ポインセチア   花言葉は「祝福、幸運を祈る」





 目の前には不自然なくらい大きな満月があった。視界いっぱいに広がるそれは、ぼんやりとした白い光を放ち、大きな目でこちらを見つめているかのように、ぽっかりと暗闇の中に浮かんでいた。
 ロランには、自分が今どこに立っているか分からなかった。これだけ近くに月があるのだから、きっと普通の状況ではないのだろう。だから足もとを見るのが怖かったし、何より丸い月がロランの両目を捉えて離さなかった。神秘的だが、どこか不気味な光。しかし敵意は無さそうだった。光はただ前に佇むエルフの男にじっと注目しているだけだった。
 ふと、どこからか声が聞こえた気がした。水の中にいるように、声音の輪郭はぼやけていて、何を言ったのかは分からなかった。
 周囲を見回そうとしたそのとき、満月が急に強い光を放った。そのまばゆい光は目をくらませ、ロランは眼球が焼けるのを防ぐために両手で視界を覆った。





「ロラン殿」

 びくっと身体が震え、一番初めに見たのは薄暗い天井だった。先ほどまで周囲を包んでいたはずの強すぎる光は、もうどこにもなかった。
 寝起きにしては驚くほど冴えた頭で跳ね上がると、ロランはすぐに出入り口のドアへと向かった。まだ夜中なので音を立てないように慎重に開ける。予測していた通り、月明かりだけが差し込む廊下に、軍師が立っていた。

「始まりました」

 冷静に告げたサロメに、ロランもまた冷静に頷いた。





 出産が始まったクリスの部屋には、助産師として侍女三人とサロメしか入ることは許されなかった。実際ロランは父としてクリスと子どもの側にいてやりたかったが、クリスが事前に「あまり見られたくない」という話をしていたので、ロランもそれを承諾した。なので、少しだけ蝋燭を灯した廊下に椅子を置き、そこで一人静かに待機していた。
 両手を組み、それを太ももの上に落としながら、ロランは、なぜか故郷のことを思い出していた。
 寿命の長いエルフは、住む場所の多少を考え、あまり子どもを多く作らない。そのため出産に立ち会うことも稀だ。ロランには妹がいるので、子どもの頃に経験した妹が生まれた瞬間を覚えている。人間とは異なる長い耳をもって、布にくるまれて泣き声を上げる小さなエルフの赤子。自分も両親も親戚も、彼女の誕生を心から祝福した。どうかエルフとして誇れる女性になりますように、困難にも屈しない強いエルフになりますように……
 言葉の通り、妹ドロテは誇り高き種族として順調に成長したようだ。故郷から離れたロランは妹のことをひそかに心配していたが、自分はあくまでエルフの世界から逃げ出した者であるので便りを出すこともできず、ただ心の中で身内の健康を祈ることしかできなかった。どんなに事実を拒んだとしても、ロランは絶対にエルフ以外の種族にはなれない。それは、耳の形と身体に流れる血が証明していた。自分がエルフであることを憎んでいるわけではないが、ロランはエルフという種族をどこかで嫌悪していた。人間とエルフの間にある確執を忘れはしない。だが、新しく生まれくる命に、人間は愚かで醜い生き物であると思い込ませるエルフのその思考が我慢ならなかった。せっかく無垢で生れ落ち、己の力で考え、答えを導き出す可能性があるのに、エルフたちはそれをさせないように柔らかな芽を踏み潰す。
 だからこそ、ドロテが自分を連れ戻しにきたとき、ロランはひどく落胆し、悲しんだ。彼女もまた、ロランの憎むエルフになってしまったのだ。なぜそんなに人間を嫌悪するのかと問えば、彼女はきっと答えられないだろう。「そういうものだから」と、身もふたもない理由で人間を憎悪し続けるのだろう。それは確実にエルフの世界で行われている教育のせいだった。
 果たして、クリスと自分の間に生まれくる子どもは、世界にとってどんな社会的立場を得るのだろうか。クリスにはなかなか言い出せなかったが、それはロランの大きな不安だった。

「ロラン殿」

 はっと顔を上げると、そばに私服を着たボルスとレオが佇んでいた。急いできたのか、息を切らしている。ロランは立ち上がった。

「お二人とも。真夜中に申し訳ない」
「いいんだ。しかし、少し心配だな」

 レオが部屋の扉を見つめて言う。ロランは相槌を打った。

「ええ……」
「ロラン殿。ここにいてロラン殿とクリス様を見守っていたいんだが、少し用事があって出なきゃいけないんだ」

 こんな夜更けに? 疑問だったが、何も問わずボルスの言葉に頷いた。

「分かりました。いま来ていただいただけでも充分すぎるほどです」
「レオ殿、任せていいかな」

 無論、と笑顔を見せるレオにボルスもまた微笑み、頭を下げて急ぎ足で廊下を去っていった。