ルドベキア   花言葉は「公平、正しい選択、正義、立派」





 妊娠してから半年弱、つわりで嘔吐したりものが食べられなくなる間隔もだいぶ長くなり、胎児の成長とともにクリスの腹も少し目立つようになってきた。母乳の準備のため胸も張ってきて、鎧を身につけると押さえつけてしまうため、サロメや侍女の忠告で、以降はベストのみで過ごすことになった。甲冑が身に纏えなくなれば当然、訓練や戦闘にも駆けつけられないわけで、いざ戦争が起きたときにはサロメが騎士団長の代行を務めるよう手続きも終えてある。
 身体を動かすことが好きなため、出産後なまってしまうといけないと思い、部屋の中でクリスが剣などを軽く振り回していると、目撃したサロメやルイスが鬼の形相で注意することもあったが、ひとまず母子ともに健康であると担当医ジーンは毎度にこやかに話してくれていた。
 とは言いつつも、未だクリスの妊娠のことは騎士団の中で公にされていなかった。もちろん、いつも着用していた鎧を脱ぎベストしか着なくなり、しかもなんとなく腹が出てきた女性の姿を見れば、誰もが妊娠していると考えるだろう。今まで妊娠を知らされていなかった他の侍女たちもクリスの体調を気遣いながら、さて相手は一体誰なのかと探ってくるようになり、結果的に侍女から騎士、兵士たちへと噂は広がっていった。相手がロランだということも、これまで散々二人が一緒にいた経緯があるため暗黙の了解だったが、何らかの事情でこれまでの二人のいきさつを知らず、騎士団長ご懐妊のニュースを初めて訊かされた者は皆「相手はエルフの弓使いだとう!?」と勢いよくたまげるらしい。
 サロメがいつまで経ってもこのことを公にしなかったのは、当時は予定のない妊娠がスキャンダルになれど、ある程度腹の中で育ってしまえば中絶の提案をしてくる輩もいなくなるし、知らされた側も考える時間を持つことで冷静になれるという軍師の思惑によっている。本当に予定外の妊娠だったため、クリスもロランも周囲の騎士たちから咎められるのではないかとハラハラしていたのだが、実際そんなことはなかった。侍女たちは同じ女性として妊娠したクリスを大変大事にしてくれるし、もとより彼女たちの中には六騎士のファンが多く、誠実かつ真面目という定評がある男に懐疑心を持つ者はいなかったのだ。一方、兵士や騎士たちは、六騎士の中でも可能性が低そうなエルフの弓使いが騎士団長の相手であることに驚いてはいたが、だからといってクリスが人を愛することを反対している男はいなかったし、むしろ「クリス様の相手が自分だったらよかったのに」と冗談交じりで言ったり、資産目当てだったか美貌目当てだったか本気でがっかりしている者が大半だった――もし仮に、今回のスキャンダルを快く思っていない者がゼクセンにいるとしても、それはどちらかというと政治的な意味合いが強い非難であり、それはクリスの守護神である軍師によって、未来の母に一切の影響が及ばぬよう取り計らわれていた次第である。

 しかし、問題は騎士団やゼクセンの中だけにあるわけではない。
 あるときブラス城の一階が騒がしかったため、何事かと思ってロランが駆けつけると、フロアに甲高い女性の声が反響し、騎士たちが騒然としていた。人間たちより頭数個分が飛び出ているロランは、ブラス城の入り口でわめいている女性の姿を見つけると、騎士たちをかき分けながらそこに近づいた。そしてハッとした――女性の正体が分かった瞬間、思わず昏倒しそうになるほどだった。

「汚い手で触るなっ」
「おいっ、入城許可はまだ」
「ここに身内がいるって何度も言ってるでしょ!」

 女性は行く手を阻もうとする騎士の身体を押しやり、どんどん城の中へと進んでくる。非常に背が高く、肌が真っ白で、ゆるく巻いた肩より少し長い紫色の髪と、エルフのある一族に特徴的な黄金色にきらめく瞳を持つ女性――
 立ちつくしていると、ふと、こちらを振り向いた女性と目が合った。周りでざわついていた騎士たちもロランの姿に気がつき、注目してくるのが分かる。

「(……兄さん!)」

 驚きと共に放たれたひときわ高いエルフ語に、ロランの全身から血の気が引いた。ああ、なぜ……と目眩で倒れそうになる自分をどうにか奮い立たせ、旅のマントの合間から白く長い脚をちらつかせて大股で歩いてきた女――自分の唯一の兄妹である妹を見下ろした。

「ドロテ……」
「(ようやく見つけたわ。ここまで来るのがどれだけ大変だったことか!)」

 眉をつり上げ憤慨している様子で、妹は兄に向かって言った。
 エルフの集落を出たのち、家族と言葉を交わすことは生涯ないだろうと思っていたロランは、遠く離れた異国の地から突然やってきた妹ドロテの出現に混乱した。当時、集落では一人のエルフの男が故郷を飛び出し人間の世界へ行くことを良く思っておらず、家族も周囲の者たちも納得してくれないまま、結局ロランが黙って出て行く形で別れてしまったのだ。発端がこちらのわがままであるし、向こうからの音沙汰も無かったので、とっくの昔に諦められていたのかと思っていた。
 どうして今更……とくらくらしながら、とりあえずこんな目立つ場所で騒がれては困ると別室に連れて行こうと口を開いた瞬間、まくしたてるようにドロテは話し始めた。

「(兄さんが出て行ってから色々大変だったのよ。突然いなくなって、まさか真面目な兄さんに限って黙って出て行くなんてことなんてないと信じて集落のみんなで森の中を探して、周辺の人間の村までわざわざ行ったのに、結局見つからなかった。あたしたちがどれだけ心配して、あたしやあなたの友達がどれだけ探しに行ったことか、毎日訴えたくて仕方なかったわよ。おまけに母さんは兄さんが心配で具合を悪くしちゃうし、じさまだって兄さんのことを心配したまま死んじゃったんだから)」
「(ドロテ、ここで話すのは)」
「(あら兄さん、体裁を気にするの? あいにくだけど、ここで言わせてもらうわ。あたしがここまで来る苦労を知ったら、こんなこと屁でもないって分かるわよ。母さんがどうしても兄さんに会いたいっていうから、人間の言葉を覚えて、行きたくもない人間界にあたしが降りていって、人間の町や村で寝泊まりしながらようやくここにたどり着いたのよ。一体何日かかったと思ってるのよ。どこ行っても人間は愚かでやんなっちゃったわ、部屋はくさいし、水は汚れてるし、食べ物は美味しくないし、お金にはきたないし、おまけに兄さん、こんな不細工な石の城で鉄の鎧なんか着て、人間の格好を真似てるの? 集落のみんなが見たら滑稽だって大笑いするわ、エルフが人間のふりしてるってね)」

 周囲の騎士たちはエルフ語など理解できないだろうが、エルフの女性の言いぐさに敵意がこもっているのは見てとれるため殺気立つのが分かり、顔には出ないもののロランは慌てた。妹は森の奥深くの集落にいるエルフたちの典型で、もともとそういう教育がなされたせいで人間を忌み嫌っている。おまけにエルフに蔓延している僭越な言い方と種族の優性意識の固まりとあっては、人間から敵視されるのも仕方がないのだ。
 黙れという意味を込めて睨みつけるが、彼女はツンとした表情で視線をそらすだけだった。

「(あたしは悪くないわ、悪いのは兄さんよ。家族の許可も得ないで勝手に出て行って勝手にこんな場所で暮らしている兄さんに責任があるわ。言っておくけど集落のみんなはあなたを心配しているの。同じエルフなんだから帰ってきて欲しいって思ってるのよ。今ならまだ間に合うわ)」
「……なんの騒ぎだ」

 背後からクリスの声が聞こえ、ロランはぎょっとした。クリス様、という騎士たちの安堵混じりのざわめきの中から現れ、騎士団長が弓使いの斜め後ろに立って前方の様子をうかがっているのが分かった。ロランは身体がこわばってしまい、とてもではないが振り返ることができなかった。彼女は最も妹に会わせたくない人物だったのに――
 ひしめく男のたちの中にいきなり女性騎士が現れたことが意外だったのか、ドロテはクリスにじろりと視線をやった。

「クリス、“様”? 様って言ったわね、今」
「あ……ああ。あの、あなたは?」
「ねえあなたこの中で偉い人? このエルフを騎士から罷免してくれないかしら」

 罷免?と訝しげにクリスが聞き返す。ドロテにというよりは隣にいるロランに向けている様子だった。クリスもドロテがエルフの耳を持つことと髪や瞳の配色で、それが弓使いの身内であることは感づいているだろう。
 ロランはドロテを見据え、低い声で言い放った。

「(ドロテ。俺は帰らない)」
「(はあ? 帰らないですって? 散々迷惑かけて、よくそんな平然と言ってられるわね。人間の真似事をして、人間のために人間と一緒に戦うなんて、愚かにもほどがあるわ。そもそもエルフと人間が共存できるわけないじゃない。人間を信用したところで裏切られるのが落ちよ、兄さんだっていずれ嫌になるわ)」
「(もうよせ)」
「あら?」

 クリスの姿をじろじろと見ていたドロテは、彼女の腹のふくらみに気がついたらしい。

「なに、あなた妊娠してるの? 人間ってのは、お腹に子どもがいる女性まで働かせるわけ?」

 さすがのクリスもエルフの言い方にムッとしたようで、何か言い返そうとする気配を感じ、ロランはとっさに片腕を上げ、それを制した。多くの人々が見ている場でクリスのプライベートに関わる言い合いをされるのは良くない。
 ロランは低い声で凄んでみせた。

「ドロテ、もう帰ってくれ。俺はこのゼクセンから離れるつもりはない」
「離れるつもりはない、ね。もしかしてその人のお腹の子どもが兄さんの子だったりしないわよね」

 妹の鋭い指摘に、ロランは緊張した。背後にいるクリスや周りの男たちの空気が瞬時に変わったのも分かった。
 妹には真実を言わなくてもよいだろう、生粋のエルフを誇りとするドロテにとって、人間との間にできたエルフの子など論外なのである。もし本当のことを言ったら発狂するかもしれない。それに、今は他の騎士たちの耳があるのだ。こんな形で子どもについて知られてしまうのは、クリスの心境も考えて避けたい気持ちがあった。
 だが、ロランは惑った。妹のために、この女性の中で育っている子は自分の子ではないのだと、果たして言えるだろうか? 確かにドロテの気持ちを、種族間の軋轢を考えれば嘘も方便となろう。この子は自分の子ではない、そうドロテに告げるのが今は一番いい方法で、周りの男たちもロランのこの葛藤を分かってくれるだろうし、クリスもきっと今回は仕方がないことだと言ってくれるはず。
 ――しかし。

「ドロテ」

 それは、エルフという種族を守るための、人間を犠牲にした“逃げ”だ。