分かったと承諾すると、ルイスはにっこりと笑みを浮かべて歩き始めた。ロランも彼の隣を並ぶ。身長差があるため歩幅が異なり、ロランは少年のためにかなりゆっくりと歩かなければならなかった。

「僕、実はけっこう前からお二人の仲を知っていたんですよね」

 階段を下りがてら言われる。

「クリス様の雰囲気が変わったなあと思って。それまでは、クリス様ってサロメ様以外のところではすごくとげとげしくて、気が張っていて、神経質なイメージだったんですけど、急に皆さんの前で女性らしくなったっていうか」

 どうやらクリスのことについて話したいようだ。あまり二人の間柄について突っ込まれたくないので気が進まなかったが、ルイスもまたクリスの面倒を一生懸命見てくれている人間の一人である。彼にも知る権利があった。

「ああ、ロラン様なのかって、けっこう素直に納得したんですけどね。でもちょっと悔しかったです、僕、クリス様のこと大好きだから」

 取られるみたいで嫌だったと、従騎士は正直に告げた。ロランはぎこちなく頷く。

「そう、なんですか」
「でも、こんなのただの嫉妬だし、クリス様が幸せならそれでいいかなって。たぶん皆が同じ気持ちだと思います。本当は悔しいけど、クリス様が幸せならいい。
 不思議ですよね、あの方は」

 そうですねと、ロランは相づちを打った。そう、皆が口を揃えて言うのだ、クリスが幸せならそれでいいのだと。サロメも、ボルスも同じように言っていた。パーシヴァルとレオからは直接聞いてはいないが、きっと同じ事を口にするのだろう。それは、クリスが今まで多くの功績を残すために女を捨ててきたことの証だ。彼女はまだ若いのに責任を負いすぎ、年齢に似合わない苦労をしすぎている。
 ロランもまた、客観的に彼女を見たとき、権威や責務に雁字搦めになっている騎士団長がようやく解放されつつある姿が好ましいものであると思っていた。もちろん、いざ戦争になれば以前の騎士団長に戻ってもらわなければならないが、平和な時くらいは平和な彼女である方が、今後長くゼクセン騎士団長を務めていくうえでも良いはずだろう。女性としての楽しみを片っ端から奪ってしまえば、きっと彼女は苦しんだ。
 以前の自分だったら彼女の否応なく、栄光のもとにゼクセンに君臨し、偶像で居続けろと言ってしまったはずなのに。

「ロラン様も変わりましたね」

 ブラス城の出口を歩きながら、ルイスがロランを見上げて言った。確か前にもサロメに同じ事を言われたことがあるが、今ではもう、自分が変わったということを素直に肯定することができる。実感があるからだ。

「そうですね。そう思います」
「僕、今のロラン様の方が好きです。前のロラン様は、とっても鋭くて、冷たくて、恐かった」

 言いながら、ブラス城前の長い大通り沿いにある食料品店のドアを開ける。狭い店内には、駐在している兵士たちの買い出しのための必要最低限の食料品や日用品がぎっしり並んでいた。六騎士たちも頻繁に利用する店だ。
 顔なじみの年老いた店主に挨拶をしてから、品物を物色していく。ルイスはメモを持ってきていて、それを眺めつつカウンターの上に次々に品物を並べていった。ロランも食料品のあるコーナーを見て、クリスが食べられそうな果物を探してみる。そういえばクリスは何が好きだったろうか――あまり彼女の食生活について考えることも言及することもなかったため、よく分からない。そもそも食事の時間を一緒にすることがほとんど無いのだ。
 しばらく悩んでいると、後ろからルイスがひょいと覗き込んできた。

「クリス様は、ぶどうと、プラムと、オレンジが好きです」

 これとこれとこれ、と少年が指差していくものをロランは取り上げていく。こういうとき、クリスのことならば何でも知っている人間の存在は、悔しいというのも勿論あるが彼女のことを思えばありがたかった。
 必要なもの全てをカウンターに並べて会計を済ませ、再びブラス城内へと戻る。大きな紙袋を抱えているルイスが、慎重に階段を昇っている最中、再び口を開いた。

「さっきの続きですけど」

 ロランもルイスと同じ紙袋を持っているが、体格差のためか、彼ほど歩くのには苦労していない。

「はい」
「ロラン様って、クリス様のこと、いつから好きだったんですか?」

 問われ、ロランは少し歩みを遅め、うーんと喉の奥で小さく唸った。

「いつからかは……分かりません。気が付いたら、でしょうか」
「どんなところが好きなんですか?」
「どんな……」

 かなり前、クリスにも問われたが、その時は答えられなかった。クリス曰く、「なぜ好きなのかという理由を求めるということは、人間はなぜ人間を好きになるのかという問いと同じことだ」ということらしい。
 しかし、あえて挙げるとするならば。

「美しい方だからでしょうか。心身共に健やかな方だ」

 なんとなく思いついたことを口にすると、ルイスは「はいはい」とでも言いたげに溜息をついた。

「面食いですよね、ロラン様って」
「そっ……そうなんですか?」

 まさか自分が人を容姿で選ぶ人間だとは思ってはなかったが……と深刻に考え込むと、ルイスは可笑しそうに声を上げて笑った。ロラン様って真面目なところは全然変わってないや!と言いながら廊下を進み、クリスの部屋のドアを開ける。
 先ほどより顔色が良くなったクリスは、白いブラウスに着替え、ソファに座って二人を待っていた。侍女が近くの丸テーブルで茶を淹れているところだった。

「おかえり。悪いな、色々頼んでしまって」
「かまいませんよ。ロラン様、荷物はそこのテーブルに置いてください。僕が片づけますから」

 言われたとおりにテーブルに紙袋を置くと、ルイスは自分の持っている袋の中身を整理するために奥の部屋へと消えていった。
 従騎士と言えども戦うわけではなく、ひたすら主の生活の面倒を見なければならないというのもなかなか大変だろうとロランは気の毒に思う。実はロランには従騎士の経験がないのだ。弓の腕前で抜擢されて騎士団に入団したため、任用された時点で騎士の称号を与えられていた。

「ロラン」

 ふと呼ばれてクリスを振り返ると、彼女は微笑して、なぜか片手をロランに向かって伸ばしていた。
 なんですかと近寄ったら「しゃがめ」と言われる。その通りに跪くと、クリスは得意げな顔になってロランの頭を撫で始めた。近くに侍女がいるためぎょっとしたが、クリスの嬉しそうな表情を見て、ぐっと文句を留める。
 すると案の定、見ていた侍女が「あらあら」と和やかな声を出した。

「仲がよろしいですわね」
「ロランの髪はな、赤ん坊みたいに柔らかで気持ちいいんだ」

 ああそういうことかとロランは呆れつつも、撫でられるのが嫌なわけではないし、抵抗して拗ねられるのも困るため、彼女がしたいようにさせておく。

「私の髪は真っ直ぐで全然癖がつかないんだ。針みたいで、あまり好きじゃない」
「あら、クリス様の髪に憧れている者はたくさんおりますのよ」

 贅沢な悩みですわねえと三人分のカップに茶を注ぎ終えた侍女がぶつぶつ言っている。ロランも胸の内で大いに同意した。彼女ほど美しい銀髪を持つ人間は、彼女の母以外にいるはずがないと信じている。
 クリスはあまりピンときていない様子で肩をすくめた。

「ロランみたいに柔らかな髪の子が生まれたらな」
「私はクリス様の美しい銀髪が良いと思います」

 すかさず真面目にロランが返すと、彼女はふふっと笑い、立ち上がろうとしてソファから身を起こした。慌てて侍女がトレイに載せたカップを持って寄ってくる。

「いいのですよ、クリス様。そこでお飲みになってください」
「ソファで? テーブルもないし、行儀が悪いだろう」
「かまいません。まだ少しお疲れ気味のようですから、無理をしないでください」

 ロランも加わるとクリスは観念したらしく、再び背もたれに体重を預けて侍女から紅茶の入ったカップを受け取った。ふん、と不満げに息をついている。

「過保護すぎるぞ」
「普通ですわ。今はお母様の身体を最優先させなければなりませんのよ」
「それは分かってるけど……出産したときに私がなまっていたら、子に申し訳がないし」

 つくづく男らしい。生まれたばかりで目も見えない赤子が母の武勇など判るわけもないのに。
 ロランは不意に騎士団長かつ自分の恋人の頭を軽く撫で、

「では私が、あなたの分も強くなっていれば良いのです」

 と、にこりと笑んで宣言した。
 クリスは、普段は近くに人がいるのに髪を愛撫し、しかも笑顔を浮かべるなど絶対にしないロランに瞠目したのか、瞬く間に頬を紅潮させてぷるぷるとかぶりを振った。何やらもごもご言っているが、あまりに小さな声であるためにロランや侍女の耳には届かない。
 やれやれといった様子で、侍女はルイスを呼びに奥の部屋へと消えた。それをしっかり確認すると、ロランは彼女の唇に微かな口付けをする。
 耳まで赤くなってクリスは頬をふくらませたが、すぐに破顔して嬉しそうにロランの首に抱きついた。

「ロラン、本当に変わったな」
「そうでしょうか?」
「うん。どんなところが変わったかというと言葉にするのは難しいが、今のロランの方が私は好き」

 正直にそう告げるクリスを、ロランは純粋にありがたいと思った。先ほどのルイスもまた今の自分の方が良いと言っていた。きっとこの女性のおかげで、自分は人として良い方向に変化することができたのだ。
 しばらくクリスの髪を愛おしげに撫でていたロランだが、ふと思い出して口を開く。

「ところで、クリス様」
「ん?」
「私は面食いだとルイスが言っていました」

 クリスはパッと身を離し、顔を一瞬で蒼白にさせて「私じゃだめか!?」と絶望に満ちた声で訊く。
 この人はというと全く変わっていないなと苦笑し、ロランはこの世界の何よりも愛しい女性を優しく抱きしめた。