半ば無意識にクリスの名を呼び、ベッドに押し倒す。細い両手首をつかみ、ぐっとシーツに沈ませる。
 涙のにじむ透きとおった瞳がロランを見つめる。
 クリスは抵抗しなかった。
 掠れた声で、ロラン、と呼ぶ。それはまるで弱々しい子猫が愛情を求めて鳴いているかのように。
 ロランは静かに返事をする。私は変わらずここにいますと応えるために。
 唇に口付けをすると、彼女は目を閉じてそれを受け入れた。
 彼女の温度が唇を通じて伝わってくる。
 愛しいというよりも哀しいという気持ちの方が強く、伝わってくる。






 どうしたらよいのだろうと、ロランは彼女のしなやかな身体を抱きながら考えていた。
 汗のにじむ白い肌は紛れもなく人間のものだが、ベッドの上で光るように浮かび上がっているその様は、この世の者とは思えないほど神秘的で美しい。
 かみ殺しきれないあえぎ声は生々しいほど人間のそれだが、自分にはまるで天上から降る心地よい音楽のように聞こえる。
 生理的に潤んでいる瞳もまた人間の本能によるものだが、その視線は真理を貫き、何かを憂えているかのごとく高潔だった。
 自分ですら。
 自分ですらそう思うのだと、ロランは痛む心を隠し、彼女を何度も愛撫した。
 彼女は、汗ばんだ手のひらをロランの身体に這わせて応え、声なき悲鳴を上げている。
 私を見て、私は人間なのだ、と。
 そうしたいのに、完全にはそうできない自分がいる。そして彼女もそれを悟っている。
 すまないとロランは思う。ロランもまた、自身の恋慕と畏敬のせめぎ合いをどうしてよいのか分からなかった。
 だが、それはきっと、仕方のないことなのだ。彼女が葛藤するのと同じように。

「ロラン」

 心地よい、少し低い声で名を呼ばれる。
 はいと返事をすると、彼女は額に汗を浮かべ、悲しげに微笑んだ。まるで聖母のようだと感じる自分に深い罪悪感を覚える。
 恍惚と崇敬の気持ちを殺しながらロランも同じように笑み、深く唇を合わせ、舌を絡ませる。荒い息が二人を高みへと連れて行く。
 今だけは彼女を人間にしてあげたい。そうしてあげなければならない。
 ロランは彼女を強く貫く。彼女は跳ねるようにそれに応える。
 月明かりが二人を照らす。二人の白い肌がぼんやりと光る。
 ここならばきっと誰も来ないからと彼女は欲望に身を焦がしながら泣く。
 今だけはと、泣く。





 朝焼けの時刻、ロランの胸に頭を置いて寝そべっていたクリスは、大きな窓から空を見上げた。

「朝日が昇る……」

 気怠そうな声に、ロランはクリスの髪をゆっくりと撫でてやった。彼女は身じろいだが、心地よかったのかそのまま身体をじっとさせている。
 最中も、事後にも、彼女は散々泣いた後だった。

「戻らなきゃな……」

 呟かれた言葉に気力は残っていない。ぐったりしているクリスを気の毒に思い、提案する。

「今日は、お休みになられてはいかがですか」
「休む? 仕事をか。お前はどうする」
「私は出勤します」
「お前が出るのに私が休む道理はない」

 寝そべったまま強い口調で言い張る彼女に反発することを、ロランはしなかった。
 クリスの白い肩が露わになっていたので、乱れていた毛布をぐっと引き上げると、彼女は身を起こし、胸を這い上がってロランの首もとに顔をうずめた。自分で毛布を引っ張り、頭から被るような形になる。
 このまま寝たいんだという、どう考えても実行できないクリスのふて腐れた言葉に、それはいたしかねるとロランは溜息をついた。

「あなたのご実家ですからあなたは良くても、ここにいる私の存在はどう説明するのです」
「でもずっとこのままでいたい」
「二人で欠勤では確定要素になってしまいます」
「分かっているさ……お前は本当に真面目だよな、ロラン」

 甘えたいのか、ぐりぐりと頭を押しつけ、長い耳を遊び道具にして引っぱったりしている。いつもの彼女の調子が戻ってきたことに、ロランは内心ホッとした。
 上に載っているクリスの細い身体を両腕で抱き、肩に何度か口付けを落とす。

「ん……ロラン」
「はい」
「私、とても幸せだったよ。お前に抱かれているとき」

 ふふ、と微笑して彼女はロランの肩に頭を載せ、人差し指で鎖骨をなぞってきた。少しくすぐったいが我慢して、そのままにさせておく。

「そうですか」
「ロランは?」
「幸せでした」
「そうか」

 嬉しいな、と言うクリスの声が本当に嬉しそうで、ロランは安堵感に目もとをほころばせる。どうやらクリスは初めてだったらしく、かなり痛がっていたので心配していたのだが、嫌だったわけではないようだ。自分が最初を奪ってしまったのが嬉しい反面、申し訳ないと思う。
 しばらく沈黙が続いたが、またブラス城に戻らねばならないことを思い出したのか、ああ!と嘆いてクリスは首に絡みついてきた。

「ロラン、どうする。城ではもうすでに門番が起きているぞ。二人で帰ったらまずい」
「時間差というわけにもいきませんね。馬は一頭しか連れてきておりません」
「ここで借りるか……でもなあ、なんでゼクセの馬で帰ってくるんだという話になるよな。
 はあ……もう少し早く帰るつもりだったんだが」

 こんなことになってしまったし……と唇をすぼめてじっと見つめてくる。咎めているのではなく甘えているクリスの仕草に、ロランはふっと目をそらし、意地悪のつもりで言った。

「てっきり合意のうえかと思ったのですが……」
「そりゃ合意だよ! ……まったく、お前、最近人間臭くなったな。エルフならエルフらしく人間のユーモアなど分からんでいればいいものを」
「郷に入りてはといいます」

 反撃するロランが不満だったらしく、ぶつぶつ言いながら両の耳たぶを引っぱっている。近頃のお前はつまらんと理不尽なことを言ってくる彼女に、ロランは可笑しくなって少し笑った。

「可愛らしかったですよ」
「ん?」
「私の名を一生懸命に呼んでくださって」

 最中のことを言われているのだと気が付いたクリスは途端に顔を赤くし、ばか!と弱い力でロランの頬を叩いた。ぺしぺしと何度か叩いたら今度は耳の先を引っぱり、鎖骨を前歯で軽く噛んでくる。まるでいたずら好きの動物のようだ。

「うるさい! 覚えてない。夢中だった」
「私もだいぶ翻弄されてしまいました」
「黙ってろ」

 ついでに頬を引っ張ろうとするが、あいにく痩けているのでうまくつまめなかったらしい、諦めて、ふてくされたようにロランの胸に頭を置いた。
 気に入ったのかは知らないが、この体勢から動こうとしない騎士団長に、刻一刻と過ぎていく時間が気になりだしてロランは問う。

「クリス様、そろそろ出なければ。この邸の方々も起床されるでしょう」
「……」
「先にクリス様が馬で城に戻られてもかまいません。実家に戻っていたと説明すればよろしい。私は時間差で後から遅参します。言い訳は適当に考えますから」
「ロラン」

 クリスは急に顔を近づけると、唇にキスをしてきた。いきなり何なんだと怪訝に思ったが、拒んだら拒んだでまた文句を言われてしまっても困るので、何も訊かず、それに応える。
 何度か角度を変えて唇に吸いついたのち、クリスはロランを解放した。ロランの上から身体をどけ、毛布を肩から羽織り、ベッドの上にぺたりと座る。

「……これから先も」

 クリスは、無表情でロランを見下ろした。

「また、私をこのように受け入れてくれるか?」

 真剣な調子の問いに、ロランは少し口を閉じた後、頷いた。

「ええ」
「私が求めたとき、それに応えてくれるか」
「はい」
「ロランもまた求めてくれるか、私を」

 その問いについては素直に肯定しがたいと思った。
 しかし、それは自分が周囲から非難されたくないというエゴかもしれなかった。想う人間から求められることがこんなにも嬉しいのに、いくら上司と部下の関係があるからといって、自分が責めを負いたくないがゆえにクリスにばかり求めることを望んでは不公平だ。周囲から咎められる対象がクリスだけになってしまう。
 表情にこそ出ないものの、迷っているロランに気付いたのか、クリスは不安げにロランの頬を撫でた。ロランは彼女のその手を取り、細い指先に数回口付ける。

「求めても、よいのですか」

 唇を人差し指に触れさせながら、クリスを見つめて問う。彼女は少し恥ずかしそうに睫毛を伏せ、うん、と小さく頷いた。

「……私が求め、お前が求め、互いがそれに応えられるのなら。
 私はこのままでもいいよ」

 微笑し、クリスは言った。ロランは少し驚いて目を見開く。

「クリス様……」
「お前が私を敬い、奉り、人の上に押し上げることが、お前の騎士としての務めであり、お前の信条で、このゼクセンのためだというのならば、私にはそれを咎めるいわれはない。そして私も、騎士として、それが嫌だからと逃げ出すことはできない」

 静かに、だが少し憂いを含む調子で言葉を紡ぐクリスのこめかみを、ロランは伸ばした手のひらで撫でた。
 彼女は今にも崩れ落ちそうな笑みを浮かべている。

「我らが騎士としてある一方、私たちがただの人間として愛し合えるときがあるならば、たとえ誰が私を非難しようが、私にはもうこれ以上望むことはないんだ」

 ロランは身を起こし、シーツの上に座ると、クリスを正面から見つめた。彼女も紫の視線でロランの両目をとらえ、沈黙する。
 ああ美しい瞳だとロランは思う。
 彼女の身体を抱きしめようとした腕が震えているのを恥じて戸惑ったが、クリスはそれを許すように自らロランの胸に身体を倒した。
 ロランは長い腕で抱きとめる。クリスもまた背中に手を回してくる。
 首元に唇をあて、彼女の華奢な身体を強く強く抱きしめた。

「……私は、あまり表現が豊かではありません」

 耳元で囁く。

「しかし覚えていてください。私があなたを愛しているということを」

 自分の放った言葉の重さに目眩がして、ロランは瞼を閉じた。
 彼女と愛し合うことは罪ではなかろうかと、未だに自分はおそれている。彼女に愛され、彼女を抱き、最も近い位置に立った今ですら。それは拭おうとしても拭いきれない騎士としてのクリスへの畏敬の念から起こるものだ。
 彼女は高貴すぎる。まるで手の届かない存在であって欲しいと願う自分もいる。しかし愛する女を手に入れたいと欲望する自分もいる。

「覚えているよ、ロラン」

 騎士であり人間の女であり、その秤の公平さを保ったまま騎士団の上に立つ者として君臨し続けることを彼女はこの先も選び続けるのだろう。
 天上の女神であることをゼクセンのために、ただの人間の女であることをロランのために。
 その両立は過酷だ。なぜなら愛し合う二人は世界に二人きりというわけではない。両立が良いと思うものもいれば、悪いと思うものもいる。
 率いる者は孤独であることが常であるように、本当はクリスも孤高であった方がゼクセンにとっては良いのだろう、不老の力を宿してしまった今は、なおさらに。
 しかし。

「どうか」

 ロランが愛したのは騎士としてのクリスだけではないはずだ。

「共に、時を過ごしましょう。いつか命尽き果てるときまで」

 言葉に、クリスが腕の中で頷いたのを感じ、ロランは少し泣きそうになった。





 結局、この日、体調が優れないという理由で騎士団長は仕事を休んだ。実際に疲弊しており、ベッドから立ち上がるのもしんどそうだったため、ロランが無理矢理に寝かしつけたのだった。
 クリスの邸の者にはばれてしまったが(夜中からばれていたらしい)、詳しく話さなくとも寛容に受け止めてくれた。元よりクリスの過酷な人生を幼い頃から眺めていた使用人だ、むしろ女性としての幸せをようやく手に入れることができたのだと感激している様子で、ロランが羞恥で居たたまれないほどだった。
 一方、ブラス城では、クリスが不在かつ六騎士ロランが馬で朝帰りをしてきたという噂が瞬く間に広がっていき、何度か城の人間に理由を尋ねられたが、そのたびロランはこう答えていた。「騎士団長に頼まれて実家に送り届けただけだ」と。
 それ以外は一切話さなかった。おそらく大体の者が予測していることが実際に二人の間には起きていたわけだが、天然のポーカーフェイスかつ口の堅さが鉄壁並みのロランにしつこくする輩もおらず、意外に事もなく一日は過ぎていった。
 のちに復活したクリスにその時の様子はどうだったと訊かれ、特に何も無かったと答えると、さすがだなとクリスは誇らしげに笑った。