「俺は、あなたが羨ましかった」

 窓から差し込む穏やかな光の中、ぽつりぽつりと言うパーシヴァルの陰になった横顔には、悲痛な微笑みが宿っていた。

「あなたは、彼女にとって仲間であり、家族であり、兄のようであり、守護者のようでもあった」

 どこか儚げに映る男の姿は、ただ美しかった。人間の内に本来存在しているであろう清らかで混じり気のない感情を今、目の当たりにしていると感じ、息を呑む。

「あなたは、いつも少し離れた場所から、彼女を冷静に見つめていた。その眼差しの中に、かつて恋慕はなかったのかもしれません。でも、今のあなたの眼差しは、人を愛するそれに違いない」

 涙は見えないが、心は静かに泣いているのだろう。

「俺は、彼女とあなたが密かに優しい瞳で見つめ合うのを見るとき、羨ましかったと同時に、いつも苦しかった。それは悲しいからとか悔しいからではなく、彼女が、あなたが、人が人をまっすぐに愛するとき、その姿はなんと優美に映るのだろうと感じて……」

 パーシヴァルの声は微かに震えていて、ロランは罪悪感にも近い気持ちを抱いて目を伏せた。もし自分が同じ立場だったら、彼と同じ気持ちを抱いたのだろうか。彼のように繊細で、優しく、切ないほど透き通った心で、クリスのことを想い続けたのだろうか。自分なら、彼女と誰かが愛し合っているのを見るのが苦痛で、きっと途中で諦めてしまっただろう。己の長命を棚に上げ、遠い未来、いつかクリスが孤独になったときを見計らって、密かに近づき始めればよいという姑息な考えすら持ったかもしれない。

「ただ……こんなことを言いながら、彼女と婚姻関係を結べないのは、俺も同じでした」

 不意にその話題が出て、ロランは興味を惹かれてパーシヴァルを見つめた。彼は相変わらず悲しげな表情を浮かべていたが、繰り出す言葉には少し覇気が出てきたようだった。

「クリス様に近づいて、想い合ったとしても、今の法律上、結婚できないのは俺も同じ。俺はそういう意味で、あなたと立場を同じくする者として、ちょっとした親近感を抱いていました。同じ土俵で戦えるということに安心していた。もし恋敵が貴族であれば、あっという間にさらわれてしまったでしょうからね。
 その点について、ロラン殿はどう思っていたのですか?」

 横目で見られながら問われ、ロランは戸惑ったが、無表情で答えた。

「恐れていました」

 何を?とすかさず聞き返される。

「婚姻関係を結べないことで、二人の関係が破綻するかもしれないことを」

 正直に告白すると、パーシヴァルは「それはそうだ」と納得したように頷いた。

「身分という弊害ですよ。でも、クリス様はそれを理由に遠ざかる人ではないと心の底では分かっていたはずだ。あなただって現実を知ったうえで彼女と恋愛し始めたのだから。最高の壇上に立ち続けなければならない彼女は、気位が高さからそれを表に出さないのだとしても、胸の内では猛烈に人の温もりを求めている。そこに身分の違いなど持ち込めるはずがない。サロメ殿だってクリス様に選ばれた者の一人で、彼なしでクリス様はまっすぐ立っていられないでしょう。同様に、ロラン殿も、恋愛という次元で彼女に求められた。あなたは彼女の本性を分かっているからこそ愛し合うことを諦めなかったのでしょう」
「……」
「そうだと言ってくださいよ。そうでないと俺はまた納得いかなくなる」

 かぶりを振りながらうつむくパーシヴァルの口調に、また怒気が含まれる。そもそも身分差ゆえに婚姻関係を結べないことをクリスが知らなかったことをパーシヴァルが分かっていたのか定かではないし、彼もまた、ロランがサロメやサヴァンストのように身分差など了解の上で二人が愛し合ったと考えているのであれば、いずれサロメたちから真実が知らされるのだとしても、法律の問題に関して口をつぐんでいたと伝えることは現時点ではよくないことだとロランは考え、別の切り口を見つけるために沈黙した。
 なかなか回答しない弓使いをパーシヴァルが睨んでくる。それを合図に、口を開く。

「結果的に、我々は愛し合うことを諦めませんでした」
「というと?」
「愛し合うことを諦める考えなど毛頭ありませんでした。私にも、クリス様も。
 それは、これから生まれくる子どもが証明しています」

 ロランが断言したことに、今度は、パーシヴァルが神妙そうに口を閉じた。
 仮に、ロランが初めからクリスに対し、婚姻関係を結べないから付き合えない、と告げていたらどうだろうか。ならば仕方がないと、クリスはロランのことを諦め、まともな戸籍を編成できる男を選んだのだろうか。勝手に他人の気持ちを推し量るのはロランのしたくないところだが、パーシヴァルの言うとおり、クリスが身分差ゆえに愛を捨ててしまえる女性だとは思えなかったのだ。もし遠ざける根拠がクリスに対し恋愛感情が持てないからという理由であれば、彼女はしぶしぶ納得しただろう。が、愛し合うことができるのに身分が違うからという理由でそれを諦めることは、彼女はしないと思うのだ。なぜなら、クリスの目的は、永遠の孤独の中で人を愛し、人に愛され、普通の人間であり続けることなのだから。
 ロランもまた、あの美しく清らかな女性から愛を向けられたとき、身分差の問題などとうに分かっていたのに、どうしても拒むことはできなかった。身分差など気にしない女性だと頭では理解していたはずだ。それでも別れという可能性を恐れ、本当のことを告げることができなかった。きっと自分もまた、二人の間にある垣根など乗り越えて、彼女と愛し合いたいという真の願いが心の中にはあったのだ。それゆえに、自分は理性を尊重する人間であるはずという葛藤に陥り、悩み、愛の言葉を囁くたびに深い罪悪感に苛まれ、いつか言わなければと思っていたのに、いつまでもそれができず、結局はクリスの妊娠がきっかけで真実は明らかになってしまった。真実を知られたことは恐怖であったが、いずれ二人の間に浮かび上がる問題に違いなかった。
 もし、子どもを妊娠しておらず、ただ婚姻関係の問題だけが暴露されたとしたら、ロランはクリスに言ったのだろうか。「今更ですが、そういうことなので、愛し合うのはやめましょう」と。
 いいや。
 それはない。
 そんなことが、あるはずがなかった。
 仮定を思い描いて、ロランは確信する。
 ロランは、今や想っていた。クリスを真剣に、心の底から想っていた。

「私は、彼女を愛しています。彼女に宿った我らが子もまた、同じほどに」

 二人の愛の結晶である子どもを、法律云々などで諦める気などなかった。

「我々は、我々の愛を守り続けることを決めました。きっと想い初めたときから、私たちの胸の内では決まっていたのだと思います。同じ考えを持つことのできる二人だったのでしょう。生涯、どんなときでも、命が尽き果てるまで、死後ですら共にいることを誓い合えるような」

 言いながら、ロランは微笑した。この微笑は果たしてパーシヴァルの瞳にはどんなふうに映るのだろう。彼は唇を閉じたまま目を伏せ、長いあいだ考え込む仕草をしていた。顔は青白かった。自分の一言一言が彼の心に突き刺さっているのは分かっていたが、ロランは、パーシヴァルに対しても誠実でありたかった。口から出る全ての言葉は、真実でなければならなかった。

「クリス様はおっしゃいました。私は、クリス様に愛を教えたのだと。でも、それは私も同じです。私もまた彼女と共にいることで、愛を学んだ。こんな感情表現の乏しい男に、クリス様は惜しみなく愛を注いでくださいました。私が異なる種族であることもかまわずに。
 私も、同じだけあの方に返したいと思います。いいえ、必ず返すのです。彼女にも、生まれくる子どもにも、いつか、自分が死ぬそのときまで」

 言い切ると同時、パーシヴァルは跳ねるように顔を上げ、ロランに向かって微笑んだ。

「安心しました」

 声は落ち着いていて、優しかった。彼の目尻には、かすかに涙が見えたような気がした。

「あなたになら任せられる」

 パーシヴァルはロランの手の甲に片手を置き、窓から注ぐ光の中で、祈るようにうつむいた。

「ロラン殿。どうか、お守りください。
 私もまた敬愛する、あの美しく無垢なひとを」

 凛とした呟きの中に宿る思慮深さに、軋むような男の心の傷を感じ取って、ロランは少し泣きそうになった。


 続く