ドアの閉じられる音が背後で聞こえる。廊下の足音が消えた頃、ロランはようやく前へと歩んだ。ベッドの近くに行き、クリスの姿が見えるように、サロメが先ほど座っていた椅子に腰掛ける。
 堅く目を閉じている彼女の顔は青白かった。

「……クリス様」

 呼びかけても、応答はない。そのとき初めてロランの中に激しい後悔と悲しみが生まれ、片手で額を押さえ、うなだれた。
 自分には分からなかった、彼女に何を言ってやればよいのか。
 無傷で済んだことを嬉しいと思ったことは確かだ。ゼクセン騎士団の象徴でもあるクリスの美しい容姿が傷つけられることは許し難い。脚が折れ、頭を打って脳を損傷していたかもしれないことが白紙に戻ったのなら、これ以上喜ばしいことはない。
 だが、それはもはや人間とは言えないだろう。人は落馬すれば怪我をする。地面に叩き付けられれば骨を折る。本当ならば今クリスは死んでいるか大怪我をしているかでなければならない。だが彼女は何一つ外傷なくシーツの上に横たわり、眠っている。
 目覚めれば、彼女は再びその心の傷に苦しむのだ。

「それは、おぞましいこと、です、と……」

 言えばいいのだろうか。
 唇の上で声にする練習をしてみて、そんなことは絶対に彼女に伝えられないとロランは奥歯を噛んだ。
 おぞましいと、彼女は思ったのだ、自分自身に対して。骨も折れて頭も打った自分が、右手に宿る力によって勝手に治癒されて、落馬すら無かったことになったのだから。己の意志とは反するところで時間を巻き戻されてしまった。それは命への侮辱だ。
 怪我という痛みを感じずに済んだのはいいだろう、しかし本当にそれで良いのだろうか。そんなことを続けていて――紋章の力によって強制的に続けられていて――いずれ向けられるのは周囲の奇異の目と羨望と嫉視だ。
 この苦悩する女性に何を言ってやればいい。
 お怪我がないのならば何よりです、紋章の力など受け入れてしまえばよい。
 それはあまりに非人間的です、真の紋章は封印されるか外されなければならぬ。
 ――言えない。
 くっとロランは呻いた。
 言えない、どちらも言ってやることはできない。紋章の力にひれ伏すクリスなど見たくはない。クリスが辱めを受け苛まれることなど自分にはとても耐えられない。だからと言って、真の紋章を失って彼女が死んでしまうことも考えられない。自己中心的だとは分かっているが、クリスが苦しむこととクリスを失うことだけは、ロランの人生の中で許されるべきことではなかった。
 どうすればいい。
 激しい葛藤がロランにのしかかる。

「ロラン」

 突然名を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。
 顔を上げると、自分を見つめる紫色の二つの瞳が視界に入った。
 横になったままの彼女は無表情だった。血色は相変わらず悪く、気怠げで、彼女は薄く空いた唇から再び男の名を繰り返す。
 ロランはおそるおそる手を伸ばした。クリスがゆっくりと自分の片手を上げて、指に指を絡ませてくる。
 微かな体温が伝わってきて、彼女が生きていると実感した。

「……心配かけたか」

 掠れた呟きに、ロランは正直に小さく頷いた。

「……ええ」
「すまないな」

 口元を引き締め、薄く笑む。それは本当に弱々しく悲しげな微笑みだった。
 自分などに気をかけてくれることがたまらなくなって、彼女の華奢な白い手をぎゅうと握りしめる。クリス様、と息を吐くように囁き、力無く面を伏せた。

「……申し訳ありません」
「なぜ、ロランが謝る?」
「……」
「私は無事だ」

 その言葉は、他人への気遣いでしかない。
 ロランは反射的に前に屈むと、目を閉じて彼女の指先に何度か口付けた。いつもは自分より温かい彼女の手が冷えている。

「ロラン?」

 どうしたと訊かれ、ロランは両手で彼女の手を包むと、そこに額を押しつけた。

「クリス様……申し訳ありません」
「……だから、どうして謝る」
「愛しているのです」

 苦く吐き出された言葉に、クリスは口を噤んだようだった。
 ぎゅっと目をつむったまま、ロランは続ける。

「だから、私には、あなたが無事で良かったとしか言えません……」

 なんと愚かなことを口にしているのだと、ロランは強い自己嫌悪に苛まれる。しかし、もはや自分の気持ちを正直に言うしかほか無かった。彼女の治癒の力が憎いなどと、真の紋章は憎悪の対象であるなどと、ロランには今や言えるはずがなかった。
 愛しているからだ。
 彼女を失いたくないからだ。

「申し訳ありません」
「……ロラン」

 クリスの動く気配がある。額と手は放したが、とてもではないが彼女を見ることができず堅く目を閉じたままでいると、両肩に彼女の腕が回ってきて、自分の頬骨に顔が寄せられたのを感じた。
 ロランもまた彼女に、控えめではあるが腕を回し、その背中をそっと撫でた。本当にこの身体が日々鎧を背負っているのかと疑うほど彼女は細く、華奢で、儚げだった。

「ロラン。ありがとう」

 耳元で響いた彼女の声に、ロランは目を見開く。

「ありがとう」

 その静かな言葉は、あまりにも柔らかで。

「私を愛してくれてありがとう」
「……クリス様」

 ああ、今だけは、自分の顔を見られてはいけない。

「申し訳、ありません……」

 その優しさがひどく苦しく、性に似合わず泣き出してしまいそうだった。
 クリスはかすかに笑うと、あやすようにロランの髪を撫でた。その優しい仕草にも胸が締めつけられ、たまらず目を閉じる。

「ロラン。謝らないで欲しい。お前は私を人間にしてくれるのだから。お前だけが、私を人間にできるのだから……」

 だから。
 愛して欲しい、私のことを、深く、深く。
 言葉で愛し、身体で愛し、騎士団長としての、真の紋章の継承者としての自分を忘れ去ることのできるその瞬間を与えて欲しい。
 お前にとってどんなに私が不可侵な存在であっても、私はただただお前に汚されたいのだ。
 そうでなければ、私は人間になれないのだから。

「……ああ……」

 彼女の切なる願いに、ロランは細く呻いた。
 クリスの身体を強く抱きしめ、彼女の後頭部から長髪にかけてゆっくりと指を通す。彼女は悟ったように顔を上げて、口元をロランの唇まで持っていくと、己の唇と触れ合わせた。両頬を手で包んでくる。
 男と女は深い深い口付けをする。
 愛おしく、遠く、狂おしいほど哀しい、温かで冷たい口付けをする。





「ロラン、今日の仕事は大丈夫か」

 シーツに仰向けに寝ているクリスが、不意に尋ねた。彼女の横たわるベッドのそばで控えていたロランはこくりと頷いた。

「ええ。看病を頼まれたのもそのためです」
「気を遣われたんだろ、ルイスもいないし。あれからもう数時間経っているのに誰も来やしない。サロメが人払いさせたみたいだな」

 あの軍師ならば心強くて助かるが、一体どういうふうに周囲を遠ざけているのか知りたいようで知りたくないと、クリスは苦笑した。サイドボードの上で薬湯を用意しているロランも相づちを打つ。

「あの方には頭が上がりませんな」
「サロメはな……昔から私を甘えさせてはくれるんだが、なんかこう、あまりに慣れ合いすぎて親子みたいな関係になっているというか、家族に近い感覚だから、こういうふうに気を遣われるとすごく照れくさいな」

 となると、あの男は自分の舅にあたる人物になるのだろうかとロランは考える。音声化すると非常に恐ろしいことになりそうなので、一生口には出さないようにしようと心に決めた。
 小さなコップに注いだ薬湯を差し出すと、クリスは身を起こした。彼女はロランが訪れる前に湯殿を済ませており、袖のあるシンプルな黒のワンピースを身に纏っていた。寝酒の際に見かける彼女の寝間着の一つで、実は密かなロランのお気に入りだった。彼女の銀髪がよく映えるのが黒色の服なのだ。
 コップを受け取って口に含む仕草も可愛らしい。熱いのを気にして近づける様子が少女のように見える。

「ん。少し苦いな」
「無理して飲む必要はありません。単に身体を温めるためのものですので」
「今は何時だ?」
「今は……もう外は暗いので、おそらく夕食時かと。運ばせましょうか」

 いい、とクリスは飲み終えたコップを手渡しながらかぶりを振った。頭を振ると銀の髪が美しく揺れる様もロランは好きだった。

「もう少し一緒にいたい。ロランは食べに行くか?」

 首をかしげて、瞳は「もう行ってしまうの?」とねだっている。ロランは彼女から目を離し、サイドボードの上を片づけつつ答えた。

「仕事もございませんゆえ、もう少しここにおります」
「そうか。まったく、ロランは優秀な男だな」

 いたずらっぽい口調で放たれたそれは、仕事を早く終えることに対する弓使いへの褒め言葉なのか、それともクリスの気持ちをくみ取った男に対する満足感なのか。
 どちらでもかまわないと思う自分は相当のろけているなと、ロランは朗らかに笑うクリスを見て薄く苦笑した。