「クリス様」

 目を開いたと同時、涙が流れるのがロランには分かった。それは自分の痩せた頬を滑って顎にひとときだけ溜まり、床に微かな音を立てこぼれ落ちた。
 自分が泣くなど、しかも男が女性の前で涙を流すなど考えられず、みっともないことだと思っていたが、今は構わなかった。
 水気でぼやけた視界の中で、彼女は相変わらずの無表情で自分を見つめている。その無が、恐ろしいと思った。いつも自分はこんな顔をしているのだろうか? 表現が苦手だからと言い訳をして、冷徹な表情で彼女を不安がらせていたのではないだろうか?
 ロランは溢れ出る涙を拭いもせずに言った。

「生んでください」

 掠れた己の言葉を耳にした瞬間、たまらずくしゃりと顔を歪ませた。その反動で、目に溜まっていた大量の涙が肌の上を滑る。
 息が苦しくなり、首もとを片手でそっと押さえた。

「我々の子どもを、生んでください」

 この捻り出すような悲痛な声が本当に自分のものなのかと頭の片隅で疑ったが、しかしその全てが紛れもなくロランの真実だった。
 愛する人よ。
 人形のように虚ろな目で私を見ないで。

「もし堕ろすというのなら、私も我が子と共に死にます」

 細く長い息を吐き、ロランは再び目を伏せた。閉じた睫毛の合間から、涙が止めどなく流れ落ちていく。
 泣いたのは、いつぶりだろうか。元来、感情に乏しいためか、悲しい場面に遭遇しても泣くことはほとんどなかったし、泣くとしても一筋の涙を流して終わってしまうだけだった。親しい騎士たちが戦争で命を落とし、その悼みのためにたとえ周囲の者が絶叫を上げて号泣しても、それにつられて泣くということすらなかった。
 しかし、それは悲しくないからではない。そんなことがあるわけがない。悲しいのに、上手く表現ができないのだ。その方法がよく分からなかった。

「だから、生んでください。そうでなければ、私を我が子と共に殺してください」

 一字一字を噛むように、ロランは腹から出す低い声で訴えた。クリスの返答も動作も無いのがあまりに怖くて、手が小刻みに震える。
 次に目を開け、先ほどと何ら変わりない傀儡のようなクリスの表情があったとき、自分は一体どうなるだろうか。発狂してしまうかもしれない。こんなにも愛している人がもはや自分を軽蔑し、腹の中の子どもにすら無関心な態度でいたとしたら。
 もしそうであったのならば、今、この場で自らの喉を切り、自害しよう。
 光も差さない心の中でそう決心し、ロランは涙をこぼしながら、ゆっくりと目を開けた。
 水面のように歪んだ景色に、彼女の白い肌がぐにゃぐにゃと揺れている。本当に恐ろしかったが、ロランは片手の甲で涙を拭った。彼女の表情を知るために。
 ようやく鮮明になった視界に飛び込んできたものは、クリスの、泣き顔だった。

「…………ロラン」

 少し前から泣いていたらしい、彼女の頬は幾筋もの涙によって濡れていて、唇は震え、目は充血していた。彼女は男の名をもう一度呼んだあと、背もたれから身を起こし、両腕を伸ばしてロランの首にすがりついた。

「堕ろすわけが、ないだろう」

 耳元で囁かれたその震える声を聞いたロランは目を見開き、

「堕ろすわけがない」

 再び繰り返された言葉に耐えきれなくなって、唇を噛んだ。
 情けないほど小さな声音で愛しい人の名を呼び、ロランもまた両腕を回して彼女の小さな身体を強く抱きしめる。

「クリス、様……」
「お前が私の嘘に対して“そうしろ”と言ったのならば、私が、我が子と共に死んだ」

 クリスの、その痛々しいほど誠実な言葉に、たまらなくなってロランは小さくしゃくりあげた。彼女の白い首元に唇を置き、その動きが肌で分かるように、何度も何度も愛する人の名を繰り返す。
 身体中から溢れ出る、狂おしいほどの感謝と愛おしさで、気が変になってしまいそうだった。
 そんなロランを現実に繋ぎ止めているのは今抱きしめているクリスの体温だった。
 愛しています。
 呟くと、私もだと、クリスは泣きながら返事をする。
 クリス様、愛しています。
 愛しています。
 あなたのお腹にいる我らが子と共に、あなたを気が狂わんばかりに。
 クリスは何度も頷き、ロランの髪の毛に指を差し入れ、身体に強く押しつけるようにする。まるで今この瞬間二人を一つの存在にしてしまいたいというかのように。
 ロランもまた抱きしめ返す。一つになり、この世界を敵に回してでもこれから生まれくる子を守り抜くというかのように。

 そのとき確かに、二人は一つになっていた。