ロランは停止した。
それは文字通り、彼の時が止まったのだった。
あまりの衝撃だったのだ。だから衝撃を衝撃と感じないほどに、ロランは全身の全て、筋肉の動きや呼吸、瞬きを止めて佇んだ。しかし脳はかろうじてわずかばかりの理性を保っていたようで、本来あった衝撃に正常に反応し、目の前に広がる光景を目眩によってぐにゃりと湾曲させた。
しばらく経ってから弓使いを襲い始めたのは、頭の中に鳴り響く警鐘と、胸の動悸だった。
「――」
妊娠。
愛する人が、自分の子を妊娠している。
だが“かもしれない”のだ、“かもしれない”と、軍師は言っていた。彼女に最も近しい保護者がそう言うのだから、それがあくまで可能性の段階の話であるということは確かなのだ。
まだ決まっていない――そのことに、ロランは、安堵した。そして、あの疾風の男がここにいなくて良かったなどと余計なことまで考えていた。
それがいけなかった。
「……ま、だ……」
口の中はカラカラに渇いていた。
徐々に戻ってきた正常な思考を懸命に奮い立たせ、ロランは、しかしそれでもぼんやりとした視界のまま、かすれた声で言った。
「まだ、決まったわけでは……」
それは、ロランの人生の中で、史上最悪の言葉だった。
「……クリス!」
対立しているサロメとロランだけだった空間に、別の声が差し込んできてハッと身を震わせた。その声の主は、今確かに自分の愛しい人の名を呼んだ。しかしなぜそんな必死そうに呼ぶのだろう?
まるでサヴァンストの声が気付け薬になったように、ロランはようやくまともな頭の働きと視界を取り戻した。自分はいつの間にクリスの方に目線を移していたらしい――そして、そこに見たものは、机に突っ伏して肩を震わせる愛しい女性の姿だった。心から愛し、何よりも誰よりも大事にしたいはずの人が、泣いている。
「クリス、よしよし、うん、そうだね、そうだよね」
ソファからすっ飛んでいったサヴァンストはクリスの背後に回ると、ほとんど抱きしめるようにして彼女の頭を撫で、泣いている親友を慰めようと躍起になった。
ロランは一瞬、なぜクリスが泣くのか、どうしてサヴァンストが彼女を慰めているのか分からなかったが、自分が口にした言葉をふと思い出すと、己の犯した重大な罪を自覚し、全身から一瞬にして血の気が引いた。あまりに急激だったために昏倒するかと思うほどだった。
クリス様――もはや喉が渇いて声が出ず、口だけを動かし、ふらつく足でクリスの方へ寄ろうすると、彼女の軍師が自分の進行を阻んだ。
「ロラン卿」
低音の声は、怒りというよりは深い憎悪を含んでいた。子どもを泣かせてしまう悪魔のようないかつい男の顔立ちが、今はまるで彼女を守護する獅子のように見える。
「出ましょう」
サロメはロランの腕を掴み、部屋の出入り口へとロランを引っ張ろうとした。しかしロランは、しゃくり上げて激しく泣き始めたクリスの元へ行きたくて、抵抗のために足を踏ん張らせる。手を伸ばし、微かな声で恋人の名を呼びながら。
このままではいけない、このままでは二人の関係が崩壊してしまう――
そのとき、クリスの頭を愛撫していたサヴァンストが顔を上げた。親友を傷つけた男を心底恨んでいる眼差しを向けて。
「今は控えてください、ロラン卿」
青年の凛とした声が響く。背後にもう一人の保護者の声を聞いたサロメが、それを合図にしてロランの腕を強い力で引っ張った。
もはやロランに抵抗する権利などなかった。
引きずられるようにして部屋の出口まで行くと、サロメによって勢いよく開けられたドアの向こうに放り投げられた。すぐにサロメも廊下に出てきて、部屋のドアを、彼にしては少し乱暴に後ろ手で閉める。
幸い、彼女の部屋の前の廊下には自分たちのほか誰もいなかった。ロランはかろうじて二本の脚で佇み、彼女の部屋のドアを――ドアの向こう側を、呆然とした心地で眺めた。己の人生の中でこれほどまでに混乱したことがあっただろうか、頭がぐらぐらして、激しい動悸と震えに襲われ、世界が闇に覆われていくような恐ろしい感覚を味わうことなど。
クリス様。唇を動かすと、それを見ていたのか、側に立っていたサロメが口を開いた。
「ロラン卿。さすがに感心いたしませんぞ」
ぴしゃりと言われ、ロランはのろのろと軍師に視線を移した。彼は、負の感情に満ちた面持ちでロランを見上げていた。
「人生最大の過ちを犯しましたな」
言葉の意味するところは分かるのだが、果たしてそれが自分にどう反響してくるかまでは今のロランには予測できなかった。ただひたすらに訳が分からなかった。
ロランの心ここにあらずといった目つきに呆れたのか、嫌悪を覚えたようにサロメは顔を背け、あからさまな息をつく。
「避妊はなさっていましたか?」
生々しい単語に、ロランはようやく自分が具体的に何を証明し、考えなければならないかに気付いた。
彼女とは月に数回床を共にしていたが。
「……しています。していました」
それだけはきちんと守っていたはずなのだ、もし彼女が妊娠するようなことがあれば、それは二人にとって重大なことになるのだから。それを防ぐために細心の注意を払っていたつもりだった。
サロメはロランの回答に少しのあいだ黙っていたが、そのうち力無くかぶりを振り始め、
「いや、あなたばかりを責められませんな。もとより避妊など百パーセントではないのだ。私も、クリス様にもっと注意を払うべきでした」
暗い声で呟く。“可能性”という言葉を聞いたロランは、先ほどの“かもしれない”を思い出し、咄嗟にサロメに問うた。
「あの、どうしてクリス様は」
彼女とは最近まで普通に話していたし、そんな素振りなど見せることはなかった。普段通り、朗らかに、無邪気に、楽しそうに、自分の前で雑談をして楽しそうに笑っていた。妊娠を匂わせることなど一切なかった。
サロメは唸るように答える。
「最近、気付かれたのですよ、月経が来ていないと。それにここのところ眠くて仕方がない、身体が怠いと頻繁におっしゃっていました」
「そんな。私の前では全く……」
「あなたに気を遣っているからでしょう。本人も気付いていなかったようだ。昨日、怯えた様子の彼女から月のものがないと聞かされて、私もハッとしたんです」
軍師は苛々している様子だった。腕を組み、片足をぱたぱたと上下させ、弓使い――大事な女性の恋人――と目を合わせようともせず、誰もいない通路の奥を眺めている。
だんだんとロランの心に落ち込みが現れ始め、ドアの向こうもサロメの横顔も見ていられなくなり、自分の足元を意味もなく視線をやった。未だ身体が覚束なく、もしこの足で歩き始めたら床がふかふかしている錯覚に陥ってしまうだろう。それほどまでに全てに現実味が無かった。
「まだ可能性の話ですからなんとも言えません。しかし事実だったら大事ですぞ。
本日、ビュッデヒュッケ城のジーン殿に来て頂くことになっています」
「ジーン殿……ですか」
「昨日、私が出向いて依頼をしました」
まるでお前が喋ることは許さないというふうに、サロメは威嚇的な調子で遮った。自ら口を開くことを、ロランは諦める。
「……」
「以前、彼女がビュッデヒュッケ城の難民たちの診察や出産に立ち会っていたことを思い出しましてね。彼女のような紋章術専科の人間は、体内の力の流れに敏感なんだそうです。ジーン殿は口が堅い。たとえクリス様のもとに赴いたことが広まったとしても、きっと真の紋章の話に違いないと周囲の者は予測するでしょう。
不幸にもブラス城やゼクセには秘密厳守の信頼を置ける者がいませんからな、仕方ありますまい」
これにはロランへの嫌味も含まれているのだろう。
いつになく容赦がない軍師に、さすがのロランもプライドが傷つき始めたが、今なにかを言ってはならなかった。
「……」
「ロラン卿。
もし仮定が真実になったときの事の重大さは、痛いほどお分かりになるでしょうね」
まくし立てる言葉にロランは眉間に皺を寄せ、堅く目を閉じた。全身にぶわりと冷や汗をかく。
「……ええ」
ただ単に、子どもができたのだとしたら、それはさして問題ではないのだ。それだけを取ってみれば、愛し合う二人にとってこれ以上に幸福なことはない。
――だが。
「あなた方は婚姻関係を結べません」
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