老人は、人間を敵と見なしているエルフを見ても動じなかった。部屋の中にある古い揺り椅子に腰掛けながら、どしゃ降りの雨が降る外の様子を、賢者のような面持ちでぼんやりと眺めていた。
 部屋には、暖炉の木が弾ける音と、老人の揺り椅子が軋む音と、外の雨音と、雷鳴が交互に響いていた。
 しばらくして、ロランは飲み干したスープの皿を、部屋の真ん中にある小さなテーブルに置くついでに、窓際の老人に向き直った。

“あなたは、ここで狩りをしているのですか”

 これまでエルフの言語ばかり使い、人間の言葉など喋ったことなどなかったが、密かに本を手に入れ勉強して得た知識を使って、片言で尋ねた。すると老人はゆっくりと振り返り、とても穏やかな瞳でエルフの男を見た。

“そうだよ。私は森を出た先の村の人間で、月に一回この森で狩りをし、食べ物を村の人々に運んでやっているのだ”

 ロランは咄嗟に、この森はエルフのもので、エルフの集落に繋がっているのだと、人間を憎む集落の者たちがいつも言っていた言葉を真似て、そう言いそうになった。この森は我らのものだと主張しかけた自分自身に気が付き、ロランは己を憎んだ。それが嫌だから、自分はエルフの集落を飛び出したというのに。
 老人にはロランの心境が分かったのだろうか? 老いた男は、テーブルの前に立ちっぱなしもかわいそうだから、そこにある椅子に腰掛けなさいと優しくうながした。ロランは言われた通りにした。

“君はとても聡い目をしている。他のエルフたちとは、少し違うようだね”

 ロランは、初めてまともに接触する人間に戸惑いながらも、この老人は信頼できると直感して話し始めた。

“俺は、真実を見るために、エルフのもとを去りました”

 それでもかなり曖昧に伝えたのだが、そうか、そうか、と老人はロランの事情を悟っているかのように深く頷いた。

“君みたいな子がエルフの中に生まれるのは、とても重要なことなのだろう。きっと今までもそういった者がいたのかもしれないが、集団は、異質なものに対してはつらくあたるものだ。故郷を去るということは、強い決心が必要だったことだろう”

 ロランの脳裏に、つい先ほどまでいたエルフの集落の様子がよみがえった。何を言っているのだ、馬鹿者、種族の汚れだ、非エルフめ……同じ血を分けた者の言葉だとは思えない、自分に浴びせられた様々な罵声が耳に残っている。雷雨になりそうな雨の日を出発の日に選んだのは、誰もこんな悪天候の中、旅に出ようなどとは予測しないだろうし、仮に気付いたとしても誰も自分を引き留めようと追いかけてこないだろうと踏んだからだ。きっと仲間たちは一人のエルフが立ち去ったことを嘆いているのだろうが、エルフの誇りが傷つけられたと、ひどく失望しているのだろうが……

“君は”

 老人は、澄んだ瞳でロランの顔を見つめた。

“君の人生を選んだ。種族に縛られない広い視野を持つために。それはとても尊いことだ”

 その深い響きに、ロランの心は震えた。

“あなたは、どうしてそんなに、俺のことがよく分かるのですか”

 この老人と話したくて、初めて使う言語を必死に組み立てながら問うと、老人は、ただ微笑んだ。

“君の言葉を聞いていれば分かる。君は努力をし、これから先も絶え間ない努力をするだろう。私には君がそのような男に見えるのだ。
 私は君の人生を肯定しよう。君は、きっといつか豊かになるだろう。少なくとも、エルフの中では誰よりも気高く、賢い男となるだろう”

 これまで同じ種族の皆が忌み嫌っていたはずの人間の、真っ直ぐで優しい言葉に、ロランの目から涙が流れた。
 ロランはそのとき、ひとつの真実を知ったのだ。種族の男に生まれ、自分がエルフであるという自覚を持ってから、ずっと疑問に思っていたことの答えを。どうしてエルフは人間を憎むのかを。集落では、一言も人間と会話をしたことがない子どもたちでさえ、親や、周囲の者たちに感化されて、人間は悪いものだと思い込んでいる。人間や他種族はエルフを脅かす永遠の敵だと決めつけ、昔からそう教育している。確かにそれはかつての因縁や争いがもとになっていて、そのときの憎悪が後の世代まで連鎖しているのだろう。
 だが。

“憎悪など無意味です”

 こぼれる涙を腕で拭いながら、ロランはうつむき、掠れた声で嘆いた。

“俺は、人間に傷つけられたことなどないのです。このように人間と接触したことすら今までなかった。だから、俺が人間を憎むのは無意味なことなのです。俺と人間は憎み合ってなんかいない。俺は、あの狭い世界の中で、ただ一方的に人間を憎んでいただけだ”

 それはあまりに愚かで悲しく、そんな自分が嫌だったのだと吐き捨てると、老人はそっと席を立って、何も言わずロランの頭を撫でた。
 それ以降、二人の間に言葉はなかった。夜明けに雨は上がり、空は不思議な色を帯びて明るくなり、ロランはすっかり乾いた服を着て、家出をする際に持ってきた荷物と老人から分けてもらった干し肉を持ち、礼を言って再び旅に出た。

「……ああ。
 少し遠ざかりましたね、雷が」

 クリスの頭をゆっくりと撫でながら、ロランは独り言のように呟いた。

「個人的なことを話し込んでしまい申し訳ありませんでした。そろそろ戻ります」

 懐から放されるのを、クリスは彼の背中に腕を回し、身体を抱きしめることで拒んだ。クリス様?と不思議そうな声が聞こえる。

「どうされました」
「泣いてるから」

 ロランはかなり驚いたらしく、うろたえるように彼の手が頭や背中や腰を撫でてきた。クリスは苦笑して、しかしロランの胸に顔を埋めたまま呟く。

「ロラン。ゼクセンに来てくれてありがとう」

 言葉に、ロランは息を呑むように口を噤んだ。

「……」
「全ては偶然だったのかもしれない。でも、森を出て、私に出会って、私を愛して、くれて……」

 続けたかった「ありがとう」という言葉は、涙の衝動でくぐもり上手く口にできなかった。顔を押しつけてしくしくと泣き始めると、ロランはクリスの髪を大きな手で撫でつけた。

「クリス様。
 私は、今でも老人の言葉を幾度も思い出します。“君は、きっといつか豊かになるだろう”という言葉が、故郷を離れた自分を奮い立たせる動力源となっていました。種族の壁は厚く、旅の中で何度も苦しい思いをしましたが、その言葉があったからこそ私は今ここにいます。あの方には感謝してもしきれません。一体誰だったのか、未だに私は知りませんが、あの方のおかげで私はここにたどり着き、あなたを愛し、あなたのお腹には私の子すらいる。エルフと人間の子が……」

 だから確かに自分は豊かになったのだと、彼は微笑しながら言う。彼の語調に宿る迷いのなさが、クリスにはただただ嬉しくてたまらなかった。
 ああ、自分の身体に宿る尊い命よ。お前は確かに愛されてここにいる。
 老人が示唆したように、ここに存在するエルフの男は、誇り高く、賢く、美しい。

「私もまた、その老人に感謝をするよ。お前をここまで導いてくれたのだ」
「……私は、ここにいてよいのですね」

 クリスは顔を上げ、涙で滲む目でロランを見た。

「当たり前だ。他の誰がなんと言おうが、お前はこのゼクセンに必要な男だ」
「そう言っていただけると自信が持てます。ここに来た時は、とにかくエルフへの敵意の嵐でした」

 エルフの集落がそうだったように、人間の集団にもエルフへの嫌悪感が蔓延していて、理由もなく罵声を浴びせられたり陰口をたたかれたりと容赦がなかったのだと、ロランは苦笑いを交えながら告白した。クリスは、彼が自分からそういった過去を述べることに少し驚いたが、今まで己の中だけに秘めていた真実を話してくれるということは本当に信頼されている証なのだろうと感動して、その白い頬をそっと撫でた。

「たとえ自分のせいでなくても、私も、お前も、人間とエルフの間にある確執を無視することはできないのだろうな。お前のような考え方の男がいるということを声高に訴えても、それが理解されるまでには途方もない時間が掛かる。
 でもなあ、お前はすでにゼクセンの民に認められていると思うぞ。弓兵たちもお前のことを心底尊敬しているし、私たちだってお前を頼りにしている。市民だって、お前を見かければ嬉しそうに声を上げるじゃないか。それはゼクセンに来てからお前自身が培ってきた努力のたまものだ」

 だからお前はとっくに自信を持っていいはずなんだよと言ってやる。エルフは微笑して目を伏せた。

「騎士団長のお言葉であれば、それは真実なのでしょう……」
「む、騎士団長とか関係なくだな、誰の目から見てもそうなんだよ。
 ここにいる子だって、今の話を聞いていたら父親を心底誇りに思うだろうさ。お父さんのところに生まれてよかったってな」

 お父さん、という言葉に反応したのだろうか、ロランは一瞬驚いた顔をしてクリスを見つめ、その後、白い頬をほんのりと赤らめ、本当に嬉しそうに微笑んだ。
 それは、生涯クリスが忘れられない弓使いの笑顔だった。