クリスの部屋から持ってきた椅子は三人分用意されていて、そのうち二つにロランとレオは腰かけた。ロランは、今初めて自覚したのだが相当緊張しているらしく、両手が小刻みに震えていた。レオに悟られないように手を強く組んで膝の上に置く。
 しばらく沈黙していた二人だが、ふとレオが口を開いた。

「でも、なんだか大丈夫な気がするんだ」

 身もふたもない言葉だが……と少し照れたように頭をかきながら、

「お前とクリス様の子だからな」

 ロランを見やって、はにかむ。いつもなら「何を根拠に」と思ってしまうところだったが、レオのその輪郭のない言葉も今は大きな励ましになった。クリスの妊娠が発覚してからというものの、六騎士はサロメから言い渡された守秘義務を貫いてくれて、クリスの母体を非常によく気遣ってくれたし、逆に妊娠が城の人間たちの間で広まったら誤解されないように説明をしてくれるなど、全面的に二人の味方をしていた。それを見習ってか、騎士や兵士、侍女たちも同じように二人のサポートに回るようになり、始めはクリスありきなのだろうと考えていたロランだが、妹が殴り込んできたときに皆がかばってくれたことで、ああ、自分はこの場所で、このゼクセンで、一人の男として多くの人々の信頼を得ることができたのだろうと確信し、感極まる思いだった。それは、まさしく自分がこの地で努力をしてきた証なのだろう。
 生きていて、よかったと思った。森を出て、旅をして、たどり着いたゼクセンで、生きることができてよかったと思った。心優しい人間たちに囲まれて、人間として生きることを選び取ったことを、ロランは今や心から誇れた。種族という差はあったとしても、己の努力次第で、世界は優しくなることを知った。

「私は、幸せ者だと思います」

 そんな言葉が、自然に口をついた。レオは驚いたらしく、そうか、と嬉しそうな声を出した。

「なら、オレたちも幸せだ」





 出産にどのくらいかかるかは個人差がある。日付はすでに変わっていた時間帯に呼ばれたので、きっと朝まで続くだろう。そのときまでレオに付き添ってもらうのは悪い気がしたが、六騎士といえども彼はすでにクリスの家族のような存在だ。彼もまた己の意志でここにいようとするだろう、だからロランは何も言わずにいた。
 しんと静まり返った廊下に、ドアの向こうでせわしなく動く人々の音が響く。クリスの声はしない。もしかしたら時刻を気にして悲鳴を押し殺しているのかもしれない。苦しくは、つらくはないだろうか。きっと赤子が産道を押し開き通ろうとするときには、ひどく痛むに違いない。痛みで気絶してしまわないだろうか。母体に危険が及ぶようなことはないだろうか。様々な不安が頭の中で渦を巻く。いつにない胸の鼓動が、ますます己を不安にさせる。時間が、とても長く感じる。どうかクリスと子どもが無事に部屋から出てきますように。
 どのくらい経ったか分からないが、そろそろ空が白ばんで夜も終わりを迎えるころ、廊下の向こうでばたばたと音がした。見ると、ボルスと、その後ろから一人の男性が走ってきた。窓から差し込む薄暗い光に照らされたとき後ろにいる男性の正体が分かって、ロランは反射的に立ち上がった。タイを首に巻き付けた、私服姿のパーシヴァルだった。
 二人は息を切らしながらロランとレオの前で立ち止まった。

「パーシヴァル殿」

 内心かなり驚いてはいたものの、それでも淡々とした口調で男の名を呼ぶ。パーシヴァルはボルスを追い越してつかつかとロランに歩み寄ると、急に、ぼすっと音を立ててロランの腹のあたりを殴りつけた。突然の出来事に身構えることもできず、思わず咳込む。

「パーシヴァル! 何をするのだ」

 レオも立ち上がって二人の間に割って入る。パーシヴァルはそちらを見向きもせず、目を吊り上げてロランの胸元に指を突きつけて低い声を出した。

「ロラン殿、私はあなたを見損ないました。田舎に引っ込んだといっても私はまだ休暇中の身、かつて六騎士と呼ばれたこの自分が仰ぐ貴きお方の御子の出産日すら、あなたが教えてくださらなかったことを」

 ロランは息を整えながら、目の前に立ちはだかるパーシヴァルを呆然と見下ろした。滅多に感情を露わにしない男が、こめかみに青筋を立てながら怒りの炎をたぎらせた目を向けている姿に言葉を失ったのだった。

「ボルス卿が私を気遣い密かに教えてくれる情報と、村人が仕入れたどこぞのものとも知れない噂しか当てにならない心もとなさ。ロラン卿、あなたはクリス様がお産みになる御子の父なんですよ。いつなんどきも主の御身を守らねばならない騎士に、その近況を教えるのはあなたの役目でしょう。それともなんですか、私が嫌味で主の情報を村人に漏らしたり、失恋した憎さからあなた方に危害を与えるとでもご懸念か!」
「パーシヴァル、その辺にしろ」

 溜息交じりに、ボルスがパーシヴァルの腕を引く。しかし男の両目は鷹のようにロランの姿を捉えて離さなかった。
 ようやく息が落ち着いてきた頃、ロランは申し訳なさを覚えてうつむいた。パーシヴァルは自分と同じようにクリスを慕っていた男だ。彼が言ったように、ロランはクリスの子の父親としてパーシヴァルに出産予定日含め報告すべきだったし、そうしなかった理由は、まさしくライバル関係であった男に負い目を感じて伝えられなかったというのが第一で、だからこそ何も言い返せなかった。
 気まずい沈黙が続く。扉の向こうからは、未だせわしない音が聞こえてくる。

「……見くびられたものだ」

 憤慨した声で吐き捨て、パーシヴァルは先ほどまでロランが座っていた椅子にどかりと腰かけた。腕を組み、もうここから動かないといった様子である。いつになく子どもじみた態度を取る男に三人は顔を見合わせ、ボルスとレオは気を遣って一度退席すると言った。ロランもそれを承諾し、二人が廊下を去っていった頃、のろのろとパーシヴァルの隣に腰かけた。