ゼクセンの森を通過する頃にはもう真っ暗になっていて、ロランとクリスがそれぞれ持つ小さなランプでどうにか道を把握している状態だった。木々が多く茂る森の中では、ほとんど馬を走らせることができず、しかもロランが言う秘密の小道は幹と幹の間を縫っていかなければならないので、結局途中から馬を降りて徒歩で森を進んでいた。本当に砂浜などあるのか、そもそも夜の森で迷いはしないのかとクリスは不安だったが、今更戻ることもできないので前を行くロランにくっついていくしか他なかった。
 どのくらい経った頃だろうか、ロランが立ち止まって馬の手綱を木の枝に縛り付け始めた。それにならい、クリスも自分の馬の手綱を木に結び、二頭が不安にならないよう自分のランプを地面に置いて、先に茂みを掻き分けていくロランの後を追った。時おり雑草の根元を足で踏みつけているのは、クリスに道を作ってくれているからだろう。
 ありがたいが、ロランがこのようにアウトドアなことをするのが不思議だという気持ちがあり、クリスは未だかなり戸惑っていた。読書好きらしい彼はインドアなタイプかとてっきり思っていたのだ。迷いなく森を突き進んでいく感じからすると、そうでもないらしい。
 そういえば元は森の民だもんなと考えていると、前方にいたロランが立ち止まって振り返った。

「こちらです」
「着いたのか?」

 本当に砂浜などあるのかと半ば疑いつつ、足下に気をつけながらクリスが近寄ると。

「……う、わ……」

 少し急な岩と土の斜面の下に、おそらく昼間の陽の下では真っ白だと思われる小さな浜と、月明かりに神秘的に照らされる紺色の海が広がっていた。かろうじて海岸の全貌が分かるのは、円い月が低いところで大きく輝いているためだ。ゆらゆらと揺らめく水面が月の形を朧に崩し、ぼんやりとした光を放って浜を照らしている。
 心地よい波音を聞きながら幻想的な景色に見入っていると、ロランが先に斜面を降り始めた。足場を探しながら降りるのでついてきてくださいと言われる。
 クリスは、こんな美しい場所を教えてくれるうえ、ためらいなく先を行く頼もしい弓使いに感動し、思わず彼の後ろ姿に大声をかけた。

「ロラン、お前を惚れ直した!」
「さっさとついてきてください」

 見向きもせずつっけんどんに返してくる。照れているのだ。
 慎重に足場を確認しつつ降りていくと、すでに砂浜に降り立っていたロランが心配そうにクリスを見上げていた。あと二、三歩で砂の上に降りられるというところで、クリスはうずうずしてしまい、岩を蹴り、ロランに向かってジャンプした。
 驚いた彼はクリスをとっさに両腕で抱き留めたが、バランスを崩し、数歩後ずさると背中から砂浜にひっくり返った。彼が持っていたランプも一緒に砂浜に転がって火が消えてしまう。
 ロランが倒れることを予測していたクリスは彼に体重をかけないように受け身を取り、横にころころと転がる。

「ごめんロラン!」

 謝りつつも、その声に嬉しさは隠しきれなかった。ロランは、まったく……とぶつぶつ言いながら起き上がり、砂浜に座って髪や腕についた砂を払っている。
 クリスは早速ブーツと靴下を脱ぎ取ると砂の上に放り投げ、くるぶしまであるスパッツをぐるぐると巻き上げ始めた。ランプを拾っていたロランが隣で慌てている。

「クリス様! 海に入るおつもりですか。こんな気温です、凍えてしまわれます」
「大丈夫だよ、足だけなんだから。冷たい水にしばらく浸かっていれば温度にも慣れるさ」
「お風邪を召したらどうなさるのです。それに万一服が濡れたら……クリス様!」

 煩わしい男を置き去りにし、クリスは素足で浜を蹴ると波打ち際にばしゃばしゃと入り込んだ。つんざくような海水の冷たさがクリスの足を襲ったが、それよりもクリスはロランの秘密の海岸に来られたことが嬉しくて笑い出してしまう。

「冷たい! おいロラン、お前こんなところを今まで独り占めしてたのか!」

 海に浸かったまま限界までスパッツを上げて言う。説得を諦めたらしいロランは砂浜の上に座り込んだ。
 返事は無かったが、今はとりあえずはしゃごうとクリスは波打ち際をうろうろし、砂を足の先で掘り起こし、両手を海水に浸けて、足下に転がる珊瑚のかけらを沖に向かって投げるなどしてしばらく遊んでいた。他の誰も足跡をつけていない浜辺ほど贅沢な場所はない。好き勝手に波や砂や貝殻をもてあそび、狭い砂浜を囲む岩場まで行って石の隙間を覗き見たり、砂浜に戻って近くに生えている木の果実は一体なんだろう、食べられるのだろうかと手に取ってみたり、砂浜に足で無意味な文章を書いたりしていたが、じきに遊び尽くすとロランの方へと戻った。彼は相変わらず同じ場所に座って海を眺めていて、クリスが近くに来るとランプの火を付け直した。

「ああ、楽しかった」

 ロランの右隣に座り、足についている乾いた砂をぱらぱらと落とす。散々はしゃいで、スパッツも膝上くらいまで濡れてしまっていた。

「こんなに海で遊んだのは初めてかもしれないな」
「そうですか」

 先ほど問いに対して返事が無く、クリスが遊んでいる間にも何も言葉を発しなかったので不機嫌なのだろうかと思っていたが、彼は至って穏やかに「楽しそうで良かった」と微笑した。怒っていないことにクリスはホッとする。

「本当はけっこう前に見つけていて、クリス様にもお見せしたかったのですが、機会がありませんでした」
「私の特権ということか。すばらしい。どんな献上物よりも、こういったものの方が私は嬉しいんだ」

 ぱんぱんと砂のついた両手を払いながら、前方に浮かび上がる円い月を見つめる。

「綺麗だなあ。
 ロランは普段ここに来たりするのか?」
「まれに。時間があるときに、本を持って訪れたりします」
「贅沢すぎるだろ」

 言ってやると、ロランはすみませんと苦笑した。最近こういったやりとりに上手く応じてくれるようになった男に嬉しさを覚え、クリスは彼の腕に身を寄せる。

「いいな、こういうの。恋人同士みたい」
「……」
「城ではままならないからなあ。私はこんなにお前が好きなのに」

 本当は甘えたいんだよとシャツの袖を引っ張りながら見上げると、ロランは照れたのか顔をうつむかせて黙り込む。
 クリスは砂の上に置かれていた彼の右手を取り、そこに自分の左手を絡ませた。ロランの手は相変わらず冷たく、大きく、関節が骨張ってごつごつしている。弓を引いているためか、彼の右手には何度も皮がむけた跡があり、皮膚が硬く、分厚くなっていた。
 そういえば、彼はクリスの肌を愛撫する時、あまり右の手を使わなかった。代わりに左手か、右手の甲を滑らせることが多い。それは荒い皮膚が引っかからないようにするためだったのだと知り、クリスは切なくなって彼の指に何度か口付けた。
 ああ。
 自分は未だ何も知らないのだ。

「……クリス様?」
「愛おしい手だ。ゼクセンを守るために働く、美しい手だな」

 両手で彼の手を包むと、ロランは少し身じろぎしたが、抵抗はしなかった。彼はいつもそうだ、クリスのすることに抗うことはほとんどない。
 なんという受容の姿勢であろうかと、クリスは彼の二の腕に顔をすり寄せた。

「ロランは私を想ってくれているのだな」

 ぽつりと呟くと、ロランはクリスの左手をそっと包み込んだ。

「……伝わっていませんか」
「ん?」
「私が、あなたを想っていることが」

 その声に不安の色が混じっていたため、こんなふうなことを言い出すロランは珍しいと思い、クリスはかぶりを振る。もしクリスの気持ちに対し杞憂を抱いているのならば、それは訂正されなければならないと彼の手を握り返す。

「伝わっているよ。私は幸せな人間だとつくづく感じるさ」
「私は……」

 言いかけて唇を閉じる。言葉を探しているというよりは、言っていいのかどうかを迷っているときの態度だ。そのまま諦めてしまうこともあるので、これはロランの悪い癖だとクリスは思う。

「なんだ?」

 促すと、ロランは小さく嘆息した。

「いえ……私は贅沢者だと思いまして」
「贅沢者? どうしてだ」
「クリス様がこんなにも近くにいることは、以前の私には考えられないことでした」

 クリスと深く関わり合う前は、二人ともただの同僚であり、仲間であり、六騎士の面子であり、それ以上も以下も無かった。言葉こそ交わすが、心を交えることは皆無に等しかった。それは互いが互いの干渉を拒んでいるからではなく、そうする必要が無かったからだ。クリスの周りにはもっと近い人間がいたし、ロランはもともと一人でいることを好むため、特別他人を必要としていない。それは言葉にしなくとも、騎士団員として行動を共にする頃から両者分かっていたことだった。
 ロランはよくクリスのことを畏敬の対象だというが、クリスは、それは少し違うだろうと感じている。冷静さと客観を失わない彼は、クリスが他人を熱烈に求めていること、一人では生きてはいけないことをよく知っている。もしロランにとってクリスが女神のごとき存在だというのならば、そんな人間離れした存在が人間じみた寂しさや醜さを抱くことを良しとしないはずなのだ。クリスを高みへと押し上げるために、もっと厳しく、つらくクリスに当たっていたことだろう。それでも見守るように少し離れた場所で静かに佇んでいたのは、心のどこかではクリスが弱々しい人間の女であることを理解しているからではないのだろうか。

「……私はね、ロラン」

 彼の肩にもたれかかったまま、クリスは、ぼんやりと海を眺めて言った。

「たぶん、気になっていたんだ、前から、ロランのこと。紋章を宿す前から」
「そうなのですか?」
「うん」

 右手を月に向かってかざす。手の甲には、水を示す輪の紋様がある。波紋を表すその形は美しいが、あまりに正しく描かれているため恐ろしくも感じられた。

「この人は、どうしていつも離れた場所から私を見るのだろうと。周りにいる奴らが気さくだから余計にそう感じるのかもしれないが、何かこう……サロメとはまた違った眼差しで、私を見ているなと。何か遠くのものを夢見ているような、でも時々私を哀れんでいるような、憂えていて、穏やかで、静かな瞳だと思っていたんだ」
「そんなふうに……見えていたのですか」

 申し訳ないという口調だったので、クリスはロランを安心させるために繋いだ手をきゅっと握り、微笑した。

「私はお前の眼差しが好きだったよ。
 私が団長を継ぎ、六騎士と呼ばれ、ハルモニアとの戦争が起こっていた時にも、お前はずっと遠くから私を見守り続けていた。
 もし、な。もし、お前が戦の中で死んだら、本当に嫌だと思っていたんだ。お前のことを何も知らないままで別れてしまうから。私は後悔していただろう……するだろう、この先も。
 私は、そばにいて無言で私のことを守ってくれているロランのことを、もっと知りたいと思っている」

 だから最近少しずつだが知ることができて嬉しいんだと隣を見上げて笑いかけると、ロランはなぜか苦々しい表情でクリスを見つめていた。どうしてそんな悲しげな目をされるのか分からず、混乱し、首をかしげる。

「ロラン?」
「……いいえ」

 また何か言おうとして目をそらし、言葉を止めてしまう。クリスは焦燥に駆られ、咄嗟に口を開いた。

「嫌だ、言ってくれロラン」
「いえ……」
「言いかけて黙るのはお前の欠点だぞ」
「……」
「お願いだ」

 必死に訴えると、彼はクリスを一瞥し、繋がれた手に力を込めた。

「……私的なことです」
「私的? 構わん。私はロランが何を思っているのか知りたいんだ」
「私は何者なのかを最近考えるようになりました」

 言葉の意味がよく分からず、クリスは目を細めてロランの様子を窺った。ほとんど無表情に近いが、憂いのある面持ちをしている。手のひらから彼の緊張や恐れが伝わってくるような気がして、クリスは心配するなと寄り添い、膝を引き寄せて小さくなった。自分もまた、彼の体温を感じていなければどうしようもなくなってしまいそうだった。
 この男は遠い。クリスという人間を遠ざけて、自らもまた偉大な人間への遠慮か畏れからか引き下がろうとしてしまう。二人の間にある距離は縮んでいるようで実は変わっていないのかもしれない。愛していると伝えても、身体を重ねても、何をしても。
 滅多に得ることができない二人きりでいる機会ですら、愛しい男は何かに思い悩んでいるのだ。

「ロランは、ロランだろう」

 なんと返して良いのか分からず、懸命に言葉を探した結果がこれだった。
 ロランは薄く苦笑して頷いた。

「そうですね……」
「どうしてそんなことを考える? 私のせいか?」
「あなたのせいではありません。ただ私が、あなたに……」

 一度そこで躊躇して唇を閉じ、

「あなたに相応しい男かどうかを未だに自分自身で疑っているのです」

 小声ではあったが、はっきりと彼は言った。
 本心を耳にしたクリスは無性に悲しくなってしまい、ロランの前に回り込むと、その胸に身体を預けた。首に腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。

「まだそんなことを言うのか」

 ようやく絞り出した声は震えていた。

「なぜ、私とお前はこんなにも遠い」

 言いながら、自分がロランを責めてばかりいることなどどうしてできようと、深い自己嫌悪に陥る。ロランのことを何も分かっていないのに、どうか心を開いて欲しい、甘えて欲しい、私のことを受け入れて欲しいと希うのはわがままも甚だしかった。
 二人の間には見えない壁がある。男と女として愛し合っていることは確かだし、二人を隔てている何かを消し去りたいと互いが願っているのも確かなのだが、それがいったい何なのか、形が見えてこない。ロランがクリスや騎士団を崇拝する心だろうか? あるいは理解力が乏しいクリスが原因なのだろうか?
 分からない。自分の無知が悔しく、呻き声を漏らし、きつくロランの身体にしがみついた。ロランは、クリスの背中にゆるく腕を回してはくれるものの、抱きしめ返すことはしない。
 そんな態度はやめてくれ、ロラン。
 恐怖で胸がいっぱいになり、助けてくれと悲鳴を上げたかったが、彼に軽蔑されるのではないかと思うとできなかった。代わりに、すまない、と謝る。なぜかは分からないが、彼に申し訳がなかった。

「なぜ、謝るのですか」

 静かに問われ、クリスは首を横に振った。なんでもないんだと声に出したいが、どうにも息が詰まってできない。
 それに気が付いたのか、ロランがゆるゆるとクリスの髪を撫で始めた。慰めてくれる大きな手のひらが切なく、嬉しく、哀しくて、彼の首元に顔を埋め、呼吸を整えるため深く息を吸う。

「すまない……ロラン」

 何度も繰り返す。

「すまない、すまない……」

 何がこんなにも苦しいのか、胸が痛いのか、クリス自身にもよく分からなかった。ロランはクリスの頭を愛撫し続け、クリスが謝るたびに、もういいのだと小さくかぶりを振った。
 どうかそんなに恐れず、私を抱きしめて欲しい、強く、強く。
 言葉にしたい。しかし、できない。もし彼が拒否をしたら、自分は姿の見えない悲しみで潰されてしまうかもしれなかった。





 ブラス城に戻るため、暗い森を馬と共に歩きながら、二人はぽつりぽつりと他愛もない話をしていた。海岸で深刻な会話を交わした後だったが、クリスがどうにかいつもの調子を取り戻しロランの心が安まるようにと明るく振る舞うと、彼もその努力に応えようと小さく笑ったり冗談に返したりしていた。

「海岸ではしゃがれるクリス様は、まるで月から降り立った天女のようでした」

 さらりと言われたのは何かの逸話で耳にしたことがある表現だ。ロランは真面目なのが幸い、あるいは災いしてか、かなりロマンチックな例えを迷いなく引っ張り出してくることがある。しかも、それを口に出すことに羞恥をまったく抱いていないようだった。
 言われる方はくすぐったくて仕方がないのだがなと思いつつ、クリスはそんなことはない!と強気に返した。

「単に子どもなだけさ」
「子どもかもしれませんね」
「……実際に言われるとちょっとへこむな」
「愛くるしいと褒めているのです」

 隣で見下ろしてくるロランににこりと笑まれ、頬が赤くなるのを予測してクリスはパッと顔をそらした。どうせこの暗闇では互いの顔色など分からないのだが。

「ロラン、その顔は反則だぞ」
「はい?」
「最近ちょっと強気になったよな」

 純粋に悔しいのだと漏らすと、ロランは得意になったのか歩きながら少し腰をかがめ、クリスの額に小さな口付けを落とした。