すでに軍師は図書室を出て行ってしまったというアイクの案内で、ロランは城内にあるサロンへと足を向けた。城にはいくつかの休憩用や座談用サロンがあり、サロメが自分を呼び出すということは仕事の話に違いないため、大きな場所ではないだろうと個室を探すと、そのうちの一室に軍師の姿があった。戸が開け放してあったので、覗いたときに彼の姿が見えたのだ。
 大きな窓が入り口の真正面にあるサロンは、小さな丸テーブル、三人掛けのソファが向かい合わせで二つ、その二つのソファの真ん中にローテーブルが一つ、化粧台が一つあるだけのシンプルな空間で、そのうちのソファにサロメは座っていた。手には、先ほど図書室で借りたらしい分厚い本がある。
 ロランが失礼しますと言って入ると、彼は驚いた様子で振り返った。

「ロラン殿?」

 どうしたのですかとあまりに意外そうな表情をするので、お前が呼び出したのではないのかとロランは入り口付近に佇んで首をかしげた。

「クリス様から、サロメ殿が私を探していたという話を聞いたのですが……」
「私が?」

 明らかに「そんな話はしたかな?」というふうに眉間を寄せている――ロランも他人のことは言えないが、怪訝そうにするだけでこんなにもおっかない顔つきになるのだからサロメはつくづく損をしている。
 弓使いの登場を予想していなかったらしい軍師に、ロランは困惑した。

「違いましたか?」
「いや、ああ、多分……」

 何やら考え込むような仕草をしてから、

「おそらく、私が、近頃ロラン卿の様子が少し変わった気がするというふうに漏らしたのを勘違いされているのかもしれません。あるいは気を遣われたか……」

 サロメは苦笑した。変わった?と聞き返しながらロランは部屋の中に入り、ソファの近くまで歩んだ。サロメに座れと促されたため、遠慮せずに彼の正面に腰掛ける。
 お茶はいるかと尋ねられて、頼むと、サロメは席を立って丸テーブルに置いてあったポットから茶を注ぎ、再び戻ってきてローテーブルにティーカップを置いた。

「どうぞ」
「恐れ入ります」
「別に大した話ではなかったのですが。クリス様は、しばしばあなたの話をするのですよ」

 それは本当に嬉しそうに話すのですと告げられ、照れというよりもロランは複雑な気持ちを抱く。他人に陰で自分の話をされるのは好きではない。何も返答せず、カップを取り上げて温かい紅茶に口をつける。
 サロメはソファに座り直し、脇に置いてあった再度本を取り上げて、パラパラとめくり始めた。

「あなたのおかげでクリス様がよく笑うようになりました。あなたのことがよほど好きなのでしょう」
「……そうですか」
「甘えたがっています。どうか彼女の願いを叶えてやってください、今まで散々自分の幼さや女性らしさを抑えてきた人だ」

 何かを自分に見せるために本を開いているのかと思ったが、話しながら本をいじるのはどうやらサロメの癖らしい。
 ロランはある程度茶を飲み、ティーカップをテーブルに置くと、目を伏せて本を見下ろしている男の姿をぼんやりと眺めた。子どもが泣き出しそうな、いかつい顔の割には性格が穏やかで、おそろしく頭の切れる軍師であり、団長クリスが騎士団の誰よりも厚い信頼を置き、常に側にいる男。サロメと共に行動しないクリスを見る方が希なほどだ。
 自分の愛する女性に尽きっきりな男の存在に嫉妬を覚えないと言えば嘘になるが、ロランにとってもサロメは騎士団に欠かせぬ軍師あり、つかず離れず上手に他人と距離を取れる彼の性格は好感の持てるものだった。クリスが常々サロメの側にいるのは仕方がないとも思う――特に欠点も見あたらないし、彼女の頼る先がサロメであるということに反対できる要素がない。

「私の様子が少し変わった、というのは」

 考えながらロランは、半ば無意識に近い感覚で口を開いた。目を上げ、サロメは「ああ」と相づちを打つと、本を膝の上で閉じて微笑んだ。

「私の主観ですが。いつも冷静沈着で起伏の無かったあなたが、ここのところ情緒豊かになられたのでは、と」
「そうでしょうか」

 もの柔らかに男に笑まれたロランの中には、喜びや驚きよりも警戒があった。
 サロメは分からない男だ。ゼクセン連邦として見れば今や決して欠かすことのできない勝利の軍師であるが、対等な人間としてみれば腹の内が読めない類い希な策略家である。騎士団員として敬意は示すし、互いにテンションが似ているため気が合わないわけでもない。しかし、この男はあまりに深みがありすぎ、ロランには少し恐ろしく感じられていた。

「情緒豊かになるというのは良いことなのでしょうか」

 真面目に問うと、サロメは一瞬目を丸くし、可笑しそうに小さく笑った。

「さあ。でも、少なくとも我が騎士団長には喜ばしいことなのではないでしょうか」
「そういうものですか?」
「ええ。
 ロラン卿、私はね」

 自分の前に置かれているティーカップを取り上げ、

「クリス様に悲しんで欲しくないのですよ」

 言い、サロメは中身を一口飲んだ。至極穏やかに放たれた言葉だが、ロランはその裏に棘があることを見逃さない。
 少しの沈黙の後、サロメはカップを持ったまま睫毛を伏せ、後を続けた。

「とにかく悲しんで欲しくないのです。何かがあの方を悲しませるのならば、私はそれを許しません」
「……」
「言い換えれば、私は彼女が悲しまなければ、それでいいんです」

 あえて“彼女”とクリスを呼んだことに、ロランは彼ら二人の親密さを実感し、目を細める。サロメはロランを一瞥すると、カップをソーサーに戻して腿の上で両手を組んだ。

「私には、彼女を喜ばせることはできませんから。それはあなたの役目なのです、ロラン殿」
「……私には疑問があります」

 調子の低い声で、ロランは言う。

「どうしてあなたではなく、私なのかと」

 それは、以前からのロランの疑問だった。
 クリスはなぜ、六騎士の中では少し離れた位置にいる自分を慕うようになったのだろうか。無口な自分だ、六騎士の中ではもっとも彼女と交わす言葉が少なかったはずであるし、仕事以外での関わり合いなど皆無に近かった。ロラン自身の敬愛の気持ちは彼女が騎士となりその威光を放ち始めた頃からのもので、それが愛情へと変化していくのは自然なことだと思われたのだが、その逆の、クリスがロランに恋慕らしきものを抱くためのきっかけが未だに見つからなかった。自分などより、出会った当初から信頼関係を築いてたサロメや年齢の近いボルスやパーシヴァルの方が、よほどそうなる可能性が高かったのではないかと思う。その方が、クリスにとっても楽なのではなかろうか、と。
 ロランの考えていることが分かるのか、サロメはくすくすと正面で笑っていた。腹が立ってロランが睨むと、「すみません」とサロメはあまり反省していない様子で謝った。

「あなたとクリス様は似ていますね」

 未だ笑いを漏らしつつ、そんなことを言ってくる。ロランは訝しんだ。

「私とクリス様が、ですか?」
「ええ。真面目で、真っ直ぐで、色んな些細な事に疑問を感じて深刻に考えている。そっくりですよ」

 クリスには悪いが馬鹿にされているらしい。ふんと息をつき、少し強い口調で返す。

「そうでしょうか」
「あなたはどうして、ロラン殿がしたこと、言ったことを、クリス様が嬉しそうに私に話すと思いますか?」

 問われ、そのような事に答える義務などないと黙っていると、サロメはそれすら悟ったようにしみじみと自分で答えた。

「あなたが好きだからですよ」

 ためらいなき言葉が放たれる。以前まで、サロメもクリスに恋慕を抱いており、すでに二人はただならぬ仲にあるのではないかと考えていたことがあったためか、彼が迷いなくそう断言したことは、ロランに少しの驚きをもたらした。
 だが、好きだからという曖昧な理由は、やはりいまいち腑に落ちないものだ。

「よく分かりません。それなら、サロメ殿の方がよっぽど」
「どうして理屈で考えようとするのです」

 遮り、サロメは苦笑した。

「ロラン殿、なんでも理路整然と考えようとするのはあなたの悪い癖です。クリス様はあなたにしてもらえたことはなんだって嬉しいのですよ。その理由は、単にあなたが好きだからです。それだけです」
「よく分かりません。クリス様の心が私に近づく意味が」
「だから、好きだからですよ。クリス様は、ロラン殿を好いておられるのです」

 呆れたらしく、溜息をつかれてしまった。それでもロランには合点がいかず、ティーカップを睨みつけて考え込んでいると、不意にサロメが立ち上がって窓際に行き、そこから外を眺めた。

「クリス様が誰かを愛すること。その特権を手に入れたのがあなたということです。
 だから、私はあなたに頼んでいるのですよ、ロラン卿」

 ロランは顔を上げて彼に視線をやった。丁度午後の陽の光が差し込んできて眩しく、目を細めると、逆光の中、サロメが鋭い瞳でこちらを見つめているのに気付く。それは、温厚なサロメの中に隠された、時にクリスを守護するために発揮される強い情熱と闘志の具現だ。

「彼女を悲しませることは許しません」

 それは、喜びや戒め、威嚇、信念などあらゆる意味を含んでいる重たい台詞だったが、口調はあくまで柔らかだった。
 この男はまるで俳優のようだなと思いつつ、ロランはサロメから視線を外し、無表情で目を伏せた。

「……それでも私には、自分が心乱されることを……」

 サロメに聞こえないくらいの声量で呟いたつもりだったが、彼の耳には届いたらしく、やれやれといった苦笑混じりの調子で返される。

「情緒豊かになりすぎることは恋愛の常ですぞ、ロラン卿」

 からかわれる。
 気力をそがれてしまったロランは突っぱねることを諦め、そのまま無言でティーカップを持ち上げて紅茶を口に含んだ。





 しばらくすると、風呂に入り終えたクリスがサロメたちのサロンにやってきた。彼女はロランの姿を見つけると、まだ火照った身体で嬉しそうに、まるで子どものように跳びはねながらロランにまとわりついた。軍師のいる場所で何をするのだとぎょっとしたが、サロメは微笑ましそうにクリスを、まるで恋人か、家族か、娘かと思っている女性を、本当に優しい瞳で見つめていた。業務を離れ、プライベートにかえった彼女の姿は幼く、可愛らしく、いじらしい。その姿を見られるのは、今はこの世でサロメとロランだけなのだろう。
 ふと、サロメに風呂のにぎやかな様子を話しているクリスの横顔を盗み見て、ロランは思う。
 寿命で考えれば、サロメはクリスや自分よりも先に逝くだろう。
 時の流れに負け、真の紋章を宿すクリスよりも先に、長寿なエルフである自分よりも先に。
 彼がいなくなったとき、クリスは果たしてどうなるのだろうか。己の半身のごとき男を失くした、そのときに。
 その彼女の姿を見たいと思う自分と、見たくないと思う自分がいる。
 それぞれの自分は、同じ自分なのだろうか、それとも異なる二人の自分なのだろうか。
 分からない。