何度かクリスの部屋のドアをノックしたが応答が無く、普段ならば諦めて帰るロランだが、今回ばかりは引き返すことはできなかった。
 ドアノブに手をかけて動かすと鍵が掛かっていなかったため、罪悪感を抱きながらも許可無く彼女の部屋に足を踏み入れた。
 自室の部屋のソファに、クリスがぐったりとした様子で深く腰掛けている。侵入してきた弓使いに気付いているはずなのに顔を上げず、眉を寄せて堅く目を閉じたままだ。
 ドアを閉め、重たい足を歩ませてソファの方へ行くと、彼女の前に佇んだ。彼女は微動だにしない。ひどく疲れている様子で、ゆっくりと、整えるような呼吸をしている。
 長い、永遠にも感じられる沈黙が続く。
 クリスのもとに向かっている最中も、ロランの心には深い絶望が宿り続けていたが、今、このようにしてクリスを見下ろしていると、今まであった出来事が本当なのか分からなくなって、頭がぼうっとした。もしかして一連の事件は夢なのではないかとまで思ってしまう。もし夢だったら、自分は目が覚めた時に安堵するのだろうか? それとも残念がるのだろうか?

「……クリス様」

 半ば無意識に声が出た。そっとしゃがみ込み、彼女を正面から見据える。クリスはそれでも瞼を閉じたままでいたが、しばらくして瞳を見せた。充血した白目の合間に、美しい紫の虹彩がある。
 本当に、この女性は何もかもが美しい。どこか恍惚な思いを抱きながら、ロランはそっと片手を伸ばした。彼女の白い頬に触れると、それがいつもよりカサカサと荒れているのに気付く。よほど涙を流したのだろう。
 なぜ、クリスは、いま自分が彼女に手を差しのべることを許したのだろうか。ふと疑問に思った。以前、真の水の紋章が暴発したときのクリスは、「触れるな」と自分に向かって絶叫したはずなのに。
 どこか諦めているような恋人の様子に、ロランは不安を抱いた。

「クリス様」

 呼びかける。
 クリスはじっとロランの両目を見つめたまま、無表情で口を開いた。

「堕ろす」

 それは冷たく、淡々と放たれた。
 ロランは目を見開いた。一瞬思考が真っ白になり、その直後ガンとものすごい衝撃が脳内を伝った。背中にぶわりと冷や汗をかき、頭がぐらぐらした。
 今、彼女はなんと言った?
 彼女が、だぞ。
 暗く閉じそうになる理性と視界を必死に奮い立たせ、しかしクリスを見ていられなくなって今度はロランが堅く目を閉じた。とても無表情ではいられず、眉間に深い皺を作る。
 彼女が、だぞ。
 もう一度、ロランは自問した。まさか、心優しく、敵にさえ哀れみを抱く慈悲深い彼女が、たとえそれが恋人の子でなくとも、何の罪もない子どもを堕胎させるなどという選択をするなど信じられない。
 しかし――彼女は選んだのだ。それは葛藤の上に見出された答えなのだろう。彼女自身と弓使い、そしてゼクセン連邦と騎士団とゼクセンの民のために。
 答えなくては。彼女が泣きながら必死に出した結論なのだから。
 そうですか、分かりましたと。いつも自分がそうするように。
 唇が震える。

「――」

 瞼を閉じたまま口を開くが、声は出なかった。動悸がし、呼吸が乱れ始める。
 きちんと、彼女と向き合って、それこそ最善の方法であると、二人の間には何も無かったのだと、何も無かったことにするのだと言わなければならない。
 彼女の放った言葉を素直に肯定しなければならない。
 自分たちの子どもを堕ろしましょう。

 本当に?