ヘーベ   花言葉は「影の努力者、永遠の命、青春」





 その日は夕方から雨が降っていた。
 サヴァンストが加わった新六騎士の会議が終わった後、窓の外を見てみると空は重苦しい灰色となり、横殴りの雨はますます強まっていた。会議室を去ろうとする弓使いにクリスは耳打ちした――この天候ではじきに雷雨となる、雷が鳴ったら私の部屋を訪れて欲しいと。深刻そうに言うクリスにロランは戸惑ったらしいが、分かりましたと頷いて承諾した。
 夜寝る前になると外は激しい雨でくすみ、暗色の雲で覆われた空には稲妻が走り、時おりすさまじい轟音が鳴り響くようになった。きっと弓使いは来てくれるだろう――ベッドに腰掛け、少しふくらみが感じられる腹をゆっくりと撫でながら、クリスは大人しく待っていた。
 しばらくして戸を叩く音がし、予定通り弓使いがのっそりと入ってきた。ベッドの前まで歩んでくると、彼は静かな瞳でクリスを見下ろした。

「参りました」
「うん」

 微笑んで頷くクリスを、ロランは困った様子で見つめる。

「あの……何かご用が?」
「我が儘でごめん。私、雷が好きじゃないんだ。音が戦争みたいで」

 なんだか私が驚くたびお腹の子もかわいそうな気がして……と言いながら、黒のワンピースの腹の丘を撫でつける。ロランはクリスの隣にそっと腰掛けて、その動作を眺めた。

「少し出てきましたね」

 淡々としてはいるが嬉しさが混じっている口調に、クリスは笑みを深める。

「うん」
「少しずつ、お腹の中で育っているのですね」
「そうだな」
「触ってもよいですか」

 これまで散々クリスの身体に触れてきただろうに、わざわざ律儀に尋ねてくる弓使いに笑いながら承諾すると、ロランは手のひらをクリスの腹に近づけ、躊躇する手つきで上下にさすった。その丸みを逃さず確かめるように、彼は言葉なくその動作を繰り返す。
 すると急に部屋に青白い光が走り、クリスはロランの身体にすり寄った。その五秒後くらいに爆音が聞こえ、びくっと身体をすくめると、ロランはクリスの肩に長い腕を回して自分の胸元に押しつけた。

「クリス様、ご安心ください」

 音が止んだ後、上から降る弓使いの声。

「ああ、いやだなあ。絶対お腹の子も驚いているよ、これでは」
「雷が止むまでお側にいます」
「一緒に寝よう」

 事後であってもクリスの部屋に朝までいることを拒むロランだが、今日は抵抗もせず我が儘を聞いてくれた。クリスのみならず、母と共に雷鳴に驚いているであろう腹の中の子も心配なのだ――まだほんの小さな胎児に雷鳴が聞こえているはずもないだろうが、それでもクリスが腹を抱えていちいち緊張するのを哀れに思ったに違いない。
 二人は向かい合ってベッドに横になった。まだ眠気が訪れず、意味もなく見つめ合っていると、珍しくロランが自ら口を開いた。

「昔を思い出します、雷の音を聞くと」

 いきなりそんなことを言い始めたものだから、クリスは雷の轟音を聞いたときよりも驚いた。ロランがクリスの前で昔話をすることなど今まで無かったからだ。
 あまり突っ込むと黙り込んでしまうかもしれないと危惧し、そうなのか?と動揺を隠して尋ねる。ロランは小さく頷いた。

「エルフの集落を去った日が、このような雷雨でした」
「こんなふうな?」

 まるで天がその会話を聞いていたかのように再び部屋に光が走り、ロランはすぐにクリスを懐に抱き寄せた。今度は五秒経たないうちに、バリバリという耳障りな音が鳴り響く。どこかに落ちたのかもしれない。
 一鳴りが止むと、ロランは続きを話し始めた。

「森を歩いている時に、急に雨脚が強まったのです。一瞬で辺りは真っ白になり、このような雷鳴が鳴り響いていました。雷は木に落ちたら危険といわれますが、辺りは無数の樹木に囲まれています。雨で前が見えず、けれど森から一刻も早く出なければとがむしゃらに進んでいたとき、向こうの方に明かりがあった」

 クリスはロランの表情を見ながらその話を聞きたかったのだが、雷の音から守るために懐に押しつけられていたので、それはかなわなかった。男の話に音声では返事をせず、頷く動作を身体に伝えることによって、クリスは続きを聞いていた。

「雨の煙の中に、一件の木造の小屋を見つけました。明かりがついているということは、人がいるということです。人間の住居であるということに当時の私は戸惑いましたが、雷に打たれて野垂れ死にしたくなかったので、せめて少しでも危険性の減る屋内へ非難したいと思い、戸を叩きました」

 この豪雨の中で戸の音など聞こえるだろうかと不安になりつつ戸の前で待っていると、気配に気が付いたのか、中から一人の老人が出てきた。小柄で灰色の立派な髭を蓄えた、髪の色と同じく灰の瞳が綺麗な老人だった。彼は来訪者の、人間とは違う尖った耳を不思議そうに眺め、入りなさいと室内に招いてくれた。
 小屋の中は、狩猟のための道具や、簡易な寝泊まり道具があるだけだった。暖炉に火を焚いているから、そこで絞った服を乾かしなさいと、滅多に人前に姿を現さないはずのエルフの男に詳しいことは聞かず、老人は暖炉の上で温めていた野菜のスープを少し分けてくれることさえした。身体が冷え切っていたため、ロランはありがたいと素直にスープを受け取った。