「……」

 静寂の中、口を開きかけ、ロランはまた閉じた。パーシヴァルに対して一体どんな言葉をかければ正解なのか分からなかった。必要最低限のことすら伝えずにいて申し訳なかったという謝罪は逆に相手を苛立たせるだろうし、だからといって彼の今の心境に無関心でいるのも失礼なような気がした。ロランが思うに、この疾風の騎士は心の底からクリスのことが好きだったのだ。以前ボルスから聞いた話からすれば、ロランがクリスを想うよりもずっと前から恋慕を抱いていて、さらりとした態度の中には、彼女に対する深い愛情と慈しみが隠されていたのだろう。しかし愛する女性の視線はいつの間にエルフの弓使いに向けられ、あろうことか結婚もしていないのに子どもまでできたというのである。恋愛におけるひとつの失恋とは言えども、男にとってこれほど悔しいことはないだろう。
 だからといって、謝るのはやはり違う気がする――そうぐるぐると悩んでいると、パーシヴァルが口を開いた。

「別に謝ってもらおうなんて思っていませんよ」

 ずばりロランの思考を当ててくるのは、心理戦に強い男の得意とするところだ。パーシヴァルは依然怖い顔をしてクリスの部屋のドアを睨みつけている。

「ただむかついただけです」
「……ええ」

 結局言葉は選べず、相槌を打つことしかできなかった。こういうとき会話における自分の語彙のなさにうんざりする。決して心理分析に疎いわけではないと思うのだが、分析したところで相手へどのように声掛けすればいいのか分からないのだから、結局のところ相手の目には無口な冷たい男にしか映らないだろう。ボルスやレオだったらまだ話しやすいのだが――そう考えて、やはり自分はこの男が苦手なのだなと密かに溜息をつく。
 しばらく寂が続いたのち、パーシヴァルが話し始めた。

「いまだに。
 いまだに考えるんです。どうして俺は駄目だったんだろうと」

 話を聞く気は無論あるが、ロランは相槌も頷きもしなかった。ただ目を伏せてパーシヴァルの紐靴の先を見つめていた。

「どこで道は分かれたんだろうと。あなたの存在がなければ彼女は自分を選んでくれただろうか、あなたがいたとしてもどこかできっかけを作れただろうかと、考えれば考えるほど苛立ちや自己嫌悪でどうにかなってしまいそうでした。だってそうでしょう、明らかに俺のほうが彼女に対してうまい言葉をかけてあげられていましたよ。ただただ好きな人に優しくしようと努力していたんですから、戦場のみならず、態度でも言葉でもフォローしていたはずだった。言葉少ななあなたよりずっとね」

 パーシヴァルの言葉は真実に違いなかった。無論、ロランもクリスのことが恋人同士になる以前から大事だったし、心底敬愛する対象だったが、恋愛という感情に繋がったきっかけであるクリスの「そばにいて欲しい」という言葉を聞くより前から、パーシヴァルは献身的に彼女のサポートをしていたように思える。二人のやりとりについて当時あまり注目したことはなかったが、堅物な男たちばかりいる騎士団の中で、彼の気さくな雰囲気が周囲を和ませることに一役買っていたのは確かだった。美貌や出で立ち、ウイットに富んだ会話、その努力家な性格を知れば、誰もが彼に一目置くだろう。無口で冷徹なエルフの弓使いではなく、ずっと社交性のあるこの男がクリスの恋人であると言われた方が、みな納得できたに違いない。
 それでも、クリスはロランを選んだのだった。人が恋愛感情を持つことに理由はないのだと本人やサロメからも言われたし、それが真理かもしれないと感じ始めているが、やはり出どころのない感情というものはあまりに理屈がなさすぎて、ロランは彼女との間に子どもがいる今でさえも不思議に思うのだった。

「正直、予想外でした。彼女があなたに傾き始めたときには愕然としたんです。一体いつからだったのだろうと必死に記憶を辿ってみましたが見つからず、なぜ駄目だったのだろうと自問し続けることが情けなくて本当に嫌だった。彼女があなたと本格的に愛し合い始めたときには、もう諦めようと何度も自分に言い聞かせて、仕事中にあなた方と会話することすらつらかった。自分がどれだけ彼女のことを愛しているか、そのたびに突きつけられて、心が切り裂かれるようでした。しまいには、ボルスにも気を遣われる有様だった」

 ボルスの名前が出たところで、パーシヴァルは苦笑した。視線は、いまだに鋭く前を見つめたままだったが。

「今だから言いますけど」

 続けざまに言う。どうやらパーシヴァルの腹の虫は治まらないらしい。

「クリス様に子どもがいるとボルスから知らされたときには、頭を槌で殴られたかと思うほどショックでした。もう取り返しがつかないのだと、人生であれほど絶望した瞬間はなかった。あなたに敵意すら感じました。同時に、仲間にこんな思いを抱く自分はなんと卑しい人間なのかと、己が憎くて仕方なかった。慎重で真面目な貴殿のことだ、ロラン殿こそ妊娠を聞いたときは驚いたのかもしれないし、では一体何を考えてこうなったのか俺はあなたに問い詰めたかった。けれど、そうしたところで果たして何になるのか。いろんな感情を封印しました。俺の出る幕はないのだと割り切るよう努力した……」

 消え入るように言うパーシヴァルの横顔を見て、その少し怒りの混ざる無の表情の中に、痛烈な悲しみがあることをロランは悟った。決してそうはしないだろうが、今にも泣き出しそうに見えた。彼は田舎に戻ってからもずっと苛まれ続けていたのだろう。離れた場所から愛しい人を思いやりながら、無関心なエルフの男に静かな怒りを向けていたのかもしれない。
 一番に愛する者が手に入らないという苦しみをロランは今や知らないし、彼の立場になってみることもできないが、ロランには言いたいことがあった。

「正直に申し上げてもよろしいですか」

 ロランの言葉にパーシヴァルは振り返らないまま、少し間をおいて「どうぞ」と促した。ロランは、彼の横顔を見ながら少し姿勢を正す。

「私がクリス様を想うようになった過程と、あなたのクリス様への恋慕の抱き方は、恋愛という文字だけ見れば似ているでしょうが、おそらく異質なのだと思います。私には、パーシヴァル殿の彼女に対する気持ちがどれだけのものか分かりかねるし、慮ることは失礼にあたるでしょうから、あなたの言うことに対して、そうなんですねという相槌を打つことしかできません」

 この無難な言い回しはロランの得意分野で、裏を返せば言葉で責任を取りたくないがゆえなのだが、冷たく聞こえるため時おり会話の相手を苛立たせる原因になっていた。目の前にいる思慮深く優しい男性に比べれば、自分は決して性格のいい男ではないのだ。

「クリス様という方を愛することおいて、私にまったく葛藤がなかったかといえば、それは嘘になります」

 クリスに「そばにいて」と告げられ、そこに込められている意味を知ったとき、ロランに生まれたのは不安だった。それまでまったく彼女からのアプローチはなかったし、寝耳に水といった状態の中で、彼女の背負う重苦しい運命と孤独を果たして受け止めきれるのか分からなかった。

「人より長命なエルフだから私が選ばれたのか、その選択肢の狭さは彼女にとって損失ではないのか、自分にあの方を支える大役が務まるのだろうか、などと、散々に悩みました。その中に、どうしてあなたやサロメ殿でなく私なのだろうという疑問もありました。あなたの言う通り、彼女により近いのは私ではなかったし、見て分かるように恋愛上手な男でもありません。私は表現に乏しいので、クリス様を知らずに傷つけていたことも、きっと多々あったかと思います。そんな淡白な男への距離を縮めようとするのであれば、それはまさしく私がエルフという種族だからという理由しか考えられませんでした」
「俺は」

 パーシヴァルが遮った。

「俺は、その理由も要因の一つだと思いましたよ」
「ええ、そうでしょうね」
「単純にうらやましいです、長命であるあなたのことが。皆そう思っていると思います。あなたはこの先まだ百年は生きられるのだから」

 彼女とこの先も長く一緒にいられるのだから。パーシヴァルは、そう吐き捨てるように言った。僻んでいるのではなく、ただ目の前にある事実を憎んでいる口調だった。
 ロランは少し沈黙したあと続けた。

「私は懸念しました。クリス様に与えられた選択肢の少なさを。もっと相応しい人がいるはずだと暗に伝えましたが、彼女は私の言い分を拒んだ。なぜ私のことを気に懸けたのだという質問に対して、彼女は答えました。長命であるエルフが近くにいたことは、偶然ではあるが縁であり、必然であったのだと。そして、私と共に、自分よりも先に逝くであろう大切な者たちを見送りたいと。私の持つ長い時間を与えてほしいと彼女は言ったのです。私に、それを拒む理由はなかった。なぜなら私も私の愛する者たちが逝くのをひとりで見るのは恐かったから」

 ロランの言葉に、パーシヴァルは目をゆっくりと伏せた。

「……」
「共に時を歩もうと、我々は決めました。彼女が望むのであれば、その孤独が少しでも癒されるのであれば、私は私の時間をすべて捧げようと思った。もともと私は彼女のことを慕っていたし、そのことに何ら抵抗はなかった。意志に乏しい自分の心が彼女に開き、能動的に動き始めたのは、きっとそこからなのでしょう。
 私たちは、初めから愛し合っていたわけではない。戦いが終わり、クリス様が紋章という深い苦悩に苛まれ始めて、初めて我々は互いの存在を改めて認識したのです。二人ともお世辞にも器用とは言えませんし、傍から見れば拙い恋愛なのかもしれませんが、でも、私たちが愛し合ったことは」
「自然だった」

 ロランの言葉の先を、パーシヴァルが続けた。彼は両手を組んでうつむき、自分の足元をじっと見つめていた。その表情は相変わらず無で、しかし先ほどより少し落ち着いているような、少し微笑んでいるようにも見えた。
 ロランは唇を閉じ、押し黙った。彼を傷つけるつもりで言葉を紡いだわけではなかったが、自分の伝えたことが相手の心にどう反響するかまでは分からなかった。
 ドアの向こうから物音がし、時おり消えて、まだぼんやりとした朝もやを感じる廊下には、早起きである城の者たちが階下で動き始める音が響き始めていた。おそらく、ボルスとレオが、クリスの部屋の前に他の兵士たちなどが行かないよう人払いをしているはずだろうが、それがかえって今の状況が非日常的であることを強調して、ロランは始終落ち着かない気持ちでいた。
 長い長い沈黙の後、パーシヴァルは、目を閉じて小さく笑った。

「自然だった。
 そうですね、あなた方が愛し合ったことは、とても自然だった」

 まるで自分に言い聞かせるように、彼は小さな声で言った。