ワレモコウ   花言葉は「変化、愛して慕う、感謝、移ろいゆく日々」





 クリスが妊娠した以上、母体を守るために無理をさせるわけにはいかず、だからと言って今現在民衆に公にすることは避けたいということで、彼女がやりきれない仕事をロランが(責任を取ることもあって)代理でこなすことになった。とは言っても、今までほとんどそれに似た状態だったため、クリスの部屋にこもっていても周囲からそれほど疑われることはないだろうという軍師の読みがあった。もし出陣という事態になったら話は別だが、幸いゼクセン連邦は現在まずまずな平和の中にあり、騎士団は専ら自衛を任されている状態で、団長が皆の前に立って声高にならなければいけない場面も皆無だった。
 妊娠六週目に入ったところでつわりの症状が現れ始めた。大体毎日食べては吐くか食べずに吐くか、倦怠感がひどいときにはソファに寝そべり、調子が良くなるとのろのろ仕事を始めるといった様子だった。仕方のないことだが、仕事を通常通りこなしてもらうのも気の毒なので、ロランのみならず六騎士が全面的にサポートしている。また、信頼の置ける侍女二人――これはかつてクリスに婚礼衣装を無理矢理着せた二人であるが――を選出し、サロメから重々妊娠について内密にすることを約束させ、必要な時にクリスの世話をするように言いつけた。男ばかりの六騎士では、彼女を支援するにも限界があるのだ。
 ボルスとレオ、ルイスは、クリスの妊娠をサロメから伝えられた。烈火の騎士はその場で卒倒し、レオは驚いた様子でいたが、もともと弓使いと仲がいいこともあってか「めでたい」と素直に喜び、ルイスはしばし硬直していたもののじきに不敵な笑みを浮かべて彼女の懐妊を祝ったということだ。そのときの状況をサロメから聞かされ、ロランはとにかく申し訳ないのと色々な意味で心配になってきて、どうか何事も無きようにと女神ロアに祈ってしまった。
 クリスの代行の仕事のため、ブラス城の彼女の自室を訪れると、慌ただしくルイスと侍女一人が部屋の中を動き回っていた。

「……何事ですか」

 中を進むと異臭があり、クリスが嘔吐したのだと納得する。ぐったりとソファに横たわっているクリスの隣で、ルイスが「あ、ロラン様!」とホッとした様子で振り返った。

「ちょっと僕、向こうの部屋を片づけてきます。クリス様をお願いできますか」

 気持ち悪くなって手洗いに行こうとしたら、その場で吐いてしまったのだと口早に説明し、ロランの手元に濡れタオルを押しつけて奥の部屋へと消えていった。
 元はといえば、クリスのつわりはロランのせいだ。自分もそちらに行って片づけをした方がいいのではないかという罪悪感に襲われつつも、彼女を放っておく訳にはいかず、ソファに近寄って、その場に跪いた。こちらに顔を向けて横向きに寝ているクリスの口元をタオルで拭いてやる。
 目元に隈を作ってげっそりしているクリスは、弱々しい笑みを浮かべた。

「ありがとう……」
「いえ……昨日よりもひどそうですね」

 昨日も一緒に仕事をしていたが、食べた昼食を全て吐いてしまった。侍女の片方は出産経験者であり――これもサロメが妊娠中のための侍女として選んだ理由なのだが――彼女によると、クリスはつわりの症状が重く出ている方らしい。
 つわりが重いというのがロランにはいまいちピンと来ないが、きっとものすごくつらいのだろうと心配でたまらず、クリスの青白い頬を撫でる。ここのところまともに食事を摂っておらず、見た目にも明らかに体重を落としている彼女の姿は痛々しかった。今まで健康体の騎士団長しか目にすることが無かったからかもしれない。

「何か食べたいものはありますか」

 訊くと、クリスはうーんと唸った後、控えめに答えた。

「食べたいのは、果物かな……また吐くか分からないけど。胃がむかむかするし」
「少しでも食欲があるならば用意します。食べられなくても仕方がありません。偏ってもかまいませんから、つわりの間に口にできるものを探しておいた方が良いでしょう……
 ああ。私が代わることができたらいいのに」

 顔にかかっているクリスの銀髪をそっと指ですくってやりながら、どうして女性にばかりこんな負担が掛かるのでしょうとロランは眉を下げた。自分の責任には違いないのに、こういうとき、男は見守ってやることしかできないのだ。
 クリスは苦笑し、少し痩せた指でロランの頬を撫でた。

「仕方ないさ。気持ちだけで嬉しいよ。それに、つわりがあるのは赤ちゃんが成長してる証拠なんだって」

 ジーンさんが言ってた、と彼女は幸せそうに顔をほころばせた。現在、産婦人科医代わりになっているのが妊娠診断に協力した紋章師ジーンで、ブラス城から派遣した馬車で定期的にクリスの元を訪れている。医師免許を持っているわけではないものの、幾度も妊婦や産後の女性と関わっているということで、一通りの診察はできるらしい。本物の医師でないことでサロメは最初不安がっていたようが、だからといって信頼できる医師もいないため、ジーンに頼ることにしたようだった。彼女も協力的で、クリスに会いに来るたび、妊娠中に注意しておくことやつわりの対処の仕方など、色々なことをとても詳しく教えてくれている。また、紋章術に長けているため、具合が悪い時などは治癒をしてから帰っていくこともあった。
 本当に、多くの人々に協力をしてもらっている。果たして自分はこんなに誰かに貢献したことがあっただろうかと、ロランは居たたまれない思いになった。

「赤ちゃん元気かな?」

 無邪気に笑い、腹を撫でて言うものだから、たまらなくなってクリスのその手の上に自分の手を載せて軽く握った。クリスは驚いたようだが、すぐに頬を赤らめて微笑む。
 まるで民衆の前に立つ凛々しき騎士団長とはかけ離れた一人の女性の姿に、ロランは、今や安堵を覚えていた。以前の自分なら、他人の前で警戒心を解いた彼女を良くは思わなかっただろう。安易に気を許すなと咎めることもあったかもしれない。
 おそらく自分は変わったのだ。愛する人のおかげで、愛する人のために。

「元気でしょう。早く顔が見たい。あなたの血を受け継いでいるのです、きっと美しく強い子のはずだ」
「ふふ。お前の血も入ってるんだぞ。きっとな、背が高くて色白で顔立ちが綺麗で、何でも器用にこなすんだ。私よりもずっと優秀な子だぞ」
「あの……クリス様。これに着替えてくれませんか」

 急に背後から声が聞こえ、ロランはハッとして振り返った。クリスの着替えのためのブラウスを持ったルイスが佇み、苦笑混じりで二人を見下ろしている。
 恥ずかしさを覚え、ロランは慌てて立ち上がった。クリスものろのろと身を起こし、ふうと息をついて差し出された服に手を伸ばす。

「すまんな、ルイス」
「いいえ。大丈夫ですか?」
「ああ。ロランと話して、少し気が紛れた」
「そうですか。お二人とも幸せそうで、僕も幸せな気持ちになっちゃいましたよ」

 いつから見てたんだ!?とクリスがカッと頬を染めて訊く。ルイスはくすくすといたずらっぽく笑い、問いには答えずロランに部屋の外に出るよう促した。
 なぜ?という顔で見下ろす弓使いを見て、ルイスは呆れ顔になり、

「クリス様がお召し物を替えるからです」

 断言される。ロランは顔を赤くした――今までクリスの着替えなど目の前で何回も見ていたため油断したのだ。今のは完全な失態である。
 体調が気になるのもあるし、クリスの側にいられないのはひどく残念だが、後ろ髪を引かれながらルイスの言うとおりいったん廊下に出た。

「少しの間、侍女に任せましょう。僕はクリス様の食べ物や飲み物を買いに下に行きますが、ロラン様も行かれませんか」

 不意にルイスに言われ、ロランは、ルイスからこういうことに誘うのは珍しいなと小さく首を傾けた。普段、任せられた仕事は自分一人で何でもこなす優秀な少年である。

「仕事があるのですが……」
「今クリス様がなさっている仕事の提出期限には、まだ余裕があると思ったんですけど」

 つまり、ロランに一緒に来て欲しいということらしい。何か話があるようだ。