「……すごく、ショックだったんだ」
泣き疲れてげっそりしながら、机に伏せっているクリスは涙声で弱々しく訴えた。サヴァンストの懸命な励ましにより、ようやく泣きやむことができたのはつい先ほどのことだ。
「だって、ロランが……全然、嬉しそうでなくて、むしろ傷ついたみたいな顔になって」
「だから男はだめなんだよね」
クリスが落ちつきやっとのことソファに座ることができたサヴァンストが、嘆息混じりに吐き捨てる。ロランが去ってからしばらく経っているが、未だ彼の中には弓使いに対する怒りがあり、苛々しているらしい。
「あの言い方は、正直ないと思ったよ。本心が駄々漏れ」
「……本心なのかな?」
妊娠しているかもしれないとサロメが伝えた時、ロランは見て分かるほど衝撃を受けて固まっていた。告白する前から、彼の反応が一体どのようなものかクリスはひどく恐れていた。軍師と親友に同席してもらったのはそのためだ。
子どもの父親になるかもしれない男は、一言呟いた。「まだ決まったわけでは」と。それは、妊娠ということが真実であって欲しくないという気持ちをほのめかす言葉だった。子どもができてしまったときに、二人の間に生まれるややこしさを全く予測していなかったわけではないし、きっとロランは喜びよりもショックを受けるだろうと分かってはいたが、それをいざ目の当たりにしてしまうとさすがに心が折れた。耐えきれず、卓上に突っ伏して大泣きしてしまった。
「本心だと思うよ。クリスには酷だけど」
「……そうか……」
正直に言ってくれる親友の誠実さはありがたいが、それでもやはり胸が痛くて涙が出てくる。腫れぼったい目元を両手の指先で押さえ、これ以上泣かないようにと戒める。
「でも……でも、赤ちゃんが可哀想だ。どうしようサヴァン、私たちの子どもが望まれない子どもだったら」
「そういうことを言わないの。君は母親として彼との子どもを祝福するしかないでしょう。相手がどう出ても、君はその子を守らなきゃいけないよ。
弓使い殿も賢い人みたいだから気が回るかなと思ったけど、買いかぶりすぎたね。サロメ殿もカンカンだったじゃないか」
しかし、ロランの気持ちはクリスにも分かるのだ。夫婦でもなんでもない間柄の状態で子どもを孕むのは立場や体裁上よくないため、性交渉の時は彼が注意深くなっていたことを知っているし、妊娠しやすい時期は避け、行為の最中、避妊もしっかり行っていた。だから大丈夫だろうと思っていたのだ――避妊など確実なものではないのに、そうであると思い込んで。
あまりロランばかり責めないで欲しいというクリスに、サヴァンストは呆れて――というよりも軽蔑に近い半眼を向けた。
「愛し合っている二人を非難する気はないし、こういうのはとにかく仕方のないことだけど、彼にはもう少し誠意ある態度を取って欲しかったものだね」
「ロランだって普段から気をつけてたんだ。ちゃんとしてたつもりだった」
「結局は“つもり”なのさ……これ以上は可能性の話になるからやめよう」
そのとき部屋の扉がノックされる音が響き、二人はびくりとした。さっと立ち上がったサヴァンストがドアを開けると、そこには本日会う約束をしていたジーンの姿があった。案内をしてきた兵士に礼を言い、彼女はゆっくりと中に入って二人に視線をやり、にこりと笑った。長い銀髪を高いところで結わえ、グラマラスな身体にぴったりとした黒のワンピースを纏っている。肩からショールをかけているせいでクリスが予測していたほど肌の露出は少なかったが、この隠しきれない豊満な胸元では、ブラス城の兵士たちが入り口にいる者から順に卒倒していたに違いない。
彼女は妖艶な足取りでクリスに近づくと、机の前に立ってうふふと笑った。
「お久しぶりね、クリスさん」
低く、美しい声でにこやかに挨拶をされ、クリスもまた立ち上がり、泣き腫らした目のままで微笑した。
「お久しぶりです。ご足労いただき申し訳ありません」
「いいのよ。でもあなた、だいぶ……」
今度は心配そうな顔つきになって、片手をそっと差し伸べてくる。涙でぼろぼろになったクリスを気の毒に思ったのだろう。
クリスはゆるくかぶりを振った。
「大丈夫です。少し取り乱してしまっただけです……情けない限りで」
「弓使いさんも驚かれたのでしょうね」
決してロランを責めはせず優しい調子で言うジーンに、クリスは溜まらなくなって目に涙を浮かべた。ジーンはこくりと頷くと側に回り、鉄の肩当てをそっと触ってクリスを座らせた。
サヴァンストが何か言いたげに近づき、ジーンを見つめる。ジーンは悟ったように彼に穏やかな眼差しを向け、口を開いた。
「妊娠しています」
紋章師の言葉は何のためらいもなく放たれた。
先ほどの弓使いと同じように、二人は固まった。まさかこんなにも早く、クリスの腹に触れるわけでもなく、答えなど分かるはずがないと無意識にも思っていただけに、二人の驚愕は桁外れのものだった。一瞬何の話か分からなかったほどだ。
だんだんとクリスの中で彼女の一言が現実味を帯びてくる。まるで機械仕掛けのように首をぎこちなく動かし隣のジーンを見上げると、彼女は、少し悲しげにも見える表情でクリスを眺め、微笑んでいた。
クリスの見開かれた両目から涙がこぼれ、頬を伝った。
「……」
本当に?と声を出して言いたかったが、唇を動かすことしかできなかった。
読唇したジーンは頷き、
「あなたのお腹の中で、別の命がつくられているのが分かります。とても小さいけれど、あなただけではなく、あの弓使いさんの力を半分持っているみたいね」
クリスの肩をぽんぽんと撫で、言う。話を聞いていたサヴァンストが控えめに、しかし訝しげに問うた。
「ジーンさん。その……本当に、分かるんですか? 何もしていないように見えるんですが」
「ええ。部屋に入った時から分かったわ」
その口調に迷いや嘘は無かった。相手が非常なる力を持っている術師だということを知っているサヴァンストは信じざるを得なかったらしく、そうですか、と呆然とした面持ちで素直に呟き、うつむいた。
クリスは、ジーンの美しい顔を凝視したまま動けなかった。いつの間に自分の手が腹にあてられているのに気が付き、甲冑の上からそこをかすかに撫でていた。
ここにいる。
ここにいるというのだ。
クリスの心に生まれたものは、これから起こりうる様々な事件や非難などへの恐怖ではなく、ただ、
「……ジーンさん」
とても透明な愛おしさだった。
溜めきれなくなった涙が次々と頬を滑り、顎を伝って下に落ちていく。それは冷たい鉄のアーマーを伝い、腹に置いたクリスの手を流れ、分厚い布で作られているベストに染み込んで消えていった。
「私は、母になるのね」
どこか意識が別の所にあるような心地で、クリスはぼんやりと呟いた。ジーンはクリスを見下ろし、そうよ、と、まるでクリスの実の母であるかのように穏やかに頷いた。
「これから弓使いさんとお話をしてね。まだ時間はあるわ。いろんなことを考えて、解決して、二人でその命を守っていきましょう」
「……ジーンさん。私は……私は少し、こわくて」
「私に誓って」
遮り、顔を近づけて、ジーンは真剣な瞳でクリスの両目を見つめた。
「絶対に、その子の母になると。そして幸せにするのだと」
途端に、クリスはくしゃりと顔を歪ませた。ジーンの名を半ば叫ぶようにして呼び、彼女の肩に顔を押しつけた。すぐにジーンの手のひらがクリスの頭を撫でてくれる。
愛おしさと恐怖が入り交じる気持ちは今までに味わったことがなく、その未知の感情の味にクリスは怯えていたのかもしれない。しかし、そのとき自分の中にとても重要な、もしかしたらゼクセンの騎士団長として君臨することよりももっと崇高な使命が生まれた気がして、その重みと尊さに胸がいっぱいになってどうしようもなかった。
自分の中に、自分であり自分ではない別の命がある。
彼と結ばれることでしか生まれることのない、無垢で美しい命が。
「大丈夫。弓使いさんはとても誠実な方よ。あなたとあなたとの子どもを必ず守ってくれる。だから信じて」
わあわあと声を上げて泣きながら、クリスはジーンの言葉に何度も頷いた。
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