セルフィーユ   花言葉は「誠実、正直、保護」





 ここのところクリスとサロメの仕事が忙しく、会う時間がめっきり減ってしまったとロランは心の底で残念がっていた。三人の恒例となっていた寝酒も、彼ら二人の出張が多いことで、ここ三週間以上キャンセルになってしまっている。
 彼らの多忙の理由は、単純に言えば周辺クランの揉め事にゼクセン連邦の代表として(つまり評議会の代理という意味で)仲介に行かねばならない機会が増えたからである。先の戦で大きな被害を被ったクラン同士が再建のために結束していたところまでは良かったのだが、長い間占領下にあり奴隷状態にされていたカーナークランの人間たちは根本的な人間不信に陥っており、物資不足も相まって、その援助と要求に関して他クランに無理を言っている状況が悪化したという。現時点では、首謀であったハルモニアが今更カーナーに関わることもできず、クラン同士でカーナーの重荷の押し付け合いを始められても困るので、結局、間に立つ者としてゼクセン連邦が立ち入っている状態になっているということらしい。
 ロランは基本的にブラス城駐留組だった。かつて差別的発言をしたということで周辺クランからの印象が著しく悪く、こういった交渉事には関わるなとクリスとサロメから重々注意されており、待機がてら二人が処理しきれない雑用を他の騎士たちと共にこなしている。
 彼ら二人は仕事に出ているわけで、ロラン自身も元々他人に対して干渉したがらない性分ではあるものの、こう会えない時間が長いとなかなか寂しいものだと感じてしまう。そう考えている自分がいること自体ロランには不思議だったが、正直言ってしまえば、愛する女と彼女と親しい男が二人きりで仕事をしていることに嫉妬を覚えているというのもクリスを欲求する一つの要因になっているのだ。むろん騎士団長には世話係としてルイスがくっついて回っているため、厳密に言えば二人と一人なのだが。
 午後、不在のサロメの書斎の机を借り、一通りの仕事を終えて、ソファに腰掛けて紅茶を飲みつつぼんやりしていたとき、急にドアが開いてロランは顔を上げた。ドアノブに手をかけたまま入り口に立っていたのはレオだった。
 いかつい彼の顔色がどこか悪いことに気付き、ノックも無しに入ってきたこともあり緊急事態かと思ってロランは紅茶を持ったまま立ち上がった。

「レオ殿。いかがなされた」
「……ロラン。クリス様とサロメ殿が戻られている」

 レオの暗い声に、まさか二人の身に何かがあったのではと、顔にこそ出ないもののロランは動揺した。足早にテーブルまで行って飲みかけのティーカップを置き、レオに近づく。

「今? ご帰還はあさっての予定だったと思うが」
「ああ……その、実は、二人とも昼前には帰っていたんだ」

 言いづらそうに目を泳がせ、

「クリス様の体調が悪いらしくてな」
「クリス様の?」
「今はお部屋でお休みになっている、が……くそ、説明が難しい」

 乱暴に頭をかき、レオは嘆息するときびすを返して騎士団長の自室まで一緒に来いと促した。
 いつも朗らかなレオがこのような態度を取るのは珍しい。胸部で激しく鼓動する心臓を感じながら、ロランは全身から血の気の引く思いで彼女の部屋へと向かった。





 クリスは自室のベッドで横になっていた。近くにはサロメとルイスが座っていて看病をしている。訪れたレオとロランが近づくと、二人は、あ、という顔でロランを見て、すぐに苦々しげな面持ちになった。
 一体何が起きたのか分からず、そもそもどうしてすでに城に帰還していることを自分に伝えてくれなかったのだと、混乱や怒りを抑えながらロランは斜め前に佇んでいるレオに訊いた。

「クリス様のご容態は」

 あくまで冷静に尋ねているつもりだが、レオには狼狽が分かったらしい、振り向き、やはりあまり冴えない表情で、実はな、と説明し始めた。

「落馬されたようだ」
「落馬?」

 眉をひそめて聞き返す。騎乗して戦うクリスがまさか馬術で誤るようなことがあるとは思えない。それでも万が一がある。焦りを抱きつつ問う。

「お怪我を?」
「いや、怪我はしていないんだが」
「それが問題でした」

 不意にサロメが口を挟んだ。視線をやると、彼は眠るクリスの顔を見つめたまま悲しげな表情を浮かべていた。
 どういうことだと、ロランが沈黙で訊く。サロメは考え込むように唇を閉じていたが、そのうち口を開いた。

「カラヤに向かう途中、おそらく動物が掘り起こしたのであろう柔らかい土に脚の馬が取られました。その反動でクリス様は投げ出されてしまったのです。かなり飛ばされてから地面に叩き付けられたため、これはただでは済まないと思い駆け寄ってみると、彼女は後頭部を打ち気を失っていて、鎧を付けていたものの脚があらぬ方向に折れ曲がっていた……」

 状況を想像していたロランは耳を塞ぎたくなった。口調はあくまで冷静だが、クリスを何よりも大切に思うこの男も、骨折した彼女の姿を見て全身を粟立たせたに違いない。
 サロメが一度言葉を切ったため、今度はルイスが続けた。

「頭を打っているとしたら、下手に動かしてはいけません。とにかく状況を把握しようとすると、クリス様の……」

 そこで、少し苦しげに言葉を詰まらせる。早く続きを教えてくれという弓使いの視線に気付き、クリスが目覚めていないかを確認するためにベッドを一瞥してから、溜息混じりに言った。

「……クリス様の右手が光り出しました。あっという間に身体が光に包まれて、次に視界が戻った時には……」

 何事もなかったかのように身体には一つの傷もなく、クリスは意識を取り戻していたという。
 クリスの身体に外傷がないということにロランは心底ホッとしたが、無傷だということが問題なのだというサロメの言葉を思い出し、ああ、と絶望的な気持ちが心の中に芽生えるのを感じる。
 ――彼女は。

「傷こそないものの、その後、クリス様はひどく落ち込まれました。確かに自分は、地面に叩き付けられた時に身体の骨が砕ける音を聞いたのに、と……」

 こんな簡単なことでは死ねない身体になってしまったのだ。癒しの力を持つ真の水の紋章がクリスを生かしたいと願い、その意志によって生き続けている限りは。
 命が紋章によって左右されている。
 サロメはクリスに手を伸ばし、力なく横たわっている彼女の手の甲をゆるゆると撫でた。

「今回は、心の問題です。私の考えが浅はかだったのかもしれません。もっとクリス様に気を配るべきでした。彼女が望んで受け継いだものではありますが、そこに背負うものは大きいはずです」

 クリスは、騎士団率いる頂点としてもともと気丈な性格ではあるが、心の傷に対して頑丈な女性だというわけではない。そのことはロランよりも長年側にいるサロメの方がよく知っているだろう。任務中である彼女をブラス城まで連れて帰ったのは、今の状況が良くないと分かっているからだ。
 ロランもまた、クリスの心の傷を思い、深く胸を痛めた。生かされているという事実は、騎士として命を懸ける彼女にとってはひどい屈辱であるはずだ。
 落ち込み、うつむいていると、隣に来たレオがぽんと腕を叩いた。

「すまん。もっと早く伝えたかったんだが、お前に心配かけたくないとクリス様がおっしゃってな。湯殿を済ませた後、少し眠ってからロランに会うと言っていたんだが、床に就かれてからなかなかお目覚めにならなくて」
「……きっと傷が深いのでしょう」

 だから、今は眠りに逃げている。人間というものは良くできていて、心を守るための防衛手段が自動的に働くようになっているのだ。
 レオは緩く頷き、仕事に戻ると言ってロランの横を通り過ぎて部屋を出て行った。サロメとルイス、ロランの三人は無言でその場でじっとしていたが、そのうちサロメも用事があると言って立ち上がった。

「ロラン卿、もし仕事がある程度済んでいるのならば、ここをあなたにお任せしたいのですが」
「承知しました」

 自分でも奇妙に思うほど、ロランは冷静に、機械的に承諾した。サロメは無表情でロランの両目を見つめ、ルイスにも一緒に来るよう促すと、二人で部屋を去って行った。