今までずっと秘密にしていたことがあった。クリスがロランを好きになったことには、とあるきっかけがあったのだ。
真の風の紋章の所持者であった少年が絡む先の戦いののち、クリスもまた自分が宿した真の水の紋章の存在に思い悩む時期があった。戦いの最中は意識の内に無かったのだが、ふと右手に老いを忘れさせる紋章があることに気付いたとき、クリスには暗い気持ちが生まれた。この紋章がある限り、自分は時の流れによる死を知らず、他の人間たちとは違う時間の過ごし方をしなければならない。不老の約束と強大な力を持つ印を欲する輩も多くおり、父が追われたように、いつか奪い合いの渦中の人物になるであろうこと、そして紋章が外れることはすなわち自分の死を意味し、その死はおそらくまともではないであろうことにクリスは怯えた。
自分を支えている者たち、クリスを理解してくれる人々が生きている今はいい。しかし、いつか彼らは自分を置いて先に逝くだろう。いくつもの世代を見送りながら、自分は果たしていつまで生き続けなければいけないのか、命はいつまで続くのか。考えれば考えるほど鬱々とした気持ちになり、眠れない日もあった。一番近しいサロメには何度か相談していたが、今から悩んでいても仕方がない、今は、連邦の安定のために尽力しなければならない時期であり、自分や他の騎士たちがいるこの時を大切に過ごして欲しいと言われた。それは、確かにそうだった。早くから未来を憂えていれば、自分を恐怖に縛りつけて動けなくしてしまう。
だが、それでも……と悶々としつつ、ブラス城の廊下を歩いていたときのことだ。ロランが、仲がよいらしい騎士と立ち話をしているところに遭遇した。あまり会話をしたことがない弓使いが同僚と一体どんな話をするのか気になって、陰から聞き耳を立てた。
同僚である騎士は言った。
「クリス様は癒しの紋章を宿したんだろう? すごいよな、死にかけのやつだって助けることができるんだから。
もし自分の近くにそういう奴がいたら、何かがあって俺が死にそうなとき、生き返らせてもらえるもんなあ」
もしかしたらそれは騎士の本心ではなく、冗談交じりのものだったのかもしれないが、その言葉はクリスの心に深く突き刺さった。人々は、この紋章に宿る特異な力をそういった目で見ているのだ。
偏見じみたものと永劫戦わなくてはいけないのか……と絶望を抱いたそのとき、弓使いは――人間よりも永い時を歩むエルフは――こう答えた。
「俺は、クリス様に生き返らせてもらおうなどとは思わないな。それは生命の時の流れに反することだ。
真の紋章を宿したと言っても、クリス様は普通の人間だ。力を行使すれば、それは彼女の人間性を否定することになる」
迷いなく、はっきりと放たれた言葉に、一線の光が差したのがクリスには分かった。それは胸中を覆っていた暗雲を陽光が散らし、明るい空が垣間見えたような、そんな心地だった。
弓使いは言った。危機に見舞われたとき、クリスの力を使う必要はないのであると。右手に宿る癒しの力で誰かを救ってしまえば、それは相手の時間を歪めるのみならず、クリスを人間から遠ざけてしまうことを意味するのだと。それは誠実で真面目な男らしい台詞で、弓使いが貫き通す生への信念のようにも聞こえた。だからこそ、クリスは安堵したのだ、この男の言葉に嘘偽りはないと。
クリスを普通の人間たらしめる。当時の自分が、まさしく願っていたことだった。そして騎士たちの中で誰よりも真実を告げてくれるこの男に、強烈な信頼感が生まれたのが分かった。
「お前がどんな人物なのであろうと、前々からなんとなく気になってはいたんだが、あのとき本格的に恋に落ちたのかもしれないな。お前のことを意識するようになったよ。
だからロランに言ったんだ、側にいて欲しいと。そんな考え方をするお前だからこそ」
クリスの告白に、ロランは瞠目したようだった。眉を寄せ、少しのあいだクリスを見つめた後、うつむき、深刻そうに考え込み始めた。
まあ当然の反応かもしれないなとクリスは嘆息し、ずり落ちそうになっていた膝掛けを羽織り直した。肌寒い。あまり長居しては、お腹の子にも悪いかもしれないと今更不安になってくる。
そのうち、ロランが口を開いた。
「……それは、もちろん、そうです。しかし……」
口元に手を当てて、ますます険しい顔つきになって地面を睨む。クリスが続きを待っていると、パッと彼は顔を上げ、
「しかし、あのときの私と今の私は、あなたに対する態度が違います。その話をしていたときの私は、まだクリス様のことをこのように想ってはいなかった……」
「うん、そうだよな」
分かるよ、とクリスは苦笑して頷いた。
当時のクリスとロランは恋愛関係にはなく、ただの上司と部下にすぎなかった。その距離があったからこそ、ロランは同僚に告げたような考え方をしていたのだ。クリスに治癒をしてもらう必要などないというのは、たとえクリスに助けてやりたいという気持ちがあったとしても、それを拒絶することを意味している。あのとき以前のことならば、クリスの方も、弓使いがそれを望むならば仕方がないという答えを返したはずだ。
だが、今は違う。二人は愛し合い、おまけにクリスの腹の中には子どもがいる。ロランには生に執着する意味が、すなわちこの世界に留まろうとする欲望が生まれてしまったのだ。
「お前の答えは変わってしまうのかもしれないと、少し懸念していた。私がお前を好きになったきっかけを覆されてしまうわけだ」
「……」
苦々しげに、ロランは唇を結んだ。葛藤しているのだろう――自分の生に対する理想と、この世に留まりたいという願いがぶつかり合って。
しかし、クリスは容赦しなかった。
「私は、お前が死んだら悲しいよ。それは、お腹の子も同じだろう。
でも、だからといって、お前が死ぬ間際、私の紋章の力を使ってお前の時間を巻き戻すようなことはできない」
言葉に、男は顔を上げた。真剣な黄金色の瞳がクリスを見据える。
クリスもまた真面目な顔つきで後を続けた。
「なぜならば、それは贔屓になる。命は贔屓されてはならない。すべてに平等なものだからだ。命を懸けて戦う我々だからこそ、その重みも十分に理解している。
私はこの力を極力使いたくないんだよ。サロメにだって使いたくない。癒しの力は時への謀反だ。そんなものはこの世に存在してはならないし、時代を掻き乱すような存在に私はなりたくないんだ。
――なあ、ロラン」
クリスは男の痩けた頬に片手をあて、微笑してみせた。
「約束してほしいんだ。お前が死ぬとき、私に願わないと。癒して欲しい、生き返らせて欲しいとは願わないと。たとえどんなに私を愛していても、子どもが大切であっても、私を人間から遠ざけないで欲しい。私は普通に生きていたいし、お前たちにも普通に生きていて欲しいんだ」
ロランの目が細められる。憂えてはいるが理解の及んだ面持ちでいる男に、クリスは切なさを覚えつつもホッとした。
「我らが奇異の目で見られることのないように、な」
「……分かりました」
しかしそれでも抵抗したいという気持ちが垣間見える男の声に苦笑し、頬から手を放すと、お返しだというように大きな手が愛しげな様子で頭を撫でてくる。
この男に撫でられるのは本当に心地がよいとうっとりしつつ、ありがとうとクリスは呟く。
「ただでさえ永い時を歩めるエルフだ、他の人間からすれば羨ましいことこの上ないだろうさ」
「クリス様……」
それでも……と続きそうな声を遮って、クリスは腰を上げてドアの方を指差した。寒いからそろそろ戻ると告げると、そうしましょうとロランも立ち上がった。
二人で歩み、クリスが城内へのノブに手をかけて開けようとしたとき、後ろにいたロランがふとクリスの両肩に手を置いた。外でこういった触れ合いをしてくるなんて警戒心の強い彼にしては珍しいと思いつつ、どうしたんだと尋ねると、ロランはクリスの頭に自分の顔を寄せ、呟いた。
「愛しています」
それは単純な言葉だったが、いつもと響きが違った。クリスは驚き、身を翻して男を見上げた。
「ロラン?」
「この言葉を……ようやく、自信を持って言えるようになった気がします」
男の表情は無で、クリスには、彼の抱いている感情がよく分からなかった。不安になり、金色の両目を見つめて様子を窺う。
ロランはクリスの頬を指先でそっと撫で、悲しげに笑んだ。
「今まで、この言葉は罪になるような気がして、上手く言えませんでした。どんなに愛し合っても、クリス様と婚姻関係を結べない私に、そんな資格などないと感じて。真実をあなたに知られた時、どんなにか恐ろしい思いをするだろうかと。
申し訳ありません。結果的にあなたを不安にさせ、傷つけていたのかもしれません」
「ロラン……」
初めて知る愛する人の不安に、クリスの胸は締めつけられた。このような痛々しい微笑を浮かべる彼を今まで見たことがなかった。ロランは何度も罪悪感と戦ってきていたのだ。不安を独りで抱え込んでいたのだ。それは無知だったクリスにも原因があるだろう。
彼が愛の言葉を囁くとき躊躇いがちになっていた理由がようやく分かり、クリスは申し訳ない気持ちになった。
「ごめんな、ロラン。お前はずっと不安だったのに、私は何も気付いてやれなかった」
「いえ……いいのです、クリス様。あなたは何も悪くない。本当のことを言わないまま、あなたが知らないことを良いことに、私があなたを騙し続けていたのです。あなたの信頼を裏切るような真似を」
「違うよ、ロラン」
頬に触れている彼の手を取り、ぎゅうと握る。
「確かに真実を知ったとき、私は驚いた。けれど、同時にこの上ない喜びを抱いたんだ」
喜び?と戸惑いがちに返してくる男に、クリスは笑みを浮かべたまま頷いた。
「ああ。
お前は、私と婚姻関係を結べないからといって愛し合うことを諦めなかった。それが何より嬉しかった。子どもを生みたいと思ったのも、その確かな事実があるからだ。
お前は私を騙すどころか、私を救っていたんだよ。愛を教えてくれた。真実を知らなくとも、私は本当に幸せだったのだ」
ロランは急に、クリスを抱きしめた。下手すると宿舎の窓から見えてしまうかもしれないのに、それでも構わないといった様子の男にクリスは泣きそうになる。
ここまで愛されているのだ。こんなにも想われているのだ。それが幸福でなくてなんだというのだろう。
おずおずと背中に腕を回すと、ロランのかすかな呟きが聞こえた。
愛しています。
それは本当に深い響きだった。
愛しさと悲しみと苦しみが混じり合う、不思議な響きだった。
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