アルストロメリア   花言葉は「持続、永遠の誓い、未来への憧れ」





 その日の夜、つわりの気分の悪さが収まった隙を見て、食堂に飲料水のボトルを取りに行こうと一階に下りたクリスは、もう深夜なので誰もいないと思っていた薄暗い廊下に人影があるのに気付いた。その人物はゆっくりとしたテンポで歩き、中庭に通じるドアから外へと出て行ったようだった。
 それがロランであることはすぐに分かった。もはや彼の子までを宿した身、姿がよく見えなくとも、彼の気配や動作を本能のような感覚で分かるようになっていた。すぐに部屋に戻るつもりだったため薄着をしてきてしまったが、もしかしたらロランの以前の習慣だったという中庭で夜を過ごす時間なのではないかと気になり――彼は、クリスやサロメと寝酒を始めてからその日課を中断させていたらしい――クリスは思い切って中庭へのドアを開けた。
 今日は朝から晴れ晴れとしていた日で、混じりけのない冷たい夜風が頬をこわばらせた。中庭に入ってきた他の人間の気配に気付いたのか、最も手前にあるベンチに腰掛けようとしていた男はハッとした様子でこちらを振り返った。

「クリス様?」

 それは、やはりロランだった。暗がりでも、他に類を見ない長身で、すぐに彼だと分かる。
 ロランは焦った様子でクリスに近寄り、前に立つと、何をなさっているのですかと眉を上げた。

「こんなところで夜風に当たっては凍えてしまいます。今のあなたはご自分の身体を大事にしなければならないのですよ」
「分かってる。でも、ロランの姿が見えたから……」

 口を尖らせて呟くと、彼は困った目をし、手に持っていた青い布をクリスの肩から掛けた。丈が長く、地面までつきそうになってしまいそうなエルフサイズの大きな膝掛けだ。
 かつての思い出が甦り、クリスは嬉しくなって膝掛けを頬に寄せた。

「懐かしい。ずっと前に、廊下で私に掛けてくれた膝掛けだな」
「覚えているのですか?」
「もちろんだ、忘れるはずない」

 どこか驚いた様子の男を見上げ、クリスは微笑んだ。あのときロランはこの膝掛けをクリスの頭から被せてしまい、慌てて肩に掛け直してくれたのだ。
 ロランは困惑気味に瞬きし、クリスの背後にある城へのドアを視線で指した。

「クリス様、城に戻りましょう。お風邪を召されては大変です」
「ほんの少しだけでいいんだ。前みたいに、あのベンチで話したい」

 クリスもまたベンチに視線を向け、訴えた。頑なにきびすを返そうとしないことに降参したのか、ロランはすぐに戻るのですよと溜息混じりに呟き、くるりと身体を反転させて中庭へと歩んだ。
 二人でベンチに座る。噴水の飛沫音が聞こえるだけの静かな夜だ。中庭を囲んでいる男性宿舎のほとんどの部屋は、消灯されていて真っ暗だった。
 クリスはロランに借りた膝掛けを肩に羽織り、半ば顔を埋めるようにして冷気から身を守る。

「ロランとここで話したんだ。あのときはどきどきしたな」
「どきどき?」

 隣の弓使いは不思議そうにクリスを見た。当時に比べれば、ずいぶんと反応が素直で分かりやすくなったと思う。
 そうだよ、とクリスは素直に頷いた。

「だって好きな人と二人きりで話ができるんだもの。嬉しいに決まっているだろう」
「好きな人……ですか?」

 今度は驚いたように目を丸くしている。ロランの訊きたいことはこうだろう。
 “あのときから、騎士団長は弓使いのことが好きだったのか?”
 クリスは肯定する代わりに薄く笑み、口元に膝掛けを当てながら空を眺めた。空気が澄んでいるので、遠くの星々までよく見える。
 しばらく沈黙が続いたが、クリスが問いに答えないことに煮えを切らしたのか、珍しく弓使いから口火を切った。

「あのときから……その、私のことを?」

 おずおずとした調子に、クリスは可笑しくなって少し笑った。

「うん、そうだな」
「そう、なのですか。私はてっきり……あのときは、そういった意味合いでは無かったのかと」
「私はな、ロラン」

 隣にいる男に振り返り、黄金色の瞳を見つめ、

「お前のことを好きになったのには、実は理由があるんだよ」

 いたずらっぽく笑んで告白すると、ロランは目をしばたたかせて首を傾けた。

「理由……? 以前、クリス様は私に、人を好きになることに理由はないと」
「そうだな。確かに、きっかけはあっても、そのきっかけからどうして好きになるのかというのは、結果的によく分からないことだ」

 きっかけ?と先ほどからおうむ返しの男が気の毒になり、クリスは苦笑しながら説明することにした。