ベルテッセン   花言葉は「高潔、あなたの心は美しい、精神の美」





 バシ、と鋭い音がし、鏃が的のど真ん中に命中すると、周囲から歓声が上がった。弓の持ち主はゆっくりと武器を下ろしてその場からきびすを返す。近くに控えていた弓兵の隊長らにいくつかの言付けをして、訓練場から遠ざかり、練習用の弓と矢を見習い兵に預けてブラス城内へと戻る。
 グローブを外しつつ廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。

「見ていたぞ、ロラン」

 興奮した様子で言いながら寄ってきたのは、クリスだった。長髪を後ろで束ねた甲冑姿で、足を前に出すたびにガシャンガシャンと金属音がする。男性用には及ばないものの十キロ以上あるアーマーを身につけ自由に身体を動かせるのだから、この女性の筋力は並大抵のものではない。痩せ気味に見えるのは、無駄な脂肪が無く、ほとんどが筋肉で構成されているためだろう。
 ロランは軽く頭を下げ、隣に並んできたクリスを見下ろした。

「クリス様。お恥ずかしい限りです」
「すばらしい手本だった。弓兵たちの顔を見たか? 驚嘆の眼差しだ」

 彼女もまた訓練生たちの手本になってきたのか、汗を掻いて頬を赤くしている。ロランは、そんな彼女の表情を盗み見るのが好きだった。戦う女性がもっとも美しく映える瞬間だ。

「お前ほど完璧に弓を扱える男はこの先現れまい」
「恐れ入ります」
「ところで」

 クリスは少しロランに身を寄せ、近くに誰もいないかきょろきょろと確認してから、なぜか声を潜めた。

「今夜お前の部屋に行ってもい」
「駄目です」

 即答だった。
 クリスの半眼がロランに突き刺さる。
 ロランはしれっとして前を向き、長い脚ゆえにクリスが到底追いつかない歩幅でぐんぐんと歩いていった。ま、待て!というクリスの必死な呼び声が聞こえたが無視し、一度休憩を取るために宿舎の方へと廊下を進む。

「ロランっ」

 タセットを後ろから引っ張られ、ロランは思わずよろめいた。振り返るとクリスが唇をムッと噛んでこちらを見上げている。
 可愛いと思ってしまったのは脇に置いておき、現在は仕事中であると自分を戒めて怪訝な顔した。

「クリス様……以前から申し上げているように」
「話があるんだ。今夜いいか?」

 小声で言うクリスは真剣な眼差しをしていた。彼女がふざけているわけではないと悟り、ロランは戸惑いながらも頷く。

「……分かりました。ですが、私の部屋、というか男性宿舎は駄目です。中庭はどうですか」
「外もまずい。誰かが見ていると嫌だ。だからといって私の部屋も困る」

 そのくらいしか選択肢がないのではと困惑したが、何か事情があるようなので、考え込むクリスが答えを出すのを黙って待っていた。そのうち彼女はやむ終えないといった様子で、

「今晩、皆が寝静まった頃にゼクセに行こう……」

 と、暗い声で呟いた。首をひねったものの、ロランは頷いて承諾した。





 日付が変わる頃、ロランとクリスはブラス城の裏口から密かに馬を出した。クリスの馬は白いため夜には目立ちすぎ、だからといって馬が二頭出ると二人で外出していることがばれる可能性が高いので、一頭の馬に二人乗りをしている。
 前にまたがる口数の少ない彼女の後頭部を眺め、一体我らが騎士団長はどうされたのだと心底疑問に思いつつ、ゼクセに向かうためゼクセンの森に馬を走らせた。クリスの持つオイルランプ以外に明かりなど無いので、ほとんど勘を頼りに走っている状態だ。こういった場所での方向感覚に優れているのが幸いだった。
 森を通過する間にも、クリスは一言も喋らなかった。自分は良いとして、明日も仕事であるし、この冷えるなか外出してはクリスが体調を崩すのではないかと心配したが、頑固な彼女のことだ、今日は止めにしましょうと言っても聞かないに決まっている。だから初めからロランは何も言及しなかった。
 ゼクセに着くと馬を留め、二人は街路に入った。もはや人々はぐっすりと寝ている時間帯だ。時おり野良犬や野良猫、酔っぱらいが歩いている程度で、人影は皆無に近い。
 コートを羽織っているクリスは無言で道を突き進んでいた。彼女の揺れる長い銀髪を後ろから眺め、一体どこへ行くつもりなのだろうとロランは考えていたが、自ら話しかけることはしない。
 しばらくしてクリスは一軒の大きな家の前で立ち止まった。道を辿っている間、まさかとは思っていたが、そこは彼女の実家だった。

「……クリス様」

 家人が起きないように配慮してか、鍵を取り出し慎重に門を開けようとしている。おそらく使用人にも帰省のことは話していないのだろう。

「クリス様」

 理由を問うために名を呼ぶが、彼女は「静かにしろ」と言って聞かない。門を解錠し、迷いなく玄関に行くと、再び鍵を差し込んで扉を開けた。
 何を考えているのだと、相手にしようとしないクリスにロランも腹を立て、邸宅の中に入ろうとする彼女の腕を掴む。

「お待ちを。クリス様、私はここには入れません」
「入るんだ。そのために来たんだからな」
「できません」
「他に人目に触れない安全な場所といったらここしかないんだ。いいか、私を苛立たせるな」

 低い声に怒気が含まれている。ここで彼女を怒らせても無意味であるし、寝ている使用人が起きてしまえば言い訳に困る。ロランは溜息をつき、しぶしぶクリスの後に続いた。
 クリスは扉に内側から鍵を掛けると、靴音を立てずに邸内を歩き始めた。邸の構造など知らないため彼女にくっついて行くしかほかない。
 邸はどうやら二階建てのようで、シャンデリアのあるロビー正面の階段から上の階に行けた。暗い階段を上がり、二階の右の通路を行くと、左手には窓、右手にはずらりと扉が並んでいる廊下になった。クリスひとりで抱えるには大きすぎる邸だと気の毒に思う。
 月明かりだけが差し込む通路を進み、一番奥から二番目の扉の前に来ると、幸い鍵のかかっていなかったその部屋にクリスは迷いなく入っていった。ロランは、開放された扉の前で立ち止まったまま足を踏み入れなかった。邸に入ったときから嫌な予感を抱いていたが、ここはおそらくクリスの私室だ。
 どうした、とコートを脱ぎながら部屋の真ん中でこちらに振り返っているクリスを、ロランはきつく睨みつけた。

「……なんのご冗談ですか」
「冗談? 冗談でここまで来るか阿呆」

 潜められた声ではあるが、かなりの焦燥と苛つきが混じっている。とにかく中に入れというクリスに、それでもロランは従わなかった。
 煮えを切らしたクリスはずかずかとロランの前に進み、無理矢理腕を掴んで部屋の中に引きずり込んだ。すぐさまドアが閉められる。

「クリス様!」

 低く唸ると、クリスもまた鋭い目でロランを睨み返した。

「……これは命令だ。業務の一環だと思え」

 業務だと? クリスらしくない台詞にロランは眉を寄せる。クリスはロランを見つめたまま黙っていたが、疲れたようにゆるくかぶりを振ると、暗い部屋を歩き、ベッドに乱暴に腰掛けて頭を抱えた。
 様子がおかしい。
 あまり彼女の私室を歩き回りたくはなかったが、妙な態度を放っておくわけにもいかず、彼女の前まで進むと、そこに跪いた。

「クリス様。一体どうなされた」

 下から覗き込むようにして訊く。クリスは今にも泣き出しそうに険しい顔をしていた。スパッツをはいた膝の上に置いた手が震えているのに気付き、ロランは片手でそれを覆う。

「クリス様?」
「……朝……」

 ぽつりとクリスは呟いた。

「問われた。ボルスとパーシヴァルに。
 ロランと、どういった関係にあるのかと」

 震える言葉にロランは少し驚いたものの、そういう事態が彼女に降りかかることを予測していなかったわけではないので、冷静さは失わず、そうですかと頷いた。
 クリスは唇を噛み、何かを思い出してそれに耐えようとしていたようだが、つらくなったらしく目を閉じてふるふると首を振った。銀の髪が絹糸のように揺れる。

「……あまりよくは思っていないようだ」
「それはそうでしょう。彼らもまたあなたを慕う者たちだ」
「どうしてだ?」

 悲痛な表情でロランを見やり、

「やはり私は偶像でなければならないのか?」

 問うてくる。
 クリスのひどく傷ついた面持ちを見て、ロランの胸は静かに痛んだ。かすかな声で名を呼ぶと、倒れ込むように肩に頭を載せてくる。

「悔しい……。私は、お前を好いたことで批判されるのか? そこまで我が騎士団は私に対して厳格なのか?」
「……」
「私は懸念しているのだ」

 苦しげに息を吐いたクリスはロランの片手を探り、そっと指を絡ませた。

「お前が周囲から非難の目で見られることを」
「……」
「もしかしたら、彼らからもう何か言われたかもしれないな。だとしても、お前は決して私に言わないだろう。すまない……」

 ロランは、落胆した様子で囁くクリスの頭を掴まれていない方の手で抱き、彼女の髪にそっと顔を寄せた。さらさらした銀髪が冷えていて胸がどうしようもなくざわつく。
 哀れだ。
 同情の気持ちが心に溢れる。

「クリス様。私のことは気になさらなくて大丈夫です……」

 クリスを取り巻く者たちが、騎士団長のスキャンダルを厭がる理由はただ一つ、彼女に何者にも平等であって欲しいと願っているからだ。そして彼女を好いている男たちにとっては、クリスは、手に入らないのならば誰の手にも届かない崇高な存在になって欲しいと希う対象なのである。
 かつてのロランもそうだった。だから自分は彼女を責め立てる者たちを批判することはできない。
 だが、己がクリスに想われる立場になって、ロランはようやく気が付いた。自分はかつて彼女に、騎士団の威光を守り続けるためにゼクセンの象徴であれ、そのためには誇り高い態度を貫き、容易に相手に対し自嘲的になってはならないと、直接それらの言葉では言わないものの、遠回しに戒めていた。ゼクセン騎士団の中では強くそう考えていた部類だろう、だからパーシヴァルは以前「お前らしくない」と食堂でロランに向かって吐き捨てたのだ。
 クリスがゼクセンの象徴であることを否定するようになったのは、彼女が銀の乙女ではなくただの人間として、ひとりの女性として、ロランの前に在りたいと望んでいることを知らされてからだった。彼女は英雄ではない――無邪気で、時に幼く、愛の枯渇に苦しむ幼い少女のような人間だった。
 無論、一方では、クリス・ライトフェローは上に立つものとしての高潔さを持ち合わせていなければならない。それは決してぶれてはいけないゼクセン騎士団の信条そのものとなっている。彼女の揺らぎは騎士団のみならず連邦全体に影響してしまうだろう。クリスと代替が可能な者が現れない限りは、現在立て直しの状態である連邦から英雄的存在となった彼女を失うことはできない。
 ――しかし。

「私のために胸を痛める必要はありません。それは、私の苦しみとなります」

 象徴らしさと人間らしさを併せ持つということは、ひどく困難な理想論なのではなかろうか。
 ロランも、おそらくクリスも、そう思い始めていた。

「ですから……」
「……もういい」

 ロランの肩に額をつけたまま、クリスは自嘲的に笑って遮った。

「いいんだ。たとえ否定されようとも、私には“ふさわしくない”と言われようとも、私自身にすら自分の想いをどうしてよいのか分からないのだから、しょうがないさ」
「……」
「なぜ騎士たちや市民らが私をそんな崇高なものとして扱うのか……私には未だに理解できんが」

 それはおそらくクリスの持つ天性の存在感と美しさゆえだろう。彼女が彼女であること自体が苦しみの根源になってしまっている。そればかりは、ロランにも彼女自身にもどうすることもできない。
 苦い思いがじわりと心の中に広がっていく。苛まれる彼女に何かを言ってやりたかったが、相応しい言葉など見つからなかった。
 ロランが少し身体を動かすと、クリスはゆるゆる顔を上げた。その白い頬に涙が一筋滑り落ちるのを見て、刹那、ロランの飽和していた胸は、はち切れた。