。また、彼はエクスペルの文字を書くことができなかったので、小屋の準備をしている間、その教師役もわたくしが務めていました。
 彼は、気丈でした。今まで所有していた全てを星の消滅と共に失い、その優しい心は空虚に違いないのに、彼は常に穏やかな微笑みをたたえていました。わたくしは、その穏和な気質を疑いはしなかったものの、その奇妙な平静さは、どこか時間という概念を失った“停滞”のような印象をわたくしにもたらしていました。まるで、彼の時間は、ネーデの消滅前から停止しているようにも思えました。もちろん、彼自身、ネーデがエクスペルの代わりに消えてしまったことは理解していて、その犠牲は必要なものであったとも納得していたようですが、それは、わたくしには、彼が“納得しすぎ”のような、あまりにも理解が早すぎるような気がしていて、とても不安でした。無理して元気に振る舞っている感じもせず、潜めている感情を爆発させる気配もなく、エクスペルでの日々を淡々と過ごしている姿は、わたくしにはむしろ悲しく感じられ、彼が果たして何を考えているのかよく分かりませんでした。ただ、もし彼が何か張りつめているものを心の奥底に押し込めているのだとしたら、わたくしの前でなくとも、いつかそのわだかまりを爆発させて欲しい、と思っていました。そうでなければ、全てを失うという悲しみを“悲しまないで乗り越える”ことは、不可能でしょうから。
 ノエルは、エクスペルに来てからおよそ四ヶ月半で、滞在していたわたくしの実家から森の小屋へと引っ越しをしました。その直後、わたくしにある依頼が入り、わたくしは一ヶ月近くマーズ村を離れなければならなくなってしまい、必然的に彼の傍を離れざるをえませんでした。相変わらず彼のことが気がかりでしたが、あまり彼に干渉しすぎても彼自身のためになりません、そう言い聞かせて、わたくしは、受けた依頼をこなしに船で大陸を離れ、ラクール周辺へと向かいました。