ジプソフィラ   花言葉は「清い心、無邪気、切なる願い」





 夕暮れ時の広い草原に立ち、クリスは平野を駆けめぐる風を全身で感じていた。
 終業後、なんとなく遠乗りで来たアムル平原に人影は見あたらず、自分が乗ってきた白い馬が後ろで草をはんでいる以外、大きな生き物の気配はない。日中動き回る野生の動物たちも今頃はねぐらに戻って寝る準備をしているだろう。今度は闇夜に目を光らせる生物が住処から這いだしてくる番だ。
 ここのところ、サロメとクリスは評議会とブラス城をひっきりなしに往復していた。ビュッデヒュッケ城にいる難民の市民権をいかようにするかで、ちょっとした揉め事が起きているのだった。若き主が治めている城には、モットーである“差別なく万人を受け入れる”体制のために身元不明の人間が行き着くことが少なくない。現在の評議会の構成員は、以前の連中よりは仕事の仕方も考え方もましになったのだが、もともと自文化への誇りが高いゼクセン出身の人間たちに変わりはなく、辺境ではあるが連邦に属するビュッデヒュッケ城はその体制から異質なものに見えるらしい、難民の受け入れに制限をかけるべきだという話が持ち上がっていた。
 サロメは、自分の代理人である男に信頼のうえで城を預けているのだから、今までうまくやってきた城の在り方に過度に干渉するべきではないという意見なのだが、やはり説得力に欠けると自分自身でも思っているのか、評議会に対し強い態度で臨めないでいた。確かに、あまり寛容な受け入れ体勢のままだと物騒なことになりかねない――たとえば土地に入ってきた者がどこぞから逃走した犯罪者だという可能性も大いにありうるわけだ。だからといって難民に対し身分証明を求めることもなかなか困難である。
 外の権威から制限を設けるとなると今の城主が黙ってはいないだろうということで、早々にビュッデヒュッケに掛け合いたい評議会に待ての合図をするために、サロメとクリスが議会で壁となっている。あまりすっきりしない仕事なうえ、法や条例の小難しいやりとりが増えてしまい、クリスも議会に出ることにうんざりし始めていた。サロメも疲れているのか隣で溜息をつくことが多くなり、二人一緒にいても無言な時間を過ごすことが大半だった。普段から二人は顔を会わせすぎなのだ。
 本当ならば、今日の夕方もサロメと一緒に書斎で法典や判例集をめくっているべきなのだろうが、いいかげん自分といるのは飽きただろうと、ゼクセから帰ったらとりあえず残業はせずに自室で休めとサロメに言いつけた。呆れるほど執務に真面目な軍師は腑に落ちなさそうにしていたものの、クリスの言いたいことも分かるらしく素直に承諾はしていた。その後、命令に背いて彼が書斎にこもったのかどうかはクリスの知るところではない。
 草の上に座り、クリスは両手を後ろについて空を仰いだ。甲冑姿から着替えて軽装になっている。剣と護身用の短剣はしっかりと身につけたままだ。たとえ争い事が無くなったとしても、自分は騎士であるし、いつなんどき何が起こるかは分からないので武器は絶対に手放せない。そう思う人間が一人でもいるのなら世の中が平和になったとは言えないのかもしれないと小さく息をつく。
 夕暮れと迫りくる夜とが混ざり会う、橙と紺の不思議なグラデーションが天上を覆っている。晴れの日のこの時間帯の空は美しいが、どこか非現実的に感じてクリスはあまり好きではなかった。眺めているとなんだか物悲しくなってくるのだ。それでもこんなところに来てぼんやりしているのだから、自分は疲れていると思う。
 しばらく遠くの山を眺めていると、ふと馬の駆ける音がして背後を振り返った。遠くから、見知った茶色の馬とそれに乗った男がこちらに向かってくる。
 クリスは立ち上がった。茶色の馬は自分のすぐそばで足を止め、クリスの白い馬と顔を付き合わせて何やら挨拶じみたものをし始める。乗馬していた男は、長い脚をひらりとまたがせて地面に降りると、クリスの前まで歩んだ。

「こちらにおいででしたか」

 背の高い弓使いを見上げ、クリスは頷いた。彼もまたシャツとベスト、タイトなズボン、ロングブーツという軽装だった。

「どうしたロラン。急用か」
「いえ、お一人で出かけたという話をサロメ卿から伺いましたゆえ」

 少し心配になりましたと続けるロランに、ふふっと微笑する。顔だけ見れば本当にそう思っているのかと突っ込みたくなってしまうが、彼の無表情の中には無数の感情が詰まっているということをクリスはよく分かっている。その中に深い優しさがあるということも。
 再び遠くの山々を見渡せる方を向き、草の上に座る。ロランはクリスの斜め後ろに佇んだ。

「どうかされましたか」

 淡々と訊いてくる。これでも彼は心配しているのだ。

「ううん。ただちょっと仕事に飽きただけ」

 ああ、とロランは同情混じりに相づちを打った。サロメとクリスが評議会の人間と毎日のように言い合っていることを彼も知っている。というのは、サロメがそちらに集中しているぶん、こなし切れない仕事はすべてロランにお鉢が回っているのだ。気の毒なことだとは思うが、今回の議題は遅かれ早かれ避けては通れなかったものであるため、ロランの了承は必至のものとなっている。
 二人して黙っていると、ロランがのろのろとクリスの隣に腰を下ろした。

「あまり暗くならぬうちに戻られるよう。念のためランプは持って参りましたが」
「ん、長居はしないさ。ここは夜になると冷え込む。凶暴な魔物に出くわすのも面倒だ」
「……もしよろしければ」

 ふと、ロランは考え込むように口元に手を当てた。そのまま言葉が止まってしまったため、なんだろうと思いクリスは首をかしげる。
 ロランは少し経ってから言った。

「海に行きませんか」
「う……海?」

 いきなりの提案に、クリスは戸惑った。普段、ロランから何かに誘うことがなかったのもそうだが、もうすぐ真っ暗になってしまうのにどこかへ出かけようと言い出すのが彼らしくない。ロランはどちらかというと規律正しく生活の順序を守らねばならないと考えるタイプだろう。
 聞き返したクリスに、ロランは真面目な顔で頷いている。聞き間違いではなかったらしい。

「人の知らない小さな砂浜があるのです。ゼクセンの森を抜けて行くのですが」
「砂浜? ゼクセの港ではなくてか」
「ええ。森の北側から抜ける道を偶然見つけまして」

 以前、有休を取りゼクセで買い物をして戻る最中、馬を下りれば行けそうな場所があったのでなんとなく足を踏み入れたら、美しい海岸があったという。茂みの奥に隠れているので、注意深く探さないといけないとのことだ。

「まあ、地元の知っている人間は知っているのもしれませんが……」
「へえ、いいな。今の時間帯なら誰もいないかな」
「おそらくは」
「じゃあ行こう!」

 嬉々としてクリスは立ち上がった。早速馬の方に寄ると、後ろから慌てたロランの声が聞こえてくる。

「クリス様、私に先導させて頂けますか」

 ひょいと馬にまたがり、クリスは不思議に思ってロランを見た。ゼクセンの森までの道は知っているし、弓使いの性からか、彼は同行する時にはいつもクリスの後ろに馬を走らせるようにしている。
 ロランもまた自分の馬に乗り上げた。

「ブラス城周辺を通過すると城の者に見られる可能性があります。少し大回りをして、別のゼクセンの森の入り口から行きます」
「ああ……」

 つまり彼は我ら二人の体裁を気にしているのだ。内心げんなりしたが、誰かに目撃されたらされたで面倒なことには変わりないので、ロランの提案に素直に従った。クリスの合図を確認し、ロランが馬を走らせる。
 彼の馬は、単独で走ると速い。後援を任せている時は振り返ることがないので騎馬を見ることができないが、弓使いは両手を使わねばならないので馬上でのバランス感覚が重要視される。どんなに混戦していても落馬せず、上手く切り返しながら武器を持って走れるのは、乗馬が上手いというより、馬が騎手を厚く信用していることにも要因があるのだろう。
 勢いよく手綱を引く彼の背中を見ながら、クリスは、自分がいかにロランという人間像を見ていなかったかを思い知らされる。
 私は何も知らない。
 まだ、ロランのことを、皆のことをよく知らない。
 そして自分がいかに周囲に見守られているのかを気付くことがなかなかできないでいる。
 今回のようにロランが自分を迎えに来てくれたのは、もちろん恋仲にある相手を心配したというのもあるだろうが、それ以上に、ゼクセンのために騎士団長を何が何でも守らねばならないという使命感があるためだろう。
 誰かに守られていることを知らずにいるのは愚かなことだ。
 反省の気持ちがクリスの中に広がっていった。暗い気持ちでぼんやり考え事をしていると、馬の足が遅くなったのかロランがそれに合わせてスピードを落としてくれる。
 その些細な気遣いに、クリスは少し泣きたくなった。