考えてみれば静かにしなければならない図書館で喋ってはいけなかった。
 机に突っ伏し、クリスはロランが用事を終えるのを大人しく待っている。
 城にある図書館は、最近増設されて以前よりも倍以上の蔵書となったらしい。耐震に問題ない程度にリフォームされ、空間も以前より広くなっている。本棚の他、勉強机などもいくつか増えて立派になったが、館内を見渡す限り、あまり来客はないようだ。せわしなく本を棚に戻したり差し直したりしていたアイクに理由を尋ねると、この図書館にはどちらかという学術的な内容の書物が多く、一般向けの本はこれから寄付などで揃えていくために今は人がそれほど来ないということだった。幅広い年齢層が集まっているビュッデヒュッケなのに意外だと思ったが、これには最初の頃アーニーが中心になって本を集めていたせいもあるのかもしれない。
 ならば、この場所に、ロランは一体何の用があるというのだろう。学術書ではなく小説を読むのが好きだったのではなかったかと、本棚を見下ろしている(棚の背丈が彼の身長と大して変わらない)ロランを少し離れた場所からぼんやり眺めていた。彼は、いつもと変わらぬ表情で背表紙を追い、たまに本を取り出してはめくり、仕舞いを繰り返している。
 本を読む気などさらさらないクリスは、何も載っていない木製の机の表面を無意味に手のひらで撫でたり、頭を組んだ両腕の上に載せてみたり、図書館の中をうろついている顔も知らない客たちを観察したりしていたが、しだいに瞼が重くなってきて、うとうとし始めた。この重苦しい静けさには耐え難いものがある。
 別に本が嫌だから眠るわけじゃないからな――誰にともなく心の中で断りを入れ、クリスは視界を闇に閉ざした。
 眠ったのは一瞬だったのではないかと思う。次に目覚めた時も、ロランは先ほどと同じ本棚の前に佇んでいた。だが、クリスの視線の先に、ロランだけではなく別の人影があり、興味を引かれて頭は机に伏せたまま瞼を開けきる。
 ロランと一緒にいたのは、クリスは久々に目にしたのではないかと思われるネイだった。ロランが開いている本を覗き込み、微笑みながら何やら小声で話している。すらりとした背丈となめらかな肌、穏やかで優しげな目元は以前とまるで変わっておらず、遠目から見てもつくづく美女だと感じられた。
 背の高いエルフが並ぶと違和感がないなと、クリスは二人のたたずまいを眺めやって思う。エルフ特有のしなやかな身体つきはまるで作られたもののように均整がとれている。そして色白の肌は雪のようにまぶしい。ロランは大抵きっちりした格好で指の先まで覆っているため、肌を晒すことがあまりないのだが、ネイと同じくらい白い肌がその衣服の下に隠れていることをクリスは知っている。以前、肌の色についてロランに聞いたとき、あまり日光に当たりすぎると赤くただれてしまうことがあると言っていた。もともと木蔭の多い森の中で暮らしている民族なので、直射日光に当たることに慣れていないのだという。
 とんがり耳のエルフ二人は、仲が良さそうに話していた。傍目から見ればきっと恋人同士のように映るだろう。彼らが以前から親しげなことをクリスも噂や実際に目撃していることで知っているし、嫉妬を感じるというよりも単純に「お似合いだな」と感心する気持ちの方が強かった。美しいものは目の保養だ。
 しばらく見つめていると、ネイがクリスの視線に気が付き、あ、という顔をするとにこやかに手を振ってきた。それにつられてロランも振り返る。
 お久しぶりですという意味を込めてクリスも微笑み、手を振り返す。ネイはロランと短く話したのち、では、と口だけでクリスに合図して小さく頭を下げ、図書館から出て行った。
 どうして行ってしまうのだろう、もっと話していればいいのにとクリスが不思議がっていると、ロランが近づいてきた。

「クリス様、お目覚めですか」
「ん? けっこう眠っていたか」
「ええ、一時間くらい」

 つまりロランはたまたま眠る前と同じ場所にいただけだったらしい。
 別に本が退屈だから寝たとかそういうわけではないからなと念のため告げておくと、ロランは目をしばたたかせ、なんの話だというように首をかしげた。彼はクリスが本を苦手とすることを知らないようだ。

「いや、いい……ロランは、まだここにいるか」
「そろそろ出ようと思います。ある程度の調べものは済みましたので」

 クリスは立ち上がって伸びをした。調べ物が何なのか気になりつつも、実際あまり興味がないので追求はしなかった。どうせロランのことだ、難解なことを調査していたに決まっている。
 アイクたちに礼を言い、図書館を出ると、クリスは少し前を歩いているロランの背中に話しかけた。

「ネイさん、ここに来ているんだな」

 ええ、という振り向かないロランの返事がある。

「他の大道芸人たちとしばらくビュッデヒュッケに滞在するようです」
「そうか。相変わらず綺麗な人だよな」
「そうですね」

 素直な肯定。
 ロランのことだ、何気なく放たれた返事だろうが、少し不安になってしまう。先刻の美しきエルフたちの相貌が脳裏に蘇った。
 思わず走って彼の隣に並ぶと、ロランは驚いたらしく急に歩く速さをゆるめた。なのでクリスもロランに合わせようとしていた歩みにブレーキをかける。彼は脚が長すぎて、比較的女性の中では長身のクリスでも上手く一緒に歩けないのだ。
 上手く、一緒に歩けないのだ。
 急激に、クリスの心が陰った。
 もしかしたら心の内が表情に出ているかもしれないと思い、クリスは顔を伏せた。

「とても背が高いが、ロランと並んでいると違和感がないな」

 決して妬いてなどいないと遠回しに伝えたくて、クリスは先ほどと変わらない口調で言う。

「エルフの姿は本当に美しい」

 平然とした言葉を放ちながら、内心、ロランはネイに会いにここに来たのかもしれないと疑っている自分が、本当に嫌だった。

「思わず見とれてしまったよ」
「ネイ殿はクリス様を気に懸けていました」

 遮るようにロランは言った。見上げると、彼は無表情で、クリスではなく前を見つめて歩き続けていた。普段となんら変わらない面持ちのはずなのだが、今のクリスには怒っているように感じられてしまう。自分が良くない思いを抱いているための錯覚とは分かっているものの、落ち込んでクリスは立ち止まった。ロランも合わせて歩みを止める。

「私を?」

 こんな醜い私を?
 やめてくれとクリスはかぶりを振り、溜息をつく。「何やら心配かけているのなら申し訳なかったな」と、卑屈なことまで呟いてしまった。
 ロランは頷き、やはり感情のない目でクリスを見下ろした。

「その、耳が……」

 耳。
 予想だにしない単語に、クリスは怪訝な表情を浮かべる。

「み、耳?」

 問い返すと、なぜかロランの顔が朱に染まり始めた。みるみるうちにその赤さが顔全体に広がり、耳の先はもはや痛そうなほどになる。
 一体どうしたんだと尋ねるが、ロランは返事をせずに踵を返し、足早に城の外へと出て行ってしまった。慌てて追いかけて「何事だ!」と後ろからシャツを引っ張ることで彼はようやく立ち止まる、というより、前へ歩めなくなる。
 訳が分からずクリスが困惑していると、彼はぼそりと呟いた。

「……戻りませんか」
「え?」

 ブラス城に?
 ロランは、なぜかぎこちなく頷いた。本当にブラス城で良かっただろうかとその一瞬、躊躇いを覚えている頷き方だ。
 もしかして別の場所に行きたいのではないかと感づいたクリスは、彼に問いつめ始めた。この厳格な弓使いは滅多に自分の欲を言わないため、嘘をついている可能性が高いのだ。
 ロランは頑なに黙り込んだり否定したりしていたものの、観念したのかクリスにパッと振り返り、少し腰を屈めてクリスの耳元で囁いた。

「今日は、休日なので時間があります」

 会話の流れ的に彼の行きたい場所を言われるのかと思ったが、その後はなぜか続かない。クリスには意味不明で、それはそうだと眉をひそめて問い返す。

「だから、さっきからどこか行きたいところがあるのかって訊いているんだが」

 ロランは惑うようにかすかに唇を開き、閉じ、また開いてから、

「あなたを抱きたいと思ってもよいですか」

 低い、本当に小さな声で囁いた。
 クリスはしばらくのあいだ思考を停止させていたが、彼を誘導して出たものがあまりにストレートな回答であったことに気付くと、負けないくらい顔を真っ赤にして男を見つめ返した。すかさずロランは逃げるように大きなコンパスで歩き始めてしまう。
 ま、まって、と噛みつつ、覚束ない足取りで必死に追いつく。シャツの袖を引っ張り「ゼクセ」という単語を唇の動きで示すと、ロランは目をこぼれ落ちそうなほど丸くさせた。よいのですか、の意である。クリスはこくこくと必死に頷いた。
 ビュッデヒュッケにおいてもとにかく目立つ長身と銀髪で、二人のこの一連の行動はおそらく語り草になるだろうが、しかしそれよりもロランが自分から誘ってくれたことがとんでもなく嬉しく、もはやクリスは他のことがどうでもよくなっていた。
 もしかしたら互いが、たとえ二人の関係がばれても、周囲から咎められてもかまわないと思い始めているのかもしれなかった。
 真っ昼間から情事の約束をしている男女も男女だが。