シクラメン   花言葉は「遠慮がち、疑い、はにかみ、嫉妬」





「やっと見つけたぞ!」

 自分の方に放たれている声がして、ロランはふっと睫毛を上げた。ああ、来たのか……とぼんやり思いながらも反応しないでいると、声の主は憤慨したらしく、わあわあとわめき始めた。

「どれだけ探したと思っているんだ! おい降りてこい! さもなくば私が登る!!」

 威勢のいいことだ。下の方で何やらごそごそやっている音が聞こえるが、振り向きもせずに再び柔らかな日差しに目を閉じた。
 今、ロランがいる場所は木の上である。太い枝に寝そべって、腹の上で手を組み、猫のように涼んでいる。ビュッデヒュッケ城の裏手の、ほとんど人が知らない土手の上にある一本の広葉樹なのだが、これがまたなかなかいい大きさと高さで、自分ほどの長身を生かせば登ることが可能だった。言い換えれば誰も自分の真似ができないので、基本的に一人で過ごすことが好きなロランのお気に入りの場所になっていた。木登りはエルフの血が騒ぐのだ。
 せっかくうとうとしていたのに起こされてしまったと溜息をつく。脱いだ鎧を木の根元に置いたのが目印になってしまったのかもしれない。下方からは、懸命に木に登ろうとしているクリスの呻き声がするが、助け船も出さずに木の葉を揺らす穏やかな風を感じていた。
 今日はいい天気だ。仕事のためビュッデヒュッケ城にサロメとクリスの自分の三人が来ており、予想していた以上にやることが早く終わってしまい、一日分の出張伝票を提出しているのだから夕方まで自由時間にしようという流れになった。現在昼過ぎである。仕事好きなサロメは図書室で資料を漁り、自分は暇なので昼寝でもしようとここに赴き、クリスは女性陣と風呂に入るという話だったためてっきりそうしているのかと思ったが、どうやらロランを探してここまで来てしまったらしい。可愛らしいことだが、今は眠いので一人にさせて欲しかった。
 ここは騎士団長にさえ教えるつもりはなかったのに……とすねていると、枝葉に震動が走った。クリスが幹を蹴ったようだ。

「ロラン! 貴様、私の言うことを聞け!」

 相当お怒りのご様子ではあるが、自分はあいにく昼寝中なのだと無視する方針を立てる。その後、何度か枝がゆさゆさと揺れたものの、彼女の足蹴よりも木の方がよほど頑丈なため、大した問題はなかった。

「エルフよ、聞いているのか! 反応しろ! このっ」

 ひゅんと音がする。石を投げたらしい。直接当てる気はないようで、近くの葉っぱを散らして再び地面に転がった。
 やれやれ我が騎士団長は乱暴なお方だ……と思いつつ眠りの世界へ舞い戻ろうとすると、なぜかクリスの口から繰り出される文句の間に不自然な間があった。
 気になってしまい、ロランはしぶしぶ目を開ける。

「……どうされました」

 枝の合間の木漏れ日を眺めたまま、尋ねる。すぐに「なんだ起きてたのか」という声が聞こえたが、先ほどまでの彼女の勢いは無くなっていた。
 一体どうしたのだろう。ネガティヴに考えれば、これもまたクリスの演技かもしれないが――あえて木から降りずそのままの姿勢で続きを待つ。
 すると、少し経ってから呟きが聞こえた。

「いつか、とか、誰か、とかは言えないんだが、その……」

 言いづらそうにまごついてから、

「色々……訊かれた」

 落ち込んでいる様子で、彼女は告白した。ロランは枝葉を見つめたまま眉をひそめる。クリスの声のトーンから、少し嫌な予感がした。

「何をですか」
「色々だ」

 遮るようにクリスは言う。
 今の彼女を放っておくのはよくないだろうとロランは身を起こし、枝に座って下を見た。木の根本に座り込んでいるクリスのつむじがある。彼女は両手を絡ませ、それを口元に当て、考え込む仕草をしていた。どうやら自分の気を惹くための狂言ではなく、本当に彼女の身に何かがあったらしい。

「……たとえばどんなことを訊かれましたか」

 もし、それが騎士団長の威光を傷つけ、クリスの繊細な心を脅かすことであるのならば、ロランも黙っているわけにはいかない。返答によってはその相手に制裁を加えることになるだろう。
 神経を尖らせて彼女の返答を辛抱強く待つ。クリスは何かを思い出しているのか、しばらくのあいだ黙り込んでいたが、じきに顔を上げて木の上にいるロランを見上げた。
 その表情は、無だった。

「なあ、私たち、は……」

 言いかけて、唇を閉じる。その両目に哀しげな色が混じるのをロランは見逃さなかった。
 真剣な話をしているときに自分が彼女よりも高い位置にいるべきではない。木の枝から跳び、すとんと地面に降りる。そのままクリスの前まで歩むと、その場に膝をついた。上目遣いのクリスを見つめ返し、先ほどの台詞の先を言ってくれと促す。

「私たちが、どうしました?」
「……私たちは……」

 クリスは、少し頬を赤く染め、

「あ……あいしあってる、ん、だよな?」

 本当に小さな声量で、たどたどしく問うた。
 どうやら騎士団関連ではなく、恋愛関連の話題で誰かに突っ込まれたらしい。それもそれで相当厄介なのだがと心の中で嘆息しつつ、ロランは彼女の両目を見て頷く。

「そうだと思います」
「思いますって……実際そうなんだよな?」
「おそらくは」
「おそらく?」
「クリス様が私に対してそう思ってくださっているのならば、確実に」

 じゃあ確実だ、とクリスは安心したように口元を笑ませる。その幼くも見える様子が可愛らしく、ロランはむずむずしてしまったが、確固たる理性できちんと衝動を収めておく。
 それよりも、クリスが何者かに言われたことが自分たちの関係を脅かすものなのではないかと危惧し、心配になって訊いた。

「私たちのことを言われたのですか?」
「あ……ううん。そういうわけじゃないんだ。多分、私たちのことではなくて、私のことで……」
「クリス様のことですか?」
「うん……」

 かろうじてぼそぼそと答えるものの、どこかはっきりしない態度にロランも困ってしまう。戦場においては迷いなく前線を突き進む鬼神のごとき乙女であるが、プライベートとなると知らないことが多すぎて子どものようにうろたえる。それがまた魅力ではあるものの、危なっかしく、ロランも気が気でなかった。サロメが過保護すぎるほど彼女に付きっきりでいる理由もロランには分からないではないのだ。
 クリスは、気の強い女性ではあるが、それが災いしてか自分の弱さや苦悩を表に出そうとしない。もちろん顔色が分かりやすい人間なので、彼女が何かに苦しんでいると周囲はすぐに気付いてしまう。しかし、彼女自身のプライドもあるし、無理矢理に聞きだそうとはせず見守っているだけの方が多かった。
 今や恋仲にある男に対しても、それは拭えないものなのだろうか。

「もし、よろしければ話してください」

 可能であれば聞き出したいが、どうしても「話せ」と命令することは出来なかった。自分は他人に深く関わり合う性格ではないという種族の誇りが未だにロランの中では健在のようで、それは、思い悩んでいる様子の騎士団長に気を遣うというよりも自尊心を守るために取ってしまう距離のように思われた。
 クリスはうーんと唸った後、うっすら苦笑して首を横に振った。

「ううん……気にするな。大したことではないし」

 言われ、ロランの中に苛立ちが生まれる。彼女の口から真実を聞きたい、誰に何を言われたのか知りたい、彼女が傷ついたのならその原因を明らかにさせ、事情によってはその原因に対し裁きを下したい。彼女を苦しめるものは何ものも許しがたい。
 だが、そう感じている己にふと気付くと、こんな人間ではなかったはずなのにと自己嫌悪に襲われる。最近、ロランは自分が変わりつつあることにジレンマを抱いていた。それは単にエルフらしさが抜けて人間臭くなったからということだけではない。
 男の頭に渦を巻く仄暗い苦悩など知らず、クリスは立ち上がると口角を上げてロランを見下ろした。

「そういえば、サロメがお前を探していた」
「私をですか?」

 問い返しつつ、ロランもよいしょと腰を上げる。一気に頭の位置が逆転し、クリスが追って上を向く仕草が可愛らしかった。

「別に大した用ではないみたいだったけど」
「参ります」
「ああ。私も、実はこれから風呂に入りに行くんだ」

 セシルとな、とクリスは得意げに笑んだ。彼女は何やらビュッデヒュッケ城の主とその周辺を気に入っているらしく、この城に干渉しようとする評議会に対しどちらかというと批判的な態度を取るのは、政治的な理由以外にも城の人間を認めているためらしかった。
 クリスの胸中を聞き出せなかったのは惜しまれるが、サロメの呼び出しとあっては冗談ではないはずなので(パーシヴァルやレオはからかい半分のどうでも良いことで呼び出すことがあるのだ)、クリスと別れて彼のいる図書館に向かった。