「我々が別れてからあいつはゼクセに身を隠していたらしいが、一体どのように過ごしていたのか俺は詳しくは知らなかった。目の前にいるのがあいつの子どもというのも不思議な感じだ。親無しでは苦労しただろう、お前も」

 ゲドの気遣いにクリスは――子どもができてから涙もろくなっているのか――泣きそうになって、ふるふると首を横に振った。父親関連の話はどうしてもつらい思い出や様々な想いがせり上がってきて、涙が出そうになる。

「父には、感謝しています」
「子どもにそう言ってもらえるのが一番の幸せだ」
「……私には少し不安なことがあります」

 うつむき、こんなことをあなたに訊くのは変かもしれませんがと前置いて、クリスは言った。どうしましたとサロメが心配そうに寄ってきたが、顔は上げない。

「こんなとき父ならどうするかというのを私は知りません。
 父は結果的に母と私を置いていくことを選びました。親の選択が、子の私にとって正しいものだったかどうかを自信をもって判断することができないのです。ワイアットは母と私に危害が及ばぬようにと我々のもとを去りました。でも、その中にはきっと、紋章が宿す“永遠”というものに対するおそれもあったのではないかと思います……」

 それを危惧するには非常に早い段階だったような気もしますが、と続ける。ゲドは素直に頷いた。
 ワイアットが妻子から離れることを決断したことには、自分が追われる身であるからということ以外にも、不老という事実によって周囲の人間たちが訝しがるようになったとき、そのことがアンナとクリスを苦しめるようになるだろうという理由もあったのではないかということだ。家族の中に不老の人間がいれば、人々の奇異の目ももちろん、配偶者や子、孫、そのまた子どもの生きる時間軸が上手く機能しなくなる。
 それはまさしくクリスが今現在、直面している問題だった。いくら相手が寿命の長い種族だといっても、彼はエルフとして正常な時を歩んでいる。彼がゆっくりと年老いていく間、真の紋章を宿している自分の容姿は変わることがない。それは生命として異常なことだ。

「私は今ごろ気が付きました、父の気持ちに。自分の家族が、自分のことを異質であると見なすことの恐ろしさを」

 腹を撫でながら、クリスは悲痛な面持ちになった。
 いつか、生まれた子は言うのかもしれない。
 どうしてお母さんはいつまでも若いままなの?

「では、お前はワイアットがしたことと同じことをしようと思っているのか?」

 ゲドが低い声で答えた。顔を上げると、彼はクリスを恐いほど真剣な目で見つめていた。

「いつか自分のせいで夫と子に危害が及びそうになったとき、あいつと同じようにお前は二人のもとを去るのか?」
「それが分からないんです」

 咄嗟にクリスは言い返す。

「私が騎士団長になったことを含め、結果として見れば父の判断は正しかったような気もします。
 でも、私は寂しかった。実の父が私と母の前から姿を消してしまったことは、本当に悲しくてつらいことでした。あんな思いを子どもにはさせたくないんです。けれど私はゼクセン騎士団の団長でもあり、容易に家庭を選べる立場ではありません。いつか決断を迫られる時が来るでしょう。
 もし団長として君臨し続けたとしたら、人々は私をいつまでも歳を取らない化け物と思うかもしれない。私は父と共に過ごしたことがほとんどなかったし、そんな存在を親として持つ子がどんな思いをするのか分かりません」
「少し待ってくれ」

 不意にゲドは目元を押さえ、険しい顔をして目を閉じた。考え込んでいるようなので、クリスは一度そこで言葉を切る。
 少しのあいだ待っていると、再びゲドは瞼を上げ、呆れ混じりの小さな溜息をついた。

「あのな……どうして今からそこまで考える?」
「え?」
「まだ生んでもいないし三ヶ月そこらだろう、どうして未来のことをそんなにも憂うんだ。前々から思っていたが、お前は真面目すぎる。そんなことでは子どもが窮屈に思うぞ」

 咎められ、クリスは「サロメに同じ事を言われたことがあります……」と消え入りそうな声で呟いた。ゲドは苦笑いを浮かべてサロメを一瞥する。

「こんな後ろ向きな奴だったか?」
「すみません。妊娠されてから喜んだり思い悩んだり吐いたりと色々大変でして」

 軍師はクリスのソファに腰掛け、顔を赤くしてうなだれる騎士団長を横からそっと覗き込んだ。

「クリス様。私が多くのことに言及してしまったのが、お悩みの深さの原因ならば謝ります。周囲を警戒しすぎて、クリス様のお気持ちにまで気が回らない場面も多々あったと思われますし」
「う、ううん……大丈夫だ。サロメはきちんと考えてくれている。私たちだけでは右往左往するだけだった」
「当事者であるロランとやらは頼りにならないのか? 俺の記憶では、だいぶ真面目そうな奴だったと思うんだが」
「なんというかねえ……」

 苦笑し、サロメは渋い声を出した。またロランの悪口を言うのではないかとクリスはムッとしたが、これまでの話でだいぶ気が滅入ってしまい、言い返す元気がなかった。

「どちらかというと体裁の方を気にしてショックを受けているみたいで。一大スキャンダルですから」
「ふむ……」
「まあ叩き直してでも子どもの親にしてみせますよ」

 サロメの横顔がいつになく邪悪で、クリスはロランの今後が心配になって更に泣きそうになってしまった。至って温厚だった軍師がここまできつい物言いをするところを未だかつて見たことがない。きっと彼の逆鱗に触れてしまったのだ、どうしよう……と腹の中の子どもに心で語りかけるが、無論、返事はなかった。
 ゲドは「お前がいれば大丈夫だな」と苦笑し、そろそろ行くと言って立ち上がった。クリスも慌てて腰を上げる。

「もう行かれるのですか」
「ああ。連れと合流する必要があるからな」

 短く言い、サロメが城の出口まで案内すると同行した。クリスも一緒に行こうとしたが、ゲドは妊娠していることに気を遣ったのか、構わないと制した。

「あれこれ思い悩む前に、無事に生むことを考えろ。ワイアットなら、そう言ったはずだ」

 ドアから出て行く際、振り向いたゲドに言われる。部屋の中に佇んでいたクリスは、思わずきゅっと唇を結んだ。

「……」
「――と、ロランとやらにも伝えておけ」

 ふふと小さく笑い、彼はサロメと一緒に廊下へ消えていった。
 クリスは、別にロランはそこまで優柔不断ではないのだがと困惑して頬を掻いていたが、ふと壁に掛けてある時計を見やると、パッと顔を明るくした。今日は昼過ぎからロランと一緒に自室で仕事をする予定なのだ。
 今日の茶の銘柄を考えつつルンルンとサロンを出る。周囲に人が歩いていないことを確認してから鎧の上からお腹を撫で、そうだよな、こんなネガティヴな母は嫌だよな、と、まだ闇の中にある命に対して微笑みかける。

 “お前はワイアットがしたことと同じことをしようと思っているのか?”
 不意にゲドの言葉が思い出され、廊下の途中で立ち止まり、横にある大きな窓から空を見上げた。ガラス戸が開いていて、気持ちいい風がゆるやかに吹いてくる。雲がまばらにあるものの空は青く晴れており、清々しい日だ。ゲドも移動が楽にできるだろう。

「お父様。
 未来を憂えてばかりでは、人は前に進めないのですね」

 呟くと、風が少し強く吹いて、クリスの髪を揺らした。