コキア   花言葉は「柔軟な精神、あなたに打ち明ける」





 その日の昼頃、珍しい客人が来た。
 クリスがもう二度と会うことはないだろうと思っていた男は、驚いたことにクリスの顔を見るために、何かのついでにブラス城になんとなく寄り道をしたということだった。
 始め、クリスは、よくこの要塞に流浪の男が入り、騎士団長の部屋までこぎ着けることができたなと不思議がってしまったのだが、たまたまブラス城の入り口にサロメがいたらしく、男がクリスに会いに来たということで快く部屋の三階にある来客用のサロンへと案内したらしい。警戒心の強い軍師が男を歓迎したのは、先の戦いで協力し合ったことの恩のほか、クリスと“同じ運命”を辿る男の登場が彼にとっては心強いものだったからかもしれない。本当のところは分からないが、とりあえずクリスがサロンに行くと、相変わらず真っ黒な出で立ち、それと同じく漆黒の髪の男が、ソファに座ってサロメから出された茶を飲んでいるところだった。部屋に入ってきたクリスを見ると、ティーカップを置いて立ち上がる。

「ゲド殿。お久しぶりです」

 ソファの方に近づきつつ挨拶をする。彼は「久しいな」と言って、注意深く見なければ分からないほど些細な笑みを浮かべた。あの戦からだいぶ時を経ているはずだが、顔立ちも容姿も全く変わっていない。おそらくクリスもゲドから同じことを思われているのだろう。
 どうぞ座ってくださいと促し、クリスもその正面のソファに座る。サロメがソファの間にあるローテーブルに紅茶を入れたティーカップをすかさず置いた。

「クリス様の顔を見に来た、とのことですよ」

 軍師のいたずらっぽい口調に、クリスは薄く苦笑する。

「なんだか少し驚きました、ゲド殿。突然だったので」
「悪いな。たまたまだったんだが」

 たまたまゼクセに用事があり、今はその帰りだという。淡々としている低い声と口調も依然とまるで変わらない。少し髪を切っているのか、以前より短くなっているような気がしたが、確信は持てないので話題にはしなかった。痩せた頬と骨ばった体つきは、たくましいというより一人で生きていくのための最低限の姿といった印象で、見たところ旅の荷物らしきものも見あたらず、所持しているのは腰に着けている剣のみだ。
 我々と違って非常に身軽に生きているなと感心しつつ、クリスは訊いた。

「最近は何をされているのですか」
「以前と同じだ。ちまちま依頼を受けながら食っている。少し老けた奴らも共にな」

 十二小隊のことだ。未だ他の四人――エース、クイーン、ジョーカー、ジャックも元気で過ごしているという報告に、クリスはホッとした。

「こちらの方も未だ現役です。最近は特に大きな争い事もないので、みな皆暇そうにはしていますが」
「ゼクセンはな。今現在グラスランドとの関係が良好であればきちんと保っていた方がいい。以前からティントとは小競り合いがあっただろう。あそこは独立以降、力を温存している」
「ええ。先の戦での協力関係も暫定的なものでした。しかし今はあまり戦いたくはありません」

 もしこのタイミングで宣戦布告などされてしまったら少し困るとクリスが苦く笑うと、紅茶を口にしていたゲドは不思議そうな面持ちでクリスを見た。ゼクセンの誉れ高き騎士団の長とあろうとも人間、しかも強大な力を誇る真の紋章を持ち、民衆と騎士たちの前に剣を掲げる女が一体何事かと思ったのだろう。
 テーブルの近くに立って茶を飲んでいるサロメに目配せすると、いいのではないのですか、ゲドどのなら、というふうに肩をすくめた。ワイアットと信頼関係を築いていた男であるならば、信頼してもかまわないということだ。

「ここだけの話なんですが」

 クリスが声を潜めると、ゲドは戸惑いがちに頷いた。

「ああ……なんだ?」
「今ここにいるんです」

 鎧を着たままの腹を軽く撫でながら言う。
 クリスの仕草をきょとんとして見ていたゲドは、は?という口の形になってゼクセン騎士団長に視線を移した。あまり感情のぶれない男だと思っていたが、珍しく驚嘆が見て取れてクリスは笑ってしまいそうになる。

「……妊娠、しているのか?」
「ええ。だから、もし戦争沙汰になったら周囲から騎士団長の代任を求められるでしょう。そこにいるサロメとかね」
「妊娠?」

 依然信じられないといった様子で二度訊かれ、クリスはふふふと頬を染めて笑った。なんだかこういった話になると照れくさくなってしまう。
 クリスがもじもじしていると、サロメが苦笑混じりに口を挟んだ。

「驚くでしょう。私も心臓が口から出るかと思うほど驚きました」
「そうか。その……今は何ヶ月なんだ?」
「三ヶ月くらいかな? サロメ」
「そのくらいですね」
「……」

 再びクリスの腹――表面は無機質な鉄の甲冑なのだが――を見つめ、ゲドはなぜか深刻そうに眉を寄せた。多分、相手は一体誰なのだろうかという疑問が頭に渦を巻いているのだ。
 きっと答えを知ったらびっくりするだろうなあと思いながらゲドから口を開いてくれるのを待っていると、彼は持ったままだったカップをテーブルに静かに置いて、無表情でサロメに視線をやった。

「お前か」

 冷静に問われ、サロメは困惑の笑みを浮かべる。

「まあ、第一にはそう思われるんでしょうねえ」
「違うのか? まあ……いい。めでたいことには変わりないな」

 おめでとうと微笑して彼は言った。クリスは恥ずかしさと答えを言えない(今の会話の流れでは言わなくても良いようになってしまった)じれったさでむずむずし、サロメ、どうしようというつもりで軍師の方を見たが、あいにく頼りがいのある男はゲドの方を眺めていてクリスの眼差しには気が付かなかった。

「しかし、色々と不安なことがありまして。お訊きしたいことがあるのです。真の紋章を宿して老化の止まった人間が、そもそも妊娠できるということ自体に驚いているのですが、女性で真の紋章を身に宿し、懐妊して子を産んだという事例をゲド殿は見たことはありますか?」
「俺が直接会った人間の中にはいないが……ワイアットも普通の人間に妊娠させた側だったが問題なかったし、子のクリスに紋章の力が宿って生まれたわけでもない。老化現象が止まることもなかったから、こういったことに関しては通常の人間通りなのではないか?」

 無責任なことは言えないがと言うゲドに、サロメはかまわないとかぶりを振った。

「頼りがいがあります。事実が発覚してから色んな事が気が気でなくて」

 つまりクリスの妊娠の原因である男、子の親であるあの弓使いは、こういったことには役に立たないということだ。
 未だサロメはクリスを孕ませた男に対して不満感らしきものを抱いているらしく――おそらく父親が「どこの馬の骨とそんなことを」と思うのに近いのだろうが――以前よりもロランに対して厳しく当たるようになっていた。責任感とゼクセンのプライドの塊である弓使いはというと、恐縮の一点張りで、もはやクリスの保護者に頭が上がらない状態だ。クリスはそのたび「ロランをいじめないで!」と庇っているのだが、サロメの憤りはどうにも収まらないらしい。
 どうせ孫の顔でも見れば落ちつくだろう(そもそも親子でもなんでもないが)とクリスは暢気に考えているのだが、第三者にロランへの愚痴を言われてしまうと許し難いものがあった。

「ロランは紋章に関して詳しくないし、仕方ないだろ。ちゃんと彼も色々と調べてはくれているんだ」

 思わず言い返すと、「ロラン?」という訝しげな呟きが聞こえた。声の主、ゲドは目線を天上に向けて、ロランとかいう名前の男は誰だったろうかと考える顔をしている。
 別に問われてはいないのだが、クリスはようやくゲドに伝えられるという喜びも含めて彼の疑問に答えた。

「覚えてないか? 弓使いだよ」
「弓使い……ああ、あのエルフの?」

 本当に?といささか懐疑的に聞き返してくる。クリスは、まあどうせ影が薄い男だから当然の反応だなと本人が耳にしたら落ち込みそうなことを考えつつ、うんと頷いた。

「いい奴だよ。立派な父親になると断言できる」
「そうか。すまないが、俺は正直お前たちのことはよく分からん。まあ、でも……なんというか、色々と感慨深いな。ワイアットのことを思い出すよ」

 しみじみと彼は言った。