今の状況の元凶となる事由がサロメの口から音声化されて、ようやくロランはその非常なる重みを感じることができた。
 そう。
 二人は、互いに婚姻関係を結べない身分にあるのだ。

「ロラン殿は、パーシヴァル殿と同じく姓を持っているといえどもゼクセン連邦において伝統的な身分を持っているわけではありません。あなたは市民権は得ているが戸籍上はあくまで平民の扱いです。対して、クリス様はライトフェロー家のご息女で公爵家の長女。
 ワイアット様がライトフェロー家に婿入りできたことが特例法に該当することはご存じですね」

 ロランは頷かなかった。士官学校で法律の授業を受け持つ講師をしている身だ、法に関することは大方頭に入っている。わざわざ肯定するまでもなかった。
 もともとワイアットはゼクセンの出身ではなく、貴族の地位は得ていなかった。クリスの母であるアンナは、ライトフェロー家の嫡子でなかったため、婚姻を結ぶ相手の制限が少ないがゆえに、貴族でなかったワイアットを婿として迎えることができた。その方法は、アンナの父と母、すなわちクリスの祖父母と立会人から法に基づく承認を得ることにあり、それゆえに二人の子どもであるクリスは戸籍上、完全に貴族として扱われるようになった。つまり、平民が貴族として認められるためには、貴族側の複数世代と立会人が、貴族でない者をその家系に組み込む法的な承認をしなければならないというわけだ。
 ゼクセンの貴族は、その地位を落としたくがないために平民と籍を入れることはせず、上流貴族は上流貴族の中で結びつきを強めていくのが通例である。その証拠として、地位を落とさない目的でアンナが婿を取ったことがいえるだろう。爵位を上げはしても、落とすことは決してしない。わざわざ両親の法的手続きが必要なのもそのためで、だからこそアンナとワイアットの婚姻はゼクセンでは特例とみなされている。
 ちなみにアンナには病弱な兄がいたが、彼はアンナがワイアットと結婚したのち未婚の状態で亡くなっている。また、その時点でライトフェロー側の祖父母も死亡していたため、両親であるアンナもワイアットもいない今、ライトフェロー家の名を直系で継いでいる者はクリスしかいなかった。
 相手が平民などという身分では話にならない。だからこそ、ロランは考えないようにしていた、どんなに身体を結んでも、愛し合っても、身分差ゆえに世間的には認められないのだから。現実がちらつくたび、胸が切り裂かれる想いだった。

「今現在、クリス様とあなたが法律のもとで婚姻関係を結ぶことは不可能なのですよ」

 落胆の混じったサロメの声が聞こえる。ロランの思考はもはや混沌とし、闇の中に意識を落としてしまいそうだった。

「妊娠というのはいいんです、めでたいことですから、そこまではある程度の者たちも認めてくれるでしょう。しかし、高位の女性が事実婚となると話は別です。仮にも彼女は貴族の令嬢、しかもゼクセンの象徴たる騎士団長という立場なのです。身内が早くに亡くなったクリス様には、もはや法的な後ろ盾がありません。あなた方がアンナ様やワイアット様のように貴族の特例を受けることは不可能なのです。婚姻関係無しに子どもの一人親になるということが、周囲の反感を買うのは目に見えています。下手すると、その相手であるあなたは退団を余儀なくされるかもしれません」

 退団という単語に、ロランの思考がぐらりと揺れた。一連のことを考えれば、自分の犯した罪は重大であり、サロメの言うとおり、スキャンダルを起こした張本人として騎士団を辞めろと言われても仕方ないだろう。
 しかし、これはあくまで可能性の話だということがロランを卒倒から免れさせた。ふらつく身体が後ろに倒れそうになるのをどうにか踏みとどまって防ぎ、

「……私には、よく分かりません」

 額を片手で押さえ、ロランは絶望感と脱力感に苛まれてうなだれた。

「もし妊娠が事実だったとしたら……クリス様は、どうされるのがよいのですか」

 言葉を言い切ると同時、サロメにバシッと頬を叩かれた。強い力ではなかったが、優しさは微塵もなかった。
 この男はいま自分を憎んでいるのだと、ロランは顔にじんわりと広がっていく痛みを感じながら悟った。

「……それはあなた方が二人で決めることでしょう」

 声を震わせ、青ざめているサロメの表情がある。

「責任を取るのは、私ではなくあなたとクリス様です。答えを見つけるのもお二人自身です。
 いいですか、ロラン卿、混乱しているのは分かりますが、きちんと考えてください。そしてあなたは今いろんな過ちを犯していることを理解してください。
 これはあくまで可能性の話に過ぎません。しかし、妊娠しているのは、彼女の様子からしてもおそらく真実です。こういう予感は大抵的中するんですよ、私は」

 現実主義なサロメらしからぬ言葉だと思ったが、否定する気など起きなかった。

「……」
「そろそろジーン殿がいらっしゃる頃でしょう……ロラン殿も授業があるのなら行ってください、準備もあるでしょうし。また夜にでも話し合いましょう。
 それでは」

 吐き捨て、サロメは廊下を大股で歩いて階段を降り、消えていった。あれだけクリスを大切にしている男が、どうして泣きじゃくる彼女を部屋に置いたまま行ってしまうのだろうと疑問に思う己に気付き、ロランは嫌悪感を抱いて奥歯を噛みしめた。
 自分はなんと最低な男なのだろう。

「……クリス様」

 彼女の部屋のドアを見つめる。もう二度と開くことはないように思える重たげな扉の表面を、伸ばした片手でロランは撫でた。耳を澄ませてみたが、泣き声がエルフの長い耳に届くことはない。
 深い絶望がロランを包む。愛しい人の名を唇の上だけで呼ぶが、返事などあるわけがなかった。
 これから士官学校の授業がある。学生たちの前に立ち、ゼクセン連邦の法について教えなければならない。正確に、講師らしく、きちんと、未来のゼクセンを担う若者たちに分かりやすく、全てはこのゼクセンのために、自分が何よりも愛するゼクセンのために。
 ロランは苦々しげ唇を噛み、手のひらをドアに載せたままうつむいて、目を閉じた。

「……それでも私は、あなたを……」

 これ以上、言葉を続けることは罪となる。ロランは気を奮い立たせて目を開けると、勢いよく踵を弾ませてその場を去った。