アイビーゼラニウム   花言葉は「真実の愛情、決心」





 その日一日は生きた心地がしなかった。クリスが自分の子を妊娠したかもしれないということよりも、自分が取ったあるまじき態度のせいで二度とクリスと愛し合うことができなくなってしまうのではないかという恐怖でいっぱいだった。
 午後、士官学校の授業を受け持ったが、自分が壇上に立ったことを実際あまり覚えていない。授業後、生徒たちが普段通りに質問しに来たため、どうやら講義は行っていたらしい。どんなときでもポーカーフェイスが崩れないため、様子がおかしいと生徒たちに怪訝な顔をされることもなかった。しかし、次の授業でどこから教えればいいのかがまるで分からない。授業後の自分は一体どのように午後を過ごしていたのかも記憶に無い。気が付いたら自室にいて、暗くなる部屋の中ベッドに腰掛け、うなだれていた。
 自分の落ち込みようは半端ではないなと、床の木目を見つめながらロランは自嘲した。滅多に心乱される瞬間に遭遇しないため、いざ直面すると対処の方法が分からず、ひたすら自分の内で未知と戦うしかなかった。
 もし。
 もしクリスが妊娠したことで周囲から非難され、傷つけられたとしても。
 自分はどうしてその人間たちを責めることができよう。
 我が身が責め立てられるのはいいのだ、クリスが妊娠しているのだとしたら確実に自分の責任なのだから、お前のせいだと言われても弁明せず、ただただ頷くしかない。婚姻関係を結べないと分かっていながら貴族である騎士団長と身体を結んだスキャンダラスな男として騎士団を辞職しろと命令されたら、そうするしかほか無い。むしろ自ら辞意を示すべきかもしれない。
 ゼクセン騎士団を辞める? それは死ぬ時だと考えていたロランは唖然とした。きっと騎士団、いやゼクセン全土で自分がもっとも愛国心を持っている男だと信じている。騎士を辞職するなど、己の人生の中であってはならないことだった。だが、抵抗はできない――もう何があっても弁明の余地はないのだ。
 妊娠が本当だとしたら、婚姻関係を結べない、正式な夫婦にも父親にもなれないということで、愛する女性と生まれくる子どもがこれから先長く苦しむかもしれない。こんなにも大事で、何よりも守りたい人を、誰よりも自分が傷つけてしまう。

「……ああ」

 落胆に、ロランは組んだ両手を額に当て、祈るようにうつむいた。夕日が完全に山の向こうに消え、沈鬱な薄暗さが部屋全体を包む。
 自分の子どもが彼女の腹にいる。それ自体は天にも昇るような喜びだ、これらの問題を全て無視してしまえば。崇高なるゼクセンの騎士が懐妊したことは、中には批判的な者もいるかもしれないが、大半のゼクセンの民にとって喜ばしいことだろう。腹が大きいまま剣を振るい続けることは不可能であろうから、妊娠中の騎士団長代役はサロメに頼めばいい。そして生まれた子どもは、強く美しいゼクセン騎士団長の期待の御子として人々に祝福されるはずだ――皆が認める偉大な父親がいればの話だが。
 父親にもなれない男の子どもなど要らないと言われたら。
 ロランは奥歯を噛みしめた。
 苦しい。こんな苦しい感情を味わったのは生まれて初めてだ。胸が切り裂かれるように痛み、今にも発狂してしまいそうだった。子どもを堕胎させてしまえなどというアドバイスをされる状態になったらどうすればいい? 無垢で小さな命を自らの手で消し去ってしまうのか?
 それだけは嫌だ。愛する人との子どもを殺してしまうことなど考えたくない。しかし、そう思っていること自体が罪になるという。
 目頭が熱くなった。

「ロラン殿」

 不意にドアの向こうから呼びかけがあり、ロランはびくっと身体を震わせて顔を上げた。声からしてクリスの親友の男だ。
 のろのろと立ち上がり、歩み寄ってドアを開ける。壁のオイルランプだけが灯る暗い廊下に、やはりサヴァンストが佇んでいた。上目遣いでロランを見上げていて、その表情は無というより怒っているように見えた。
 ロランは――こういうとき自分はつくづく損していると思うのだが――無表情で、彼を見下ろした。

「……」
「結論から言いますね」

 低く、敵意に満ちた語調だった。

「妊娠しているんだそうです」

 言葉に、ロランの目の前は真っ暗になった。ぶわりと背中に冷や汗をかき、思わずドア枠に片手を当てて体重を預ける。
 サヴァンストはそんな弓使いの態度が気にくわなかったらしく、「失礼」と言いながら無理矢理部屋に入ってきた。バンとドアを閉められる。

「聞こえるとまずいんでね」
「……」
「あのさ、今更言っても仕方ないんだけど、君すごくたちが悪いよね」

 ズカズカと中を進み、奥にある窓の前に立つとサヴァンストは背を向けたままで続けた。ロランはふらつく身体を入り口のドアにもたせかけ、額に汗をかきながらぼんやりと男の背中を眺める。

「法律上、婚姻関係を結べないって知ってて、それをクリスに言ってなかったんでしょう?」
「……」
「僕もびっくりした。彼女、今回の妊娠で初めてサロメ殿から知らされて、君と婚姻関係を結べないって知ったらしいよ。今まで色恋なんかとは程遠い人間だったからかもしれないけど。
 もしクリスが知っていたなら同意の上で愛し合ってたんだろうし仕方ないかなって思うけど、これじゃあね」

 ガン、と窓ガラスを拳で叩き、サヴァンストは振り返った。暗闇の中で彼の赤い瞳が鋭く光っている。

「最低だよ」

 ロランには何も言い返せなかった。
 士官学校で法律を教えている身である、法典の文字の羅列をそっくりそのまま覚えているわけではないが、基本的な事項は頭の中に入っている。もちろん、その中には戸籍に関する事も含まれており、婚姻関係が結べないということはクリスと恋愛関係になる前から分かっていた。だからと言ってせっかく自分を好いてくれたクリスと別れようなどとは思っていなかったし、彼女自身も結婚について特に何も語らなかったため、このままのんびり恋人という関係が続いてくれればいい、無理に結婚のことを教えなくても、クリスが婚姻について言及してきた時に二人でじっくりと話し合えばいいと生半可なことを考えていた。むしろ関係がこじれそうなことは考えないようにしていたと言った方が合っているかもしれない。
 一緒にいたい。この先も、命尽き果てるまで。
 その言葉の中に、クリスが自分と寄り添って生きていくことを、恋人を超え、ロランと夫婦の関係になって共に在ろうとすることを予測できなかったはずはないのに。
 無責任としか表現のしようがない。こうなる可能性などまだ無いと無意識にでも信じていた自分は、一体何なのだろう。

「……話し合います、彼女と」

 ようやく絞り出した声は情けないほど掠れていた。
 この言葉を機に、サヴァンストが大股で歩く。彼はロランの前に立つと憎悪に満ちた面持ちで見上げ、

「君がしなきゃいけないことがなんだったか分かってる?」

 右の拳をぐっとロランの胸にあてて、低く唸った。

「不安でいっぱいだった彼女に対して、君はどうしなきゃいけなかったか分かってる?
 君はね、喜ぶべきだったんだよ。彼女を抱きしめて嬉しいって、不安がるなってね!」

 声を張り上げ、当てた拳でロランのみぞおちを殴る。華奢な身体から一体どうしてこんなに強い力が出るのだと疑問に思うほどの勢いだったため、ロランは背中をしたたかにドアにぶつけて思わず噎せた。
 前かがみになって咳き込む男を冷たい目で睨み、サヴァンストは再び「最低だ」と吐き捨てた。

「彼女が欲しかったのは婚姻が結べないだの批判を喰らうだの心配している絶望した顔じゃない、そんなこと乗り越えてみせるって意気込んで二人の子どもを祝福するあんたの強さだ!」

 放たれた言葉に、ロランは顔を歪ませた。呼吸が上手くできない苦しさもあったが、それ以上に、自分がどうして彼の言うとおりのことをできなかったのだろうという激しい後悔に苛まれた。
 そうだ、自分はそうすべきだった。たとえ妊娠が嘘であっても彼女に駆け寄り、抱きしめて、嬉しいと笑ってやるべきだったのだ。

「クリスをこれ以上傷つけたら許さない。もしそんなことをしたら僕は君を殺してしまうかもしれない」

 ガンと地団駄を踏むサヴァンストの目には涙が浮かんでいた。ロランもまた咳き込んだために生理的に涙の滲んだ瞳で彼の顔をじっと見つめ返す。
 しばらく無言でそうしていた二人だったが、そのうちサヴァンストが落胆の溜息をついた。

「……君がこれからすべきことは、クリスに会うことだよ。謝って欲しい。
 そして言ってあげてよ、愛してるって。あの子、不安すぎて死ぬほど泣いたんだから。今も泣いてるんだから」

 じゃあねと乱暴に吐き捨て、サヴァンストはドアを開けると部屋から素早く出て行った。大きな音を立てて戸が閉められる。
 しばし抜け殻のようになって佇んでいたロランだが、このままではいけないと気を奮い立たせ、震える手をドアノブにかけた。
 もう間に合わないとしても、たとえ彼女が拒んでも、本当は嬉しくてたまらないのだと、自分は伝えなければならなかった。